隣 人 ノ 憂 鬱 -50ページ目
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昼待テド未ダ遠ク

お腹がすいた。


朝ご飯を食べないせいか、10時を過ぎた頃から空腹のピークを迎える。30分後には気分が悪くなり、1時間後には目がまわりだす。そんな中、ただひたすら12時を待つ毎日がとてもツラい。

お昼ごはんは10時にすべきだと思う。すると12時にはお腹が減らないので、午後3時頃にもう一回食る。午後3時のご飯時間は、午後ご飯と呼ぶことにしよう。あとは夜ご飯を8時~9時頃食べる。


AM10:00お昼ご飯(午前ご飯) → PM3:00午後ご飯 → PM8:00~9:00夜ご飯
ピッタリだ。どう考えても現代人にピッタリの時間配分だ。ほれぼれする。

それにしてもアレだな、お昼はまだだろうか?

オオカミが来た。

子供の頃、オオカミが来たと嘘をついた事がある。


日本オオカミは絶滅したのよと、優しく先生に諭された。
あの言葉がなければ、今頃町内会にすら入れてもらえなかったかもしれない。


本の読みすぎは、社会生活に支障をきたす場合があるので注意が必要だと知る。

枕というものは。

まくらがあわない。


いろいろ試してはみたけれど、自分に合った枕って、なかなか無いもんだと思う。高さだったり、硬さだったり、ほんの少しの違いなんだろう。寝るというコトは3大欲の1つだけあって、かなりデリケートなモノなんだな。


そう考えて見ると、昔の人はすごい。時代劇なんか見ていると、常軌を逸した高さの枕がよく登場する。黒板消しを3つ重ねたくらいはあるはずだ。女の人は髪を結っていたから、さらに高くなっている。すなおに寝れば、確実に首は90°に曲るはず。


そんなふうにならないよう、昔の女の人は、ふんばっていた。きっと毎晩ブリッジだった。腹筋にたまる乳酸と戦い、明日耕す畑に思いをめぐらせ、ぷるぷると震える全身を精神力でねじ伏せ、ただ静かに夜の匂いを感じている。


耐えることが美徳だった頃のお話。

超人からの贈り物。

自宅のドアの前にカキが落ちている。


カキはとても熟れていて、と言うより半分腐っていて、コロンブスが無理矢理たまごを立たせた状態で床に突き刺さっている。その姿は、なにか偉業を成し遂げた後にも見えてくるから不思議だ。周りを見渡してみる。カキの木などどこにもないし、ドアの前は通路で、上は天井になっている。このカキは何処からやってきたのだろう?


もしかすると、ボクの留守中にサイババがやって来たのかもしれない。ボクにプレゼントをと、カキを出してくれたサイババ。気を利かして食べごろをと思ったサイババ。しかし予想以上に熟していたサイババ。思わず手を滑らすサイババ。あ、ヤベッ・・みたいな顔をするサイババ。逃げるようにその場を立ち去るサイババ。帰りの電車の中で、ま、いいやと思うサイババ。ありがとうサイババ。また来てねサイババ。


カキはボクが捨てておいたので、気にしないで下さい。

頭痛持ちの悩み

よく頭が痛くなる。


頭が痛い時は、思考能力が半減する。もしかするとそれ以上に落ちているかもしれない。もし、生まれてから一度も頭痛がなければ、もっと頭がよかったかもしれない。もしかしたら、何かとんでもない発明をしていた可能性もゼロではないはずだ。


ボクが一般人な理由も、曹操が三國を統一出来なかったワケも、全て頭痛が悪い事がわかった。
ちょっと驚いた。

どんぐり

ちょっとした用事で、山の中にある別荘地へ行ってきた。


道端には、沢山のどんぐりが落ちている。おしりにキャップの付いたどんぐりを拾い上げてみると、キャップとは反対側の先端から細い芽が出ていて、少しだけ土の中にもぐっていた。ふと顔を上げてみると、目の前には大きなどんぐりの木がたっている。


こんな小さなどんぐりが2階よりも高い木になるなんて、ちょっとだけスゴイと思う。パンダの胎児が大人パンダの大きさになったくらいでビックリしていられない。どんぐりも生きるコトに一生懸命なんだ。人にぶつける道具ではないコトを今日知った。

病イマダ癒エズ

毎日日記やブログを書いている人はスゴイ。


よくもまあ、そんなに題材があるもんだと思う。自分は極端に話題が少ない。夏休みに書いた小学生の頃の日記を読み返してみると「朝、目覚まし時計の音で起き、その音はとても大きかったが、またすぐ寝ることが出来た」というような内容が2ページにわたりみっちり書き込んであった。


その翌日の日記は「母に買ってもらったお菓子がとっても美味しかった」という内容で「とっても」の部分を30数回続けざまに書き込んでいる。感極まって「とっても」を連呼したとは到底考えられないので、これは明らかに行かせぎだろう。情けなさを通り越し、何か愛おしささえ感じはじめている自分がコワイ。


正直にいうと自分が書いたものだとは認めたくない。認めたくはないが自筆であることは疑う余地もない。もしかすると、当時何らかの病気だったのかもしれない。そんな不安を胸にしつつ、今自分が書いているものを読み返してみる。


病気はまだ完治していないコトがわかった。

そういえば宿場町

とある宿場町へ行って来た。


宿場町といっても家屋などは一軒もなく、昔ここが宿場町であったことを伝える白く塗られた木製の碑が、杉林の中にたっているだけだ。そこへ続く道は車一台やっと通れるような狭い山道で、あまり整備もされておらず干上がってむき出しになった川底のようだ。


宿場町跡は、なんせ跡なもんだから見るようなモノはなにもなく、着くより早く飽きてしまう。仕方がないので、川底のような道をもう少し先へ進んでみる。少し行くと左側に突然地蔵の集団が現れる。これはまずい、見えないフリをするしかない。


気持ち右側を向き加減でもう少し先に進むと、今度は小さい滝の上に仁王像やらお札やら鏡やら、日常生活ではありえない組み合わせが「これでもか」と存在を主張している。どうしたらいいのかわからないので、とりあえず半べそをかいてみるが全く何の解決にもならない事を悟る。


薄目をあけてさらに進むと、鳥居の奥にずーーっと上まで苔むした細い階段を発見。あの世の入口としか思えないたたずまい、思わずウソ泣きするのを忘れてしまうほどの恐怖だ。トラウマをかかえながら何かに誘われるかの如く更に先へ進む。もう自分では立ち止まる事が出来ない。


すると右手前方に小さな立て札がポツンと佇んでいる。「史跡 石畳」そう書かれた立て札は、雨風に晒されながら、まるで土へ帰る日を待っているように見える。立て札から目を移してみると、地面に埋め込まれた石があった。今ではとても石畳と言えるほどのものではないが、なにかグッとくるモノがある。


200年、300年の昔、この道を通り、いろんなモノや思いがあの町を訪れたのだろう。旅の商人、お侍さん、手紙に疫病、幸せだったり災いだったり、そしてボクも、みんなこの道を通りやって来た。今は何一つこの町に留まってはいない。この道の続く先に行ってしまったんだろう。


さて、そろそろ帰ろう。しかし地蔵の前は通りたくないな。地蔵だけ見えなくなるメガネってないものか。NASAとかにならありそうだ。


在庫があるとうれしいが、問い合わせ方を知らない。

帰らざるツクネ。

スーパーの駐車場にある露店でツクネを買った。


ツクネは丸くて、クシに3こささっている。こらえ性がないので、買ったその場で食べ始める。あはは、うまい。1本120円のつくねから伝わってくるその味は優雅で清楚、気品の高さを漂わせながら、まったりこってり、ややしつこい。


クシの先を自分に向けながら、1こめ、2こめと食べてゆく。3こめにさしかかった時ハッとした。クシが長すぎて、この食べ方ではツクネに届かない。ツクネに行き着く前にクシの先がノドに刺さってしまうことは確実だ。


これはいけない。ツクネにアプローチする方向を変えてみる。クシを寝かせ、自分と平行にする。そして、3こめのツクネを、歯と唇を巧みにつかい、少しずつ先端へと押し出していく。この方法ならば安全で確実のはずだった。


さあ、そろそろ食べようかと思った瞬間、ツクネはクシを飛び出して、アスファルトの上をコロコロ、コロコロ転がっていく。幼い頃に読んだ「おむすびコロリン」という昔話を思い出した。


もしどこかにネズミの巣穴があってツクネがその中に転げ落ちれば、ネズミの恩返しが期待できる。近年開いたことのないほど目を見開いてみたが、当然巣穴などない。巣穴どころか穴すらない。


さすが日本の土木技術だ。完璧なまでの舗装状態に関心していると、ピョンピョンと黒い影がどこからともなく現れた。ツクネはネズミではなく、カラスがくわえて飛んでいってしまった。


どこを見ているのかさっぱり分からないカラスの目を見ながら、カラスって恩返しとか興味なさそうだなと思う。きっと都合の悪いコトは全部忘れるタイプだろう。ある意味うらやましいところではあるが、なんとなく腹が立つ。


ボクは、ボクのツクネがボクのツクネじゃなくなる瞬間を見た。そういえば先日、被害者の家族が実は加害者だったってニュースを見た。表が裏になったり、明が暗になったり、正義が悪になったりするコトもあるのだろう。


一瞬にしてどんな立場になるか分からない世の中だ。ツクネを失った悲しみに立ち止まるのはよそう。


しつこいようだが、カラスって絶対に恩返しとかしなのだろうか?

バスに乗る。

何年かぶりにバスにのった。


車内を見渡してみると座席はいっぱいで、数人が気だるそうにたっている。立っている人々は、吊り革につかまったり荷物棚の鉄棒にぶらさがったり、自分なりのやりかたで少しでも体力を使わない工夫をしている姿がどことなく滑稽だ。そんな車内の風景を眺めていると、ある事実に気が付いた。


なんと最後部座席のど真ん中が一つ空いているではないか。目測で有効30cm前後というところだろうか。かなりキツイ気はするが、座って座れないスペースではない。何気なく回りを確認してみる。他に誰もあの空席を狙っていない事に安堵しながら急ぎ最後部へと向かう。


空席をはさんで両隣の人に軽く会釈をし、イッキに座席へと腰をおろす。少しキツイかな?キツイながらも両隣に1人ずつ、いっぺんに2人の隣人が出来た。3人だけがわかち合うぬくもりの奇跡。知らぬ者同士が肩を寄せ合う不思議。「あ~、無理して座ってよかった」心からそう思えた。


ささやかな幸せを噛みしめていると「はぁぁ~~。。」隣人Aが突然のため息。それは深く深く、モグラの穴より、プレーリードッグの穴より、カミオカンデよりも深く切ない。なにがそんなに憂鬱なの?それとも突然現れて、彼には必要のないぬくもりを押し付けて来る招かれざる客への警告か・・・。


「はぁぁ~~。」2回目のため息。その途端、関を切ったように3回、4回、5回。彼はため息の量産体制に入った模様だ。ため息をひとつ聞くたびに、毛穴がひとつ塞がって行くような息苦しさのなか、ため息はサラウンドになってゆく。聞こえるはずもないトコロから聞こえ来るため息。もとを辿ればそこには隣人Bの口。


「隣人の憂鬱」はボクを飛び越えて違う隣人へとうつっていった。おお、隣人達よ、何をそんなに嘆き悲しむのか。だれに理由を告げるでもなく。隣人達は、ぬくもりをわかち合っているハズのボクだけを残し、プレーリードッグの穴に這いこんでしまった。ボクはせっせとその穴を埋め、さっさとバスを降りよう。あ、お金払わなきゃ。


それにしてもどうなんだろう、200円は高くないだろうか?

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