ガダルカナル戦書籍一覧
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ソロモン諸島 ガダルカナル島 御戦没者名簿(鋭意整理入力中)
2012年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
2014年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
2015年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
母娘ふたりガダルカナルの旅 第十話 より続いております。
母娘ふたりガダルカナルの旅 第十一話
海に沈められて少しだけ頭を出したタサファロングボネギ海岸の鬼怒川丸。
真っ暗闇のここボネギ海岸に叔父たち会津若松歩兵第二十九連隊が上陸したのは昭和17年10月上旬。
兵員たちは上陸したがそのあと補給物資を荷揚げするために労苦を重ねた。
制空権、制海権を完全にアメリカに取られてしまってからはほとんどの輸送船が米軍の艦砲射撃で焼き払われ日本から運ばれたたくさんの食料や弾薬も一部だけしか陸に揚がらなかった。
鬼怒川丸は三八師団を揚陸した輸送船の一隻だ。
最後まで揚陸を続けた輸送船で唯一現存する一隻だ。
船員たちは攻撃されて船が火の海になっても必死で荷揚げ作業をしたという。
きっと叔父たちの第二師団を載せた輸送船も同じ状況だったのだろう。
鬼怒川丸の船舶砲兵は燃えさかる火の中砲撃を続け、将兵は最後まで積み荷を発動艇に載せ陸地へと向かい、船員も相違退去の命令まで持ち場を離れることはなかった。
こういった日本兵の「忠実さ、真面目さ」というものは他の民族には絶対にないものだろう。
ガ島慰霊行前に江田島の第1術科学校(旧海軍兵学校)へ見学に行った。
案内人はOBの方で日本海軍がいかに優秀で忠実であるかの数々のありがたいお話を聞かせていただいた。
この大講堂で成績順に卒業証書を受け取るため学生は必死で勉学鍛錬に励んでいたと聞いた。
ここは海軍士官を育てるエリート学校であるが、日本軍はどのような軍隊においても軍紀を保つための厳しい教育と鍛錬が行われた。
そのために鉄拳制裁も日常的に行われた。
彼らは徹底した軍隊教育によって「兵隊はどんなことがあっても上官の命令には従う」という精神が浸み込まされており任務のために死ぬことは当然とされた。
この教育参考館前に「ルンガ飛行場に日本海軍が実際に撃ち込んだという艦砲射撃弾」がそのまま展示されていた。
鬼怒川丸の揚陸以降もはや日本の輸送船はボネギ海岸に近づくことは出来なかった。
ドラム缶に食料を詰めて流して届けようとしても銃撃で沈められ、しまいには人が抱えられるくらいの小さな袋になった。
この食料袋は広島にあった松尾食糧(現在のカルビーの前身)が考案したもので圧搾口糧という。
勤労奉仕に動員された女学生たちが「ご飯が食べられない兵隊さんたちに届けるのだ」とみんなが一生懸命にこれを作る作業をした。
しかしそれらもなしのつぶてで一部しか届くことはなかった。
私の母はこのころ新潟県の高等女学校に通っていた。
戦争が激しくなってから学校の授業はなくなり、モンペ鉢巻姿で勤労奉仕のため毎日工場に行き飛行機の部品を作っていた。
父からは少年時代の話を聞いたことはない。
広島原爆にも耐えた宇品陸軍糧秣支廠の缶詰工場 現在は広島市郷土資料館
タサファロングの砂浜は太陽がまぶしくそして木漏れ日は優しい。
鬼怒川丸は海からほんの少しだけ顔を出してずっと何を思っていたのだろうか。
娘はタサファロングのビーチがきれいだと喜んで砂浜を歩きまわり写真を撮っている。
若い彼女にとって戦争は遠い昔話なのかもしれない。
そう思っていたのだが後にiPhoneで撮った写真を見せてくれた。私がタサファロングで過ごした一部始終を写真に収めてくれていた。
全然気づかなかった。
「ガダルカナル戦を奪還せずんば一名たりとも生還を帰すべからず」という連隊命令により輸送船で10月初旬にタサファロングに上陸した叔父たち歩兵第二十九連隊。
ここまで負け知らずで来たのだから今度も自分たちが行けば必ず勝てるという気持ち、しかし連隊命令から察するに「この戦いは勝つか死ぬかどちらかなのだな」という覚悟もあったのではないかと思う。
「米兵は日本兵が行けば尻尾を巻いて逃げる弱い兵隊」
一木支隊と川口支隊が大変な目に会っていたこともこの時点でまだ彼らは知らされていない。
タサファロングに上陸してすぐに驚きの現実を目にすることになる。
上陸するとまもなく「お手伝いしましょう」と言ってボロボロの軍服姿の兵隊たちが近づいてきた。
そうこうしているうちに自分たちの背嚢が無くなってしまっていることに気づく。
兵隊は一部の川口支隊の敗残兵であり、がりがりに痩せた身体で杖を突いてようやく歩いている。
上陸した二十九連隊の食糧を奪おうと輸送船で来た彼らを海岸で待ち構えていたのだった。食糧がないのだから無理もない。
「飢島」はとにかく食べるものが何もない島なのだった。
タサファロングに揚陸できた食糧が少ないうえにこのような出来事もあり、彼らはなけなしの食糧を携えて「迂回作戦」を行うことになった。
だが結果的に10月の第二師団総攻撃も失敗に終わり「丸山道」を延々引き返しママラ川上流集結地に戻ってきたのは上陸からひと月以上たった11月下旬だった。
食なく飢えとマラリア、赤痢によりやっとの思いで辿り着いた彼らの命ももはや風前の灯火であった。
こうしてガダルカナル奪還作戦がもはや不可能となったにもかかわらず「撤退作戦」が決まるまでに意味もなく時間がかかり、その間に陣地を死守せよと言われた多くの兵隊の命がどんどん失われていった。
昭和19年11月から全長10kmにも及ぶ巨大地下壕「松代大本営」が作られていた。
ひそかに始められたものだが大規模工事だったことと、大量の物資が東京から鉄道で松代駅に着いたのを近所の人たちが見てうわさは広まった。
軍部が本土決戦を見据えて大本営と政府各省、天皇御座所等を極秘にこの地に移す計画だった。
昨年10月「舞鶴山地下壕・天皇御座所」の公開日(年一回)に合わせて見学にいってきた。
戦争当時の関係資料がすべて処分されており詳しくは不明だが、過酷な労働によって朝鮮や日本の方々がここで大勢亡くなっている。
その延長は途方もなく、とりわけ舞鶴山の大本営移転先は地下宮殿のようで映画セットさながらの豪華なつくりになっていた。
もはや「気が狂っている」としか言いようがない。
象山地下壕 これが延々と続く
沖縄戦はこの「松代大本営」が出来るまでの時間稼ぎだった。
次はママラ川慰霊ポイントに向かう。
つづく
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文中、勇さんの名で出てくるのが不肖当ブログ管理人・勇一三〇二となります。
お母さまと娘さまも読まれておりますのでお気軽にコメントください。
過去の記事
第二師団歩兵第十六連隊 第三機関銃中隊長 亀岡日誌
第三八師団 歩兵二二八連隊 第三大隊長 西山日誌
第三八師団 歩兵二二八連隊 第三大隊 第十中隊長 若林日誌
堺台第一拠点の記録
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冥府の戦友(とも)と語る
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新発田歩兵第十六連隊の兄弟部隊である高田歩兵第三十連隊の従軍記録等を公開されているウェブサイト
石坂准尉の八年戦争さま
と相互リンクさせて戴きました。