空閨残夢録 -8ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言







 酒というものを大別すると二つに分けることができるが、一つは「醸造酒」、二つ目は「蒸留酒」である。
醸造酒は日本の米による清酒や、西欧の葡萄からのワインが代表的な酒である。これらを蒸留器でアルコール濃度を高めた酒が蒸留酒である。


 蒸留の理論は紀元前にアリストテレスが著していて、その後に大都市アレキサンドリアを中心に、理論と技術が錬金術師に託されて、イスラム教とキリスト教の融合の歴史のなかで、蒸留器のアイテムと技術が生み出された。



 アリストテレスが蒸留理論を著述する以前に、紀元前三千五百年頃に、メソポタミアのテペ・ガウラで蒸留器が発掘されている。



 それはアル・アンビックと呼ばれる蒸留器で、発明されたエジプトやアラビヤ文明の遥か以前に蒸留技術は存在していたと思わしい歴史的な発掘なのである。



 蒸留した酒が造られる以前に、蒸留の技術をもって香水が造られるていた記録文献がたくさん存在しているが、香水(Parfum)の原語は、ラテン語の「薫する=焚きつける」からきていて、最初は香炉のようなもので焚かれていた香りが、古代ギリシャの文明がローマの時代へ移る頃に、製油成分を薔薇水や薔薇オイルなどに加工していたようだ。



 やがてアルコールの蒸留技術と、現在つかわれている香水を製造する技術が、9世紀頃には確立されていたであろうと推測される。その頃にリキュールの産声が聞こえてくる。


 北海道は富良野にラベンダーが咲き誇る富田ファームで、欧州の香水蒸留器の釜の写真をかつて見たことがあるが、この蒸留器はなんと英国のウィスキーの単式蒸留器と同じ形をしているので驚いた次第である。



 用途(目的)が別でも、リキュールと香水は母体は同じで、パーフュム(香水)とスピリッツ(蒸留酒)は製造工程は全く同じなのである。



 スピリッツとは本来は「精神」のことだが、酒に関して使われる場合は、蒸留酒の意味になる。蒸留酒が造られる前提には醸造酒が存在しなければならない。



 醸造酒とは、日本の酒(米が原料)、ワイン(葡萄の酒)、ミード(蜂蜜の酒)、りんごのシードル、ビール(麦芽)等がある。これを簡略に説明すれば、醸造酒の原料を蒸留すると以下となる。





 ●日本の酒→球磨焼酎や泡盛
 ●ワイン→ブランデー
 ●シードル→カルバドス
 ●ビール→ウィスキー
 ●紹興酒→白酒(パイチュウ)





 原料(醸造酒)を蒸留して純度の高いアルコールにしたものがスピリッツなのであるが、蒸留酒はラテン語でアクア・ヴィテ(生命の水)と名付けられた。この生命の水に各種の薬草を溶かしこんでリキュールが誕生する。



 リキュールはラテン語のリケファケレ(Liquefacere=溶解する、溶かし込む)が語源とする説が有力である。



 こうしたリキュール製法は錬金術師たちから、やがて修道院の僧侶たちに伝えられて、中世の修道院はそれぞれ独特のリキュールをを創りあげることになる。



 リキュールの創案者とされるブランデーの生みの親アーノル・ド・ヴィルヌーブは医者であり錬金術師であった。



 1300年頃に「ロー・クレレット」という薬酒を作り、病人に与えたのもヴィルヌーブである。蒸留したワインに薔薇、檸檬、オレンジの花、各種スパイスの成分を溶かし込んだと伝わる。



 現存する最古のリキュールは、原形が1510年にできた「ベネディクティン」であり、これはフランスのベネディクト会の修道院で生まれた薬草酒。このような薬草系リキュールは錬金術師から修道士たちに技法は手渡され、ヨーロッパ各地で発展されていく。



 14世紀のペストの流行で欧州においては、薬草のリキュールが薬として重宝され、これにより開発の広がりを持たせた理由の一つでもあろう。



 1791年にフランス革命でベネディクト修道会は閉鎖される。300年続いた薬酒は製造を中断することを余儀なくされたが、幸いに1863年に復元される。



 ワイン商アレクサンドル・ル・グランが古文書からベネディクティンの製法記録を見つけ出して復活させ、今ではこのリキュールは世界各国のバーの棚に必ず置いてある。またお菓子工房にも見かけるであろう。








 ベネディクト会の修道院で生まれたリキュールとともに、フランスを代表する薬草系のリキュールとしてその名を二分する、カルトジオ会修道院で生まれた「シャルトリューズ」も古くから伝わる薬草酒である。



 これはフランスのグルノーブル山中にカルトジオ会が11世紀に誕生して、後のシャルトリューズ大修道院に秘伝のリキュールは伝えられた。この薬草酒は約130種類のハーブを配合した門外不出の秘伝のレシピが秘匿された酒で、今でも3人の修道士にしか伝えられていない製法のシャルトリューズは、ヴェール(緑色のリキュール)とジョーヌ(黄色のリキュール)の二つが存在する。



 ヴェールはアルコール度数55%、ジョーヌは40%でありまして、有名なカクテルでドライジンをベースにジョーヌとシェイクする「アラスカ」があり、ジンはアルコール40%もあるから、かなり強烈なカクテルである。柔らかくシャルトリューズ・ヴェールを飲むには、これを「フラッペ」で、もしくわ、「ミスト」や「オン・ザ・ロック」で飲むほうが飲みやすくお薦めでしょう。



 またシャルトリューズの緑色のヴェールを「アラスカ」風に仕立てたカクテルを“グリーン・アイズ”と呼ぶ。つまり、ドライ・ジンをベースに黄色いジョーヌを添加したカクテルが「アラスカ」なのだが、ジョーヌの代わりにヴェールにしたカクテルが「グリーン・アイズ」で、「グリーン・アラスカ」とも通称呼ばれる食後のカクテル。これは「アラスカ」よりもアルコール度数が強烈なので、柔らかく飲むにはオン・ザ・ロックやフラッペのスタイルで楽しむと親しみやすいだろう。


 ベネディクティンを用いたカクテルで有名なのは“B&B”である。これはリキュールグラスにまずベネディクティンを半分注ぎ、その上にフロートするようにブンランデーを半分注ぎ供するスタイル。このカクテルはアルコール度数が日本人には強すぎるから、氷を入れてオンザロックで、さらに穏やかに飲むにはジンジャーエールを加えてロングドリンクにするといいだろう。


 ジンジャーエールはブランデーと相性がよく、ウィスキーはソーダやセブンアップ、ドライジンはトニックウォーターで割る組み合わせが間違いない味わいだが、バーボンをトニックで割っても、ジンジャーエールで割っても個人の嗜好でお好みで割って楽しめるのがカクテルの魅力であろう。



 つまり、カクテルとは決まったルールのない自由で気ままな思想性を抱えていて、誰もがお好みで楽しめるリベルタンな感性の飲料である。歴史的にブランド化されているシャルトリューズやベネディクンなどもカクテルの材料として、お気軽なソフト・ドリンクなどでカジュアルに割って飲むスタイルを楽しめる魅力がカクテルの本領である。

  





 イタリアのトスカーナ州リヴォルノ市に、薬草や香草を主体にした酒、つまりハーブ系リキュールの「ガリアーノ」がある。このお酒は1897年にアルトゥーロ・ヴァッカリによって開発された。



 今ではこのリキュールは世界のバーやレストランでどこでもおかれている。酒瓶が極端に長くて、タワーみたいな形状も特徴的で、色はサフランのような黄金色に輝き美しい。



 ガリアーノの香味成分は、アニス(西洋茴香)、ジュニパーベリー(杜松の実)、ヤロー(西洋のこぎり草)に、特筆すべきはバニラの風味が特に強いことにある。



 ほかにベリー類の花や果実のエッセンスもあるがレシピは秘伝で推察するしかない。西洋のリキュールのほとんど全てはレシピは秘伝であり秘匿されているのが実情である。



 ガリアーノの酒名は、1895-96年のイタリアとエチオピアの戦争で活躍した英雄ジュゼッペ・ガリアーノ少佐からとられたと伝わる。美しいボトルのデザインは、ローマなどの寺院などでみられるコリント式の円柱から創作されたようだ。


 酒の風味には、まずバニラの香り、微かなミント香、チョコレート、キュンメル、キュラソー、アニスなどの香りが含まれている。芳香の奥行は香水の如き製品でもある。



 バニラ風味のルキュールでほかにも有名なのが、同じイタリア産の「ストレガ」である。こちらはナポリの北にあるベネヴェント町の酒で、ストレガとは魔女を意味している言葉。この薬草酒にはふさわしいネーミングでもあろう。







 イタリアの詩人や芸術家たちは、これらの酒を“太陽の光の溶液”と讃えた。これらバニラ香のリキュールはイタリアの独擅場といった感があるハーブ・リキュールでもある。



 ボクもこのガリアーノは好きな酒で、主にオレンジ・ジュースなどに風味付けして飲んでいる。カクテルでは「スクリュー・ドライバー」というのがあるが、これにガリアーノをエッセンスしたのが「ハーヴェイ・ウォールバンガー」というカクテルである。



 このハーヴェイ・ウォールバンガーを和訳すると“壁たたきのハーヴェイ”というネーミングであるけれども、伝説的にもおもしろいエピソードでもある。それは、サーファーのハーヴェイが好きなカクテルで、ついつい飲み過ぎて壁にぶつかりながらバーから帰ったのでネーミングされたらしい。





 デザートならば、フルーツのマセドワーヌにエッセンスにすると大人の味わいになる。バニラの風味が誘惑的に香るオリエンタルな味わいだ。フルーツのマセドワーヌとは、日本でいえば、いわゆるフルーツポンチであり、マケドニア風のデザートのことである。





  



 ドランブイ(Drambuie)というイギリス産のハーブ系のリキュールは国際的にも知名度が高い酒である。これはベースにスコッチ・ウィスキー、各種ハーブ・スパイスに、ヒースの蜂蜜などが配合されている銘酒。このドランブイを使ったカクテルにラスティ・ネール(Rusty Nail)がある。このカクテルは、スコッチ・ウィスキーを、2、に対して、ドランブイが、1、の割合で、氷を入れたオン・ザ・ロックのグラスでいただく。



 甘いリキュールなのでカクテルのラスティ・ネルにすると飲み口がよくなる。ラスティ・ネールとは直訳すれば「錆びた釘」であるが、「ふるめかしさ」を意味するようだ。この秘伝の薬酒は歴史が長く、また伝説も劇的であるので、以下に紹介しておこう。




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 1603年、イングランド王エリザベスⅠ世が崩御した。彼女は生涯未婚で、当然子供もいなかったが、生前に自分の跡継ぎは、メアリ・ステュアートの息子ジェイムズ6世がよいと考えていたフシがあり、ここにスコットランド王兼イングランド王ジェイムズが誕生した。


 ジェイムズ6世のイングランド王戴冠以後の、ステュアート家の国王たちは、ほとんど生国たるスコットランドに帰ることがなくなった。それでもチャールズ1世は、ピューリタン革命に際しスコットランドに戻って、その兵力の動員をはかり、その子チャールズはスコットランド王として戴冠したものの、すぐにクロムウェルに敗れて亡命した。



 王政復古後(スコットランドとイングランド両方の)国王に返り咲いたチャールズⅡ世は、その後、一度もスコットランドを訪れず、次の国王ジェイムズ7世はイングランドとスコットランド双方に、カトリックを押し付けて反発をうけ、今度は名誉革命によるオレンジ公ウィリアムの即位となった。



 スコットランドは紆余曲折の末、ウィリアムのスコットランド王位を認めたものの、彼の後継者アンには世継ぎがなく、その次の国王予定者として、ドイツからよばれたハノーヴァー選帝侯による、スコットランド王位継承には納得出来ない者が多かった。



 スコットランドとイングランドは、当時、あくまで別々の国であり、ジェイムズ6世以降の百年間も、それぞれ別個の議会をもつ両国が、同じ国王を戴いているというそれだけの関係にすぎない。



 ハノーヴァー選帝侯も一応はスチュアート家の血を受け継ぐ人物(ジェイムズ6世の曾孫)ではあるが、彼は英語すら話せない全くのドイツ人と化しており、その様な外国人の国王にスコットランドの王位をあたえるのはやはり嫌である。

 そこで、先の名誉革命でフランスに亡命したジェイムス7世の子ジェイムズ・フランシスの登場となるが、結局は1707年の「連合法」によってスコットランド議会とイングランド議会が合同し、ハノーヴァー家による両国の王位継承を認める「グレイト・ブリテン連合王国」が発足することになった。



 もちろん「大僭称者」ジェイムズ・フランシスはこの決定に不満であり、亡命先のフランスから帰国して反イングランドの武装蜂起をおこなった。この時の蜂起は大したことがなかったものの、彼の子「小僭称者」チャールズ・エドワードが1745年におこした蜂起は全ブリテン島を震撼させる大規模なものとなった。


 フランスのフリゲート艦で、スコットランド西部海岸に上陸したチャールズは、「勝利さもなくば滅亡、祖先の王冠を取り戻すためチャールズ・スチュアート帰国せり」と宣言、ハイランドの族長たちをかき口説いて軍勢をあつめ、彼等ハイランダーを主力とする三千の兵力をもってエジンバラを奪回、さらに南下してロンドンの北200キロの地点にまで到達した。



 しかしこのスコットランド最後の反乱軍は、カンバーランド公ウィリアム指揮下の軍勢一万により、その進路を阻まれ、決起後半年足らずで、北方への総退却を余儀なくされた。


 そして、翌1746年4月16日にハイランドのカロドゥン・ミュアにておこなわれた最後の決戦もスコットランド軍の完敗に終わり、実に1500人ものハイランダーがイングランド軍の緋色の上衣と銃剣の前に空しく倒れていったのである。



 命からがら逃走したチャールズは、その後、へブリディーズ諸島のユーイスト島に潜伏していた。ハイランド一帯に勢力をもつ豪族でスカイ島のジョン・マッキノンは、チャールズの首に3万ポンドの懸賞金がかけられていたにもかかわらず、忠誠を誓い最後まで擁護する。



 この族長の娘フローラ・マクドナルドの機転で、イングランド官憲の追跡をかわし、半年に渡る逃避行の末に、なんとかチャールズはフランスへと脱出することが出来た。


 チャールズはフローラとの別れに際し、自分の巻き毛を渡して再会を約束したものの、その後、二度とスコットランドの土を踏むことなく1788年に亡くなった。


 フローラの方はその後イングランド軍に捕われ、政治犯としてロンドン塔に幽閉されてしまったが、2年後に恩赦で釈放された時には、一転してロンドン社交界のヒロインに祭り上げられた。彼女の勇敢な行動がロンドン中の賞讃を浴びたのだが、華美な生活を嫌った彼女は平凡な結婚をしてアメリカに移住し、独立戦争の後に生まれ故郷のスカイ島に帰って1790年に亡くなった。


 「ボニー・プリンス・チャーリー」と親しみをこめて呼ばれ、いまでもハイランダーの子孫たちに敬愛されているチャールズ・エドワードには子がなく、その弟ヘンリー・ベネディクトもやはり跡継ぎがなく1808年に死没した。北方の名門スチュアート家は19世紀の初頭において遂に断絶の憂き目をみたのである。



 しかしステュアート家は滅びたが、チャールズがスカイ島のマッキノン家に伝えた酒は現代にも残っている。ステュアート家秘伝の薬酒「ドランブイ」がそれである。



 ドランブイ(英:Drambuie)とは、モルトウィスキーをベースに、蜂蜜、ハーブ、スパイスなどから作られるリキュールで、スコットランドのスカイ島で現在でも製造される。名称はゲール語の「満足できる酒(dram buidheach)」に由来する。この逸話にちなみ、ドランブイのラベルには、"Prince Charles Edward's Liqueur" と印字されている。










 トマトは夏の季語であり、あまり俳句や短歌の作品ではみかけないのだが、若山牧水はトマト好きだったようで、わりと多くトマトを詠んでいる。




  葉がくりにあるはまだ青しあらはなるトマトに紅のいろさしそめて 


  一枝に五つのトマトすずなりになりてとりどりに色づかむとす 


  汲み入るる水の水泡のうづまきにうかびて赤きトマトーの実よ 


  水甕の深きに浮び水のいろにそのくれなゐを映すトマトよ 


  舌に溶くるトマトーの色よ匂ひよとたべたべて更に飽かざりにけり 


  トマトのくれなゐの皮にほの白く水の粉ぞ吹けるこの冷えたるに




 
 トマトは 英名が tomato で、メキシコのナワトル語が起源だとされる。字義的には〈ふくらむ実〉の意とされる。中国名は蕃茄で異国の茄子の意。


 1523年にメキシコをスペイン人が征服した。それにより茄子科トマト属のこの野菜がヨーロッパにもたらされる。イタリアには1544年に伝わったそうだ。


 当時は食用というよりは媚薬として扱われた。トマトは“愛の林檎”と呼ばれ強精剤とされたらしい。イタリアでは“黄金の林檎”という名前で広まり、現在では料理に欠かせない食材である。


 1583年にフランドルの本草学者ドドネウスが初めて料理に用いたと伝わる。ただし、一般的に食用として普及したのは18世紀に入ってからである。それまでは珍奇植物として観賞用とされていた。


 日本には17世紀にオランダ船 が運んできた。18世紀初期にある『大和本草』に「唐柿」として著されている。これにも観賞用として登場するのだが、食用とされるのは明治期初年のことであり、北海道開拓使が蔬菜として導入する。


 さらに一般家庭に普及するは昭和に入ってからである。それも戦後にケチャップなどが普及して馴染み深い食品となる。この野菜は本邦の気候風土に馴染み、品種改良で青臭さが減って甘味が増したことで今ではお馴染みの食材となる。








 ボクはあまり好んでトマトは生で食さないが、トマトジュースは好物でよく飲んでいる。北海道では地元の農場などで栽培したトマトをジュースにしたりして加工販売しているが、とてもおいしいものが多く販売されている地域でもある。


 カクテルにするならば市販のカゴメとかデルモンテのメーカーで十分である。なるべく無塩のジュースを選択して、ベースのウォッカもお好みで、無塩トマトジュースで単純に割ると「ブラッディーマリー」というカクテルになる。


 ブラッディーマリーのベースをドライ・ジンに変えると“ブラッディー・サム”、テキーラならば“ストロー・ハット”、アクアヴィットにすると“デーニッシュ・マリー”、ビールをトマトジュースで割れば“レッド・アイ”というカクテルになる。お酒が飲めない人は“ヴァージン・マリー”とバーでオーダーするとアルコール抜きのトマトジュースが出てくる。





 
 1969年にカナダで生まれた“ブラッディーシーザー”というカクテルがあるが、米国のモッツ社が蛤のエキス入りのトマトジュースを売り出すと1980年代に爆発的に売れて広まる。商品名はクラマトジュースで、つまりクラム(蛤)とトマトの合成語である。クラマトをビールで割ると、“レッド・バード”というカクテ ルになる。


 Bloody Mary のレシピをラルース・カクテル事典で調べてみると、ウォッカ=40ml、トマト・ジュース=180ml、セロリ塩=1つまみ、タバスコ=好みにより1~2ダッシュ、ウースター・ソース=2~3ダッシュを、コリンズ・グラスに氷を入れて混ぜ合わせ、レモンスライスを飾る。


 ボクはなるべく氷を入れないで、冷えたウォッカとジュースをタンブラーグラスに満たし、塩、胡椒、タバスコ、ウースター・ソースにレモンの櫛切りにしたものを別に添えて提供する。客のお好みと嗜好で好き勝手に飲んで欲しいというスタイルである。


 また自己主張を強くグラスにセロリや人参や胡瓜などのスティック状にしたものをさして、オリーブやレモンなどを飾り付けて提供しても、何故かこのカクテルは酒なのにヘルシーな スタイルになるのが面白いと思われる。


 ブラッディー・マリーというカクテルの名前はメアリー1世の渾名からきている。メアリー1世(Mary I, Mary Tudor,1516 - 1558年)は、イングランドとアイルランドの女王であった。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。イギリス国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた女王から、このカクテルは命名されている。








 北海道の余市町と栗沢町で黄色いミニトマトからトマトジュースを加工販売している農家がある。これは有機肥料を使用して、無添加、無着色の黄色いトマトジュースなのである。


 イタリア料理に欠かせない食材のトマトは、ご当地では「ポモドーロ」と呼ばれていて、POMOは林檎で、DOROは金を意味していて、つまりポモドーロとは「金の林檎」を意味する。
 

 新大陸から渡ってきた最初のトマトに黄色いものが混じっていたからなのか、よく判らないが、「ポモドーロ」の語源は不明である。イタリアには1544年にトマトが伝わったのは確かなことであるが、当時は強精剤や媚薬として扱われていて、フランスやイギリスでは“愛の林檎”と呼ばれていたが、媚薬のイメージがポモドーロ幻影の深層にあると思われる。


 宮沢賢治の童話に『黄色のトマト』がある。この物語はベムベルとネリという兄妹のお話なのだが、二人は農場でトマトを栽培していたが、或る日、紅い品種混じって金色に輝くトマトを発見する。当初は二人とも黄色いトマトに感心を示さなかったが、村に訪れた曲馬団のサーカス小屋に入るため金貨の代わりに黄色いトマトを使うことにした。その目論見が成功したか否かは結末には描かれていなかった。


 さて、ウォッカを黄色いトマトジュースで割ると、それはもはやブラッディーマリーとは呼べない。このカクテルは“ポモ・ドーロ”と命名することにした。(了)






 江戸時代から明治にかけて「枇杷葉」という暑気払いのための薬湯が辻売りされていた。これは枇杷や桃の葉を乾して煎じたものを飲むのであるが、「甘い、甘~い! あまーざけっ!」と天秤棒をかついで甘酒を売り歩く甘酒屋も、夏場の風物誌であった。



 夏バテにはアミノ酸とビタミンの補給が一番大切である。甘酒は、まさに夏バテの回復ビタミン・アミノ酸配合による強力栄養ドリンクなのである。また甘酒の甘味のブドウ糖が即効性のエネルギー源になるのだ。



 若山牧水は暑気払いに粕取り焼酎を蜂蜜で割って好んで飲んでいた。蜂蜜は甘酒よりも更なるブドウ糖と果糖が豊富でビタミンも多い滋養に富むもので、夏バテには最適の食品であろう。



 牧水はお酒好きで有名な歌人である。旅先では、地元のお酒を探しては飲み、人々と楽しく飲むこともあったが、一人で静かに飲むお酒が、何よりも好きであったらしい。



 しかし、あまりにも飲みすぎて、肝臓を悪くして、昭和3年9月17日、43歳という若さで亡くなってしまう。牧水は約三百のお酒の短歌を発表している。若山牧水は1886年(明治19年)に宮崎県東臼杵郡東郷町坪谷に生まれる。本名は若山繁。それでは、牧水の酒を詠った珠玉の作品を四つだけ紹介しておこう。




  それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味



  白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり



  人の世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ



  うまきもの心にならべそれこれと くらべまわせど酒にしかめや









 「甘酒」が夏の季語のように、「焼酎」も夏の季語なのである。それは上方では「柳蔭」、江戸では「直し」と称する焼酎を味醂で割った飲み物が暑気払いとして飲まれていたからだ。

 

 昔の味醂は調味料というよりも今日のリキュールと同じようなもので、そのまま飲んでも甘く美味しい酒の仲間なのである。もちろん調味料としても利用されていた。江戸で「直し」という飲み物は、つまり今日のカクテルと同じなのである。ブランデーにベネディクチンを加えたり、ドライジンにヴェルモットを混ぜるのと同じことといえよう。



 牧水が好んだ夏の酒の飲み方は、粕取り焼酎に蜂蜜を混ぜるやりかたで、ラム酒に蜂蜜を入れるような今日的な感覚ともいえる嗜好であろう。





   かんがへて飲みはじめたる一合の 二合の酒の夏のゆふぐれ




 上記の牧水の歌は焼酎ではないかも知れないが、清酒を夏に飲むのであれば、よく冷えた酒のことであろうか。清酒は初冬に作られるので、夏の酒はその昔は保存状態はよくなかったと思われる。日本の湿潤で暑い夏までに、お酒を保存させるのは、清酒に焼酎を混ぜ込んだりといろいろ工夫されていたようである。



 現代では、夏でも美味しい冷酒を飲むことができるからありがたいと思う。北海道の旭川にある男山酒造では、夏でも生酒の製造をしている唯一のメーカーで、ここの冷酒は至極上等にして旨い酒である。



 この生酒は「笹おり」という商品で、牧水がこの酒をもしも飲むことが可能であったとしたら、多分、40代までも生きていられなかったかも知れないほどの美味である。



 さて、焼酎の蜂蜜割りや味醂割りをカクテルと表現したが、洋酒ではないのでカクテルという表現には違和感もあろうが、では、そもそもカクテルとは何かと定義すると、若山牧水の酒の飲み方もカクテルと述べることができるであろう。



 カクテルは氷や器具を使用して、これを所定のグラスに作りあげるミックスト・ドリンクととらえる方法論的な考え方よりも、酒に何かをミックスしたものと漠然ととらえる抽象論的な考え方を前提にカクテルを規定するならば、<酒+サムシング>の公式で成り立つと考えられる。



 酒の飲み方は二通りだけで、ストレートでそのまま飲むのと、<酒+サムシング>という公式のミックス・ドリンクだけであろう。ちなみにストレートという言い方は1855年にケンタッキー州で生れたそうだ(坂下昇著『アメリカニズム』岩波新書)。米国のバーでバーボンをストレートで注いでもらうように注文するには、「ストレート・アップ・プリーズ」というふうにオーダーする。くだけた言葉にするなら、ただ、「アップ・プリーズ」でも通じる。


 さて、若山牧水はストレートという言葉も、カクテルという概念も無かったので、ストレートは“生(き)、”ミックスは“割る”と表現したであろうと思わしい。



 日本では経済成長の時期にウィスキーを水割りにしてよく飲まれていた。米国ではバーボン・ウィスキーやスコッチ・ウィスキーを水で割って飲まれることはまれである。ウィスキーの水割りも<酒+サムシング>の公式から規定すればカクテルである。



 冬になれば焼酎をお湯割りとして飲まれるであろうが、東京のある蕎麦屋で蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを初めて飲んだ時は感動したものである。同じく冬に青森県から北海道では大衆酒場で“番茶割り”といって、ほうじ茶の甲類焼酎割りが飲まれるが、最近は居酒屋などでほとんど見かけなくなった。



 本邦では清酒の熱燗に焼いた岩魚、鮎などを使う骨酒、フグやエイの鰭酒がある。これらの骨酒みたいな熱燗をカクテルの範疇ととらえるには難しいであろう。梅酒がカクテルではなくリキュールのカテゴリーならば、骨酒はリキュールと規定するのも違和感がある。ただ蝮や雀蜂を酒類に漬けこむ風習があり、これはリキュールに分類できる。



 骨酒はフレーバーした酒の飲み方なのだが、ハーブやスパイスに果物を添加する飲み方は西欧にあっても、この動物性のフレーバー・ドリンクは日本独自の飲み方であろう。



 スッポン料理のフルコースを食べたことがあるけれども、先付けと一緒にワインとスッポンの血がハーフ&ハーフの飲み物を供されたことがある。これはカクテルと規定してよいであろう。ブラッディー・マリーよりは生々しくリアルなカクテルであった。


 先日、焼き鳥や焼きとんを看板にする大衆酒場へ行ったが、そこでモッキリで焼酎の味醂割りを呑んだ

。梅割りという飲み方もモッキリのスタイルにはあるが、味醂も梅シロップも分量はティースプーンで1杯から2杯くらいである。甲類焼酎は三重県の宮崎本店のキンミヤ焼酎で、これは関東では人気のあるブランドでもある。また味醂も宮崎本店の亀甲宮(キンミヤ)本みりんである。(了)