リキュール四方山話 その1『ドランブイ』 | 空閨残夢録

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 ドランブイ(Drambuie)というイギリス産のハーブ系のリキュールは国際的にも知名度が高い酒である。これはベースにスコッチ・ウィスキー、各種ハーブ・スパイスに、ヒースの蜂蜜などが配合されている銘酒。このドランブイを使ったカクテルにラスティ・ネール(Rusty Nail)がある。このカクテルは、スコッチ・ウィスキーを、2、に対して、ドランブイが、1、の割合で、氷を入れたオン・ザ・ロックのグラスでいただく。



 甘いリキュールなのでカクテルのラスティ・ネルにすると飲み口がよくなる。ラスティ・ネールとは直訳すれば「錆びた釘」であるが、「ふるめかしさ」を意味するようだ。この秘伝の薬酒は歴史が長く、また伝説も劇的であるので、以下に紹介しておこう。




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 1603年、イングランド王エリザベスⅠ世が崩御した。彼女は生涯未婚で、当然子供もいなかったが、生前に自分の跡継ぎは、メアリ・ステュアートの息子ジェイムズ6世がよいと考えていたフシがあり、ここにスコットランド王兼イングランド王ジェイムズが誕生した。


 ジェイムズ6世のイングランド王戴冠以後の、ステュアート家の国王たちは、ほとんど生国たるスコットランドに帰ることがなくなった。それでもチャールズ1世は、ピューリタン革命に際しスコットランドに戻って、その兵力の動員をはかり、その子チャールズはスコットランド王として戴冠したものの、すぐにクロムウェルに敗れて亡命した。



 王政復古後(スコットランドとイングランド両方の)国王に返り咲いたチャールズⅡ世は、その後、一度もスコットランドを訪れず、次の国王ジェイムズ7世はイングランドとスコットランド双方に、カトリックを押し付けて反発をうけ、今度は名誉革命によるオレンジ公ウィリアムの即位となった。



 スコットランドは紆余曲折の末、ウィリアムのスコットランド王位を認めたものの、彼の後継者アンには世継ぎがなく、その次の国王予定者として、ドイツからよばれたハノーヴァー選帝侯による、スコットランド王位継承には納得出来ない者が多かった。



 スコットランドとイングランドは、当時、あくまで別々の国であり、ジェイムズ6世以降の百年間も、それぞれ別個の議会をもつ両国が、同じ国王を戴いているというそれだけの関係にすぎない。



 ハノーヴァー選帝侯も一応はスチュアート家の血を受け継ぐ人物(ジェイムズ6世の曾孫)ではあるが、彼は英語すら話せない全くのドイツ人と化しており、その様な外国人の国王にスコットランドの王位をあたえるのはやはり嫌である。

 そこで、先の名誉革命でフランスに亡命したジェイムス7世の子ジェイムズ・フランシスの登場となるが、結局は1707年の「連合法」によってスコットランド議会とイングランド議会が合同し、ハノーヴァー家による両国の王位継承を認める「グレイト・ブリテン連合王国」が発足することになった。



 もちろん「大僭称者」ジェイムズ・フランシスはこの決定に不満であり、亡命先のフランスから帰国して反イングランドの武装蜂起をおこなった。この時の蜂起は大したことがなかったものの、彼の子「小僭称者」チャールズ・エドワードが1745年におこした蜂起は全ブリテン島を震撼させる大規模なものとなった。


 フランスのフリゲート艦で、スコットランド西部海岸に上陸したチャールズは、「勝利さもなくば滅亡、祖先の王冠を取り戻すためチャールズ・スチュアート帰国せり」と宣言、ハイランドの族長たちをかき口説いて軍勢をあつめ、彼等ハイランダーを主力とする三千の兵力をもってエジンバラを奪回、さらに南下してロンドンの北200キロの地点にまで到達した。



 しかしこのスコットランド最後の反乱軍は、カンバーランド公ウィリアム指揮下の軍勢一万により、その進路を阻まれ、決起後半年足らずで、北方への総退却を余儀なくされた。


 そして、翌1746年4月16日にハイランドのカロドゥン・ミュアにておこなわれた最後の決戦もスコットランド軍の完敗に終わり、実に1500人ものハイランダーがイングランド軍の緋色の上衣と銃剣の前に空しく倒れていったのである。



 命からがら逃走したチャールズは、その後、へブリディーズ諸島のユーイスト島に潜伏していた。ハイランド一帯に勢力をもつ豪族でスカイ島のジョン・マッキノンは、チャールズの首に3万ポンドの懸賞金がかけられていたにもかかわらず、忠誠を誓い最後まで擁護する。



 この族長の娘フローラ・マクドナルドの機転で、イングランド官憲の追跡をかわし、半年に渡る逃避行の末に、なんとかチャールズはフランスへと脱出することが出来た。


 チャールズはフローラとの別れに際し、自分の巻き毛を渡して再会を約束したものの、その後、二度とスコットランドの土を踏むことなく1788年に亡くなった。


 フローラの方はその後イングランド軍に捕われ、政治犯としてロンドン塔に幽閉されてしまったが、2年後に恩赦で釈放された時には、一転してロンドン社交界のヒロインに祭り上げられた。彼女の勇敢な行動がロンドン中の賞讃を浴びたのだが、華美な生活を嫌った彼女は平凡な結婚をしてアメリカに移住し、独立戦争の後に生まれ故郷のスカイ島に帰って1790年に亡くなった。


 「ボニー・プリンス・チャーリー」と親しみをこめて呼ばれ、いまでもハイランダーの子孫たちに敬愛されているチャールズ・エドワードには子がなく、その弟ヘンリー・ベネディクトもやはり跡継ぎがなく1808年に死没した。北方の名門スチュアート家は19世紀の初頭において遂に断絶の憂き目をみたのである。



 しかしステュアート家は滅びたが、チャールズがスカイ島のマッキノン家に伝えた酒は現代にも残っている。ステュアート家秘伝の薬酒「ドランブイ」がそれである。



 ドランブイ(英:Drambuie)とは、モルトウィスキーをベースに、蜂蜜、ハーブ、スパイスなどから作られるリキュールで、スコットランドのスカイ島で現在でも製造される。名称はゲール語の「満足できる酒(dram buidheach)」に由来する。この逸話にちなみ、ドランブイのラベルには、"Prince Charles Edward's Liqueur" と印字されている。