空閨残夢録 -25ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

 

 『ジュリエット・ポエット』とは、寺山修司自らが名づけた、散文詩とも童話ともつかない不思議な作品の数々。人間が次々と鳥に変身してしまう「壜の中の鳥」、魔法の消しゴムで恋敵を次々と消していく「消しゴム」、10年後の姿を映し出す写真機を描いた「まぼろしのルミナ」など、抒情と幻想がシュールに溶け合った鮮やかな12篇を収録した、ジュリエット・ポエットの代表的作品集である『赤糸で縫いじれられた物語』が代表作である。
  



 女のからだは お城です 

 なかに一人の少女がかくれている

 もういいかい?
 もういいかい?

 逃げてかくれた自分を さがそうにも

 かくれんぼするには

 お城はひろすぎる  
 

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 かなしくなったときは
 海を見にゆく

 古本屋のかえりも
 海を見にゆく

 あなたが病気なら
 海を見にゆく

 こころが貧しい朝も
 海を見にゆく

 ああ 海よ
 大きな肩とひろい胸よ

 おまえはもっとかなしい
 おまえのかなしみに
 わたしの生活は
 洗われる

 どんなつらい朝も
 どんなむごい夜も
 いつかは終わる

 人生はいつか終わるが
 海だけは終わらないのだ
 
 かなしくなったときは
 海を見にゆく

 ひとりぼっちの夜も
 海を見にゆく

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(「踊りたいけど踊れない」寺山修司)より


 寺山修二は、1971年の映画『書を捨てよ町へ出よう』の製作に続き、1974年に2本目の長編映画として取り組んだ作品が、アングラ映画の傑作と呼ばれる『田園に死す』である。この映画は、当時、低予算で芸術的水準の高い映画を世に数多く送り出していた“ATG(アート・シアター・ギルド)”が配給しており、ATGはかつてカルトっぽい作品を多く配給していたが、今では芸術的に高く評価される作品が多い。

 この寺山修司の映画は、寺山の主催する劇団”天井桟敷”のメンバー以外にも、八千草薫や、原田芳雄、木村功などの俳優陣が出演しており、この配役から映画に対する意気込みが感じられてくる。因みに“少年時代の私”を演じているのは、テレビの変身ヒーロー活 劇番組の『超人バロム1』にも出演していた子役の高野浩幸で、余談ですがボクと高野広幸とは同じ歳であります。

 物語は寺山自身の少年時代と生まれ故郷の青森が舞台で、溺愛する母親、隣家の憧れの美人の後家さん、ててなし子を産む娘と間引き、サーカス団と異形の人達、白塗りの老人学生服集団、共産党員として追われる男、兵隊馬鹿と角巻、イタコ、柱時計と刻む時間、突然観客に向かって叫ぶ三上寛など、その他モロモロの異形の登場人物とオブジェの大集結となるシュルレアリスム的な演出の椀飯振舞。

 映画全編には寺山自身による歌集『田園に死す』から、寺山自身による朗読と、シュールで詩的な郷愁に満ちた映像が鏤められ、そしてラストの衝撃的なシーンは、観る者を圧巻させ 、コアな映画ファンの間では、今でも語りグサとなっているし、このボクもこの映画とラストには衝撃を受けた一人でもある。





(さて、『田園に死す』あらすじを、以下に・・・・・・)


 

 映画のストーリーは、寺山修司自身の自伝的なストーリーで物語は始まる。舞台は青森県恐山。父親を戦争で亡くした為、母親(高山千草)に溺愛されて育った少年(高野浩幸)が、母親を捨てて都会へ出たいと考えているところに、隣家に嫁いできた化鳥(八千草薫)に憧れを抱く。そして少年は化鳥に近づき駆け落ちの相談をする。

 そして、まんまと二人は駆け落ちに成功するのだが、しかし、ここでカラー・フィルムは終了して、暗転するとモノクロの映像に変わり、タバコの紫煙と二人の男が現れる。これは過去の幻想から現実の世界に戻り、現在の私(菅貫太郎)と映画評論家(木村功)が登場してきて、二人はバーで《私》の自伝を撮った未完成の映画について語り合 う場面へと変わり物語は進行していく。

 二人は精神世界について語り合った後、映画評論家が“私”に一つの問題を提示するのだが、それは、「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のお祖母さんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」という質問・・・・・・、こうして私の時空を越えた旅が始まり、“家出”と“母親殺し”の回想の物語は再び始まる。

 ただ、主人公である“私自身”は、自分の過去についての回想を映画で脚色していた為に、その脚色された嘘の過去を振り返るドラマは、それが現実と幻想のアラベスクとして物語は進行していく。

 そして、私は最後に過去の自分の母親を殺そうと、20年前の自分の家に向かう。20年後の私を前に、何食わぬそぶりで迎える母親。しかし結局は一人の母親も殺せない私。その「私 とはいったい誰なのか?」・・・・・・



(・・・・・・歌集『田園に死す』の、警句ずくめの跋文の一節に、寺山修司はこう記している。)

 「私は少年時代にロートレアモン伯爵の書を世界で一ばん美しい自叙伝だと思っていた。そして、私版『マルドロールの歌』をいつか書いてみたいと思っていた。この歌集におさめた歌がそれだとは言わないが、その影響は少しくらいあるかも知れない。」


 
 そして、映画『田園に死す』も、ロートレアモンの詩的な霊感がベースとなって、シュルレアリストの映画の手法や、フェデリコ・フェリーニなどの技法と方法論などが演出的に展開し、本質的な哲学や思想を根源的に据えながらも、この映画は逆説に満ちた作品でもあり、魔術的な傑作“アングラ”映画として記憶される作品として残る。(了)





 中学校一年生の時に、国語の教科書で太宰治の『走れメロス』が教材となっていたと記憶している。いずれにしても教科書ではじめて太宰の文学にふれた訳である。それ以前にもこの作品はラジオの朗読などで耳にしていた。

 太宰の『走れメロス』は、笛を吹き、羊を追う、村の牧人メロスが主人公である。ある日、或る老人の「王様は人殺しです」という言葉を、メロスはマに受けて、王を「生かしておけぬ」と憤り、王城へと向う。メロスはおよそ、“政治はわからぬ"そして“単純な男"であると、作者もことわりを入れている。

 だが、同じ青森県の出身であり、太宰嫌いで有名な寺山修司は、太宰治論を述べた『歩けメロス』という評論に、のそのそと王城へ入っていくメロスを、見知らぬ老人の一言で、殺人を決心してしまうような“あかるい正確"の“のんきな男"というのは、私には耐えがたいと語り、『走れメロス』を解体していく。

 たとえば、それが見知らぬ老人ではなく、最近、将官に出世したばかりの兵士の母親だったら、事情は一変していただろうと仮定して、「王様は、思いやりのある人です」という母親の言葉をマに受けたとすると、メロスは花束でも抱えて王城を訪ねたかも知れないと寺山は述べるが、さもありなん。

 太宰の『走れメロス』は、こうした無神経さをメロスに与えることにより、最初から一つの滑稽譚の様相を見せていると、寺山は見解して、更に話しは続く。

 メロスは斥候能力に欠けて、 敵情視察の不充分な為に、すぐさま巡邏の警吏に捕らえられて、王の前に引き出されたが、所持していた短刀の用途と目的を詮索されると、「市を暴君の手から救うのだ」・・・・・・と、メロスは胸を張って応えた。

 そこで、寺山は市を暴君の手から救おうとしているのならば、こうした無策ぶりも、困ったものであると述べる。さらに、大体が軽卒であるとつけくわえ、一人の跳上りの逮捕により、王城の警備は一段と厳しさを増し、メロスの妄動は、“反革命"的でさえあったと言わなければならず、こんな男を、無知と純粋さによって“愛すべきやつ"と考えてやるほど、政治的現実はゆるやかではない。ディオニス王の場合も、彼の圧政下にあったシクラス市民たちの場合も、生きることにシノギを削 っていたに違いないと、寺山はリアリズムで見解する。

 ディオニス王は、メロスを磔刑にするようにと命ずるが、なんとメロスは命乞いをはじめる。寺山に言わせると、王の事情には耳を傾けもしないが、じぶんの“家庭の事情"は聴いてください、というワケで、その自分勝手なワケとは、「たった一人の妹に、亭主を持たせて、三日のうちに村で結婚式を挙げさせてやり、必ずや、ここへ戻って来ます」・・・・・・という事情で、もしも、妹の結婚式が王の命より大切だと考えていたのなら、何故さっさと結婚式へ行かずに、王殺しに熱中したのだと、寺山は疑問を投げかける。

 自分の無計画さの責を、己れの殺そうとした相手に負わせようと甘えるのでは、いくらなんでも調子がよすぎるし、 それに第一、行当りばったりで、人を殺そうとした者は、行当りばったりで殺されること位の覚悟は必要であろう。それに妹の結婚式に兄がいなければならぬというのも、あまりにも説得力が乏しい理由でもある。

 だまっていても自力で妹は結婚できるだろうし、それができぬほど過保護な妹に育てたメロスに、ディオニス王の政治批判をすることなど、できるであろうかしら、たとへば、メロスが王を殺したとして、メロスが王の妹の結婚に、如何なる猶予を与えるというのだろう?・・・・・・と、この辺で、寺山はソロソロ、このテロリストに愛想がつきてしまうが頷けよう。


 寺山はメロスと太宰はよく似ているという。その自己中心性とナルシズムは、シラーの壮大な叙事詩を“人質"にして、あまりにも矮小化させてゆくばかりだと嘆息するばかりだ。

 メロス曰く「私は約束を守ります。私を三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私が信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを人質としてここへ置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の夕暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい!」

 身勝手なメロスは本人の了解も得ずに、いきなり牢獄に入れられるセリヌンティウスという 石工の迷惑など顧みずに、寺山は続けてメロスについて考えてみる。

 メロスには、自分の妹の結婚式が、セリヌンティウスの日常生活よりも、はるかに重要だと考える或る種の思い上がりがあり、そのことが一段と太宰治の小説をシラーの原作から遠ざけていると考える。

 しかも、この場合、友情物語であるならば、石工のセリヌンティウスが自ずと身代わりを買うのが筋だと見解するが、それは妥当と思われる。

 しかし、それはともかくとして、メロスはセリヌンティウスを獄に入れ、無事に妹の結婚式を終えた後に、市の王城に向って走り出す物語のクライマックスへと向かう。

 そして、この小説の大半の紙数を費やして、メロスがいかにして約束どおりに三日目の日暮れに間に あうように走ったか、という描写を濃密に詳細に文学的に綴る。

 「私は今宵殺される。殺される為に走るのだ。身代わりの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れと教えられた。さらば、ふるさと。」

 このエゴチストの道化の頭を去来しているのは、ひたすら、自分のことばかりだと寺山は見解する。そして、メロスは走りながら言葉を吐き続ける。

 「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きなものの為に走っているのだ」と、・・・・・・この「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」という のは、メロスの名誉に換喩されていると寺山は分析する。

 本来ならば、間に合うことによってセリヌンティウスの命を救うために走る、というべきところを、「自分が信じられているから」走る、と言い換えることにより、メロスは太宰独特の自尊心文学の系列に加えられると寺山は位置付ける。

 寺山は、太宰の文学を、父性喪失を特色としていると見抜き、すなわち、思いやりに欠けて、何を書いてもモノローグであり、『走れメロス』においては、セリヌンティウスやディオニス王の都合が一切省かれてしまっていると洞察する。

 この場合の“父性"は、具体的な父親のイメージからはじまり、ゆきつくところは支配的な社会的構造となる。『走れメロス』では、父親たるべきディオニス王 が、兄弟化して、メロスやセリヌンティウスと同格にしか扱われていない。つまり、兄弟社会の特色は、役割交換が容易だと寺山は述べる。

 「役者になりたい」「白状し給え。 え? 誰の真似なの?」・・・・・・などと書くとき、太宰の頭には、家族におけるような情動的関係も、支配構造のもっているぬきさしならぬ階級も存在せず、ただひたすらに無名の機能を営み、無名の機能によって支配されている単独者の自尊心だけが存在していると寺山は分析する。

 このことは、太宰の“侵害的"な自己形成、それは「生まれてきてすみません」といった言葉と無縁ではなく、A・ミッチャリーヒなどを用いて指摘をしている。

 その指摘とは、「ナルシズム的、攻撃的な本能表現は、系統的に みて、あらゆる侵害的体験によって強化される」のであり、太宰文学の読み方は、その侵害的体験、原罪意識が何であったかを解釈し、鑑賞することだとも言えると、寺山は見解する。




 さて、メロスは妹の結婚式からの帰途で、川の氾濫による橋の決壊や山賊の襲来など度重なる不運に遭遇する。メロスはそのために心身ともに困憊し、一度は王のもとに戻ることをあきらめかけた。しかし、その時、メロスは自分自身が、かの人間不信の王がいう“醜い人間”そのものである事に気づき、再び走り出す。

 そして、メロスは刑場にとびこんできて、「セリヌンティウス、私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし、私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえないのだ。殴れ。」と叫ぶのでした。

 時間に遅れそうになって、相手に不安を与えたからではなく、悪い夢を見たから殴ってくれ、というのは甚だ しい甘えであると寺山は言う。そして、どこまで面倒を見てもらいたいと言うのだろう。第一、殴ることは奉仕であり力仕事でありサービスである。さんざん迷惑をかけておいて、こうした、一方的な関係を“友情"と呼ばれるには我慢がいると寺山は更につけくわえる。

 文芸評論家の奥野健男は、『走れメロス』について、「人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な文体で表現されていて、(中略) 深い感動の奥行き」を伝えている、と書いているそうだが、寺山は、この小説からそうしたものを読みとれることは、きわめて困難であると断定する。

 もし、一つの信頼が描かれているとするならば、それは三日間の猶予を与え、三日間、セリヌンティウスを殺さずに、メロス を待っていたディオニス王の戯れの中に、見出されるであろう。だが、そのディオニス王も「顔をあからめて、《信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わたしも仲間に入れてくれまいか。》」と、言うことで、父性を放棄してしまうことになる。

 “圧政への反抗と正義"に到っては、思想的にも心情的にも絶無であって、メロスは王の磔刑に抗して最後まで戦うどころか、妹の結婚式のために、その王と取引きをする卑劣漢である。こうした傾向は、他の太宰文学にも共通していて、作中にナルシストの一人の道化を登場させ、その彼の大げさな身ぶりを借りて、太宰自身が何かを物語ろうとするのではなく、むしろ逆に読者を異化し、友情も信頼も“身ぶり“化してしまう。

 つまり、 寺山が言いたいのは、不在の父親を必要としているのは太宰自身ではなくて、読者側にこそ現代には潜在していて、読者は太宰の“書物を生活する"のではなく、彼の書物を異化効果をもたらす一人の道化役として扱うことによって、文学的世界から演劇的世界へと、“生活する"場所を置換することになるのだと結論する。

 文末で寺山は、太宰に欠けているものをあげている。

 それは、エロス、またはリビドーの満足を約束する人間関係への信頼。自分の心的生活のための解毒剤。他人の都合への関心。運動神経。持続する日常、たとへば“歩く"ことへの興味。そして、いまは春なのに、平気で、

 「春ちかきや?」

 などと書く、もの欲しさの克服。「お前は嘘がうまいから、行いだけ でもよくなさい」と叔母は言ったそうだが、私ならばこうつけ加えておきたい。「お前は素顔がまずいから、せめて仮面だけでもいいのをつけなさい。」

 いい仮面というのは、鏡のように、他人の顔をうつしてくれるものであるのだ。(了)

 

昭和31年に近代生活社刊行による奥野健男『太宰治論』が刊行されるが、この折りこみの「出版だより」に三島由紀夫の文章がある。それは三島による太宰批判の端緒であり、公による最初の太宰嫌いの発言でもあった。それでは以下に一部抜粋しておこう。

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 ・・・・・・私はたった一度、太宰氏に会ったことがある。学生時代、文学青年の友人に誘われて、太宰氏が大勢の青年に囲まれて、何か広い陰惨な部屋で酒を呑んでいるところへ私は入って行った。私は太宰氏の正面に坐っていた。そして開口一番、

 「僕は太宰さんの小説がきらいなんです」

 と言った。氏ははっきり顔色を変えて、

 「何ッ」

 と言った。それからしばらくして、思い返したように、うつむいて、横をむいたまま、

 「なあに。あんなことを言ったって、好きだから来るんだ。好きでなくて、こんなところへ来るもんか」

 と言っていた。

 亡き太宰氏よ。日本人というものが、皆が皆、女のように、「あなたなんかきらい」と云って愛情を表現するとは決まっていないのである。それが証拠に、あれから十年後、あなたの容貌にまでケチをつけている男が、ここにちゃんと生きているのである。

 何故私は太宰氏のところへ行ったか? それは大した問題ではない。人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだってある。

 さて、奥野健男氏は太宰文学が好きなのである。校正刷を一読して、今さらながら、その好きさ加減に瞠目した。

 これだけ好きなら、何も文句を言うことはない。しかしこれは私にとって永遠に解けぬ謎であり、批評のもつ唯一の神秘であるが、正確を期した愛し方というものが人間にはできぬ以上、批評の最後の機能は、愛なのであるか? それとも正確さなのであるか?

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 三島由紀夫は、三十歳過ぎての自殺は醜悪だ、四十歳で心中した太宰治など全く見るに耐えないと、何度も周囲に語っていたという。それでも自分自身が四十五歳になって、割腹自殺を遂げたのである。日本古来の伝統的である死の形式をもって、太宰は私的情痴心中であったが、三島は公的切腹におもえる自決を演出した。形式的には正反対にも思えるそれぞれの自裁であったが、結果的に死に様も太宰と三島は対極のスタイルを演じて自ら死に臨んだといえる。(了)


 東映ヤクザ映画「博奕打ち」シリーズの第四作『 総長賭博』は、1968(昭和43)年に山下耕作監督、笠原和夫脚本、鶴田浩二主演の作品。

 この映画は三島由紀夫が絶賛した事でよく知られる、東映ヤクザ映画の伝説的な最高傑作である。そのあらすじは・・・・・・




 昭和のはじめ天竜一家の総長が倒れたことから、跡目相続の問題が浮上する。中井信次郎(鶴田浩二)が二代目を推挙されるも、服役中の兄弟分であり、妹弘江(藤純子)の亭主の松田(若山富三郎)を推して辞退する。しかし、服役中であることを理由に、組長の娘婿である石戸(大木実)が二代目を継ぐこととなった。

 出所した松田は兄貴分の自分をさしおいての二代目決定に怒り、石戸に殴り込みをかける。これにより謹慎に処せられてしまった松田だが・・・・・・実は、この二代目襲名には松田を失脚させ、一家を乗っ取ろうという仙波(金子信雄)の画策が裏にあった。

 松田と石戸の間を取り持とうとする中井だが事態は裏目裏目に出てしまい遂に、松田の子分である音吉が石戸を襲撃して事件が起きてしまう。一度は音吉を匿った中井だが、妻のつや子(桜町弘子)は音吉を逃がしてしまった責任を取って自害してしまう。

 二代目披露花会の日、石戸は仙波の画策を知らされ初めて自分が利用されていた事に気づく。しかし、その直後に松田に襲われて手負いを受けた石戸は、仙波組の手の者に殺されてしまう。荒川一家存続のために松田を斬った中井は怒りを胸に抱き、単身で仙波の元に向かいその手で畳に沈めるのだった。




 DVDのパッケージにある宣伝文には、三島由紀夫が激賞した作品とあり、「絶対的肯定の中のギリギリに仕組まれた悲劇」と書かれていて、名作中の名作と宣伝文句の推薦文が掲載されている。

 1971年(昭和46年)の初版で、三島由紀夫の著作に『蘭陵王』がある。これに「鶴田浩二論~“総長賭博”と“飛車角と吉良常”のなかの~」という一文は、昭和44年の「映画芸術」3月号に掲載された文章らしく、ボクの拙い映画評論よりは、この一文のほうが断然によいので以下に掲載させていただく事にしよう。

 その前に、『蘭陵王』にある「鶴田浩二論」の書き出しには、内田吐夢映画監督による『飛車角と吉良常』の作品に出演した鶴田浩二の演技に甚だ感心したと、まずあり、阿佐ヶ谷の映画館まで『総長賭博』を観にいく話から始まる。小雨そぼふる月曜日の夜を阿佐ヶ谷パールセンターを通り、旧国鉄阿佐ヶ谷駅南口の小さな古ぼけた映画館に脚を運ぶ描写から始まる。

 パールセンターを歩く三島は天蓋付きの商店街を歩いたと表しているが、旧国鉄中央線阿佐ヶ谷駅で降りずに、パールセンターを歩いたとすれば、地下鉄丸の内線の南阿佐ヶ谷駅で降りたと想われ、そこから徒歩で行ったと思わしい。

 けばけばしい看板がわびしく見える映画館には、切符売場に人影が無く、最終回の映画は始まりだしていたので三島は焦り、気持ちが急いていたが、映画館の奥から割烹着のおばさんが下駄の音もかしましく切符売場へ戻ってきたので、とにかくもホットする。

 急いで切符を買って中へ入ると、思っていたよりはかなりの入りで満席に近い、最前列の座り心地が悪くヤケに低い椅子に腰掛ける。舞台上手の戸がたえずきしんで、あけたてするたびにバタンと音を立て、しかもそこから入る風がふんだんに厠の臭いを運んでくるのであった。・・・・・・それでは以下は三島の文を抜粋して載せよう。





 ・・・・・・このような理想的な環境で、私は、『総長賭博』を見た。そして甚だ感心した。これは何

の誇張もなしに「名画」だと思った。何という自然な糸が、各シークエンスに、綿密に張りめぐらされて

いることだろう。セリフのはしばしにいたるまで、何という洗練が支配しキザなところが一つもなく、物

語の外の世界へ絶対の無関心が保たれていることだろう。(それだからこそ、観客の心に、あらゆるアナ

ロジーが許されるのである)何と一人一人の人物が、その破倫、その反抗でさえも、一定の忠実な型を守

り、一つの限定された社会の様式的完成に奉仕していることだろう。たった一箇所、この小世界が破れか

かる右翼団体のエピソードがあるが、それすら麻薬密売をたくらむ暴力右翼で、何らイデオロギーも、そ

の批判も匂わない。何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は

何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう。

 雨の墓地のシーンは、いずれもみごとな演劇的な間と、整然たる構成を持った完全なシーンで、私はこ

の監督の文体の確かさに感じ入った。この文体には乱れがなく、みせびらかしがなく、着実で、日本の障

子を見るように明るく規矩正しく、しかも冷たくない。その悲傷の表現は、内側へ内側へとたわみ込んで

抑制されているのである。

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 上の文章の後に、鶴田浩二の男の美学とダンディズムへと語り口は移行していくのだが、『蘭陵王』という三島由紀夫の著作は、昭和42年から45年の三島の最晩年の評論で、三島由紀夫の死後、昭和46年に刊行された名著であり評論集なのである。(了)