空閨残夢録 -26ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

 



 

 昭和58(1983)年に立風書房より『三島由紀夫おぼえがき』を澁澤龍彦は上梓するが、これは澁澤の三島論であり、エッセイおよび、対談などが収録された作品である。澁澤の個人的な思い出から、『花ざかりの森』から『豊穣の海』までの書評などを、高度な芸術観で描出した高く評価される三島由紀夫論の好著であろう。

 三島由紀夫の有名な戯曲で幾度も上演された傑作『サド侯爵夫人』は、澁澤龍彦との邂逅がなければ生まれなかった名作といっても過言ではない。マルキ・ド・サド研究では本邦で第一人者でもある澁澤は、三島との出逢いもサドの翻訳本が機縁となっている。

 それは、彰考書院版『サド選集』に序文をもらうために、澁澤が三島に初めて手 紙を出し たのが 昭和31(1956)年5月のことで、それより二人の交友は三島の死までつづくいた。

 サド侯爵を通じて澁澤龍彦と三島由紀夫は縁を持つことになったが、二人の“サド”観はかなり異なっていた。それは澁澤のサド観は、徹頭徹尾、地中海的な伝統の上にたつ、18世紀のリベルタンとしてのそれであったが、しかし、三島のサド観は、これとはいくらか相違していたと、澁澤自信も後に述べている。澁澤のサドが、明るい幾何学的精神のサドとすれば、三島のサドは、暗い官能的陶酔のサド、つまり“神々の黄昏”としてのサドだったと澁澤は回想している。

 澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』が上梓されたのが昭和39(1964)年のことであるが、三島は読了して澁澤に手紙で「サドが実生活では実に罪のないこと しかやっていないのを知り、愕きました」と書いてきて、書評では「 実にこの伝記を通読すると、すべては呆れるほどノーマルなのにおどろかせれる」と書いている。アブノーマルを期待していたのに、ノーマルだったのでがっかりした、とでもいっているかのような調子であったそうな。

 昭和40(1965)年に澁澤の援助で三島は『サド侯爵夫人』を書き上げる。それから5年後、遺作となった『豊穣の海』の第三巻である「暁の寺」に登場するドイツ文学者の今西康は、誰が読んでもこれは澁澤龍彦がモデルであると想像してしまう人物であるが、そのことはさておき、今西康による“性の千年王国(ミレニアム)”のユートピア論が非常に面白く、この逆ユートピア幻想譚は「柘榴の國」という未来の世界として、物語の主軸から離れた幻想譚として登場する。






「ちかごろ『柘榴の国』ではどんなことが起こってゐるの?」

「あひかはらず人口はうまく調節されてをりますよ。近親相姦が多いので、同一人が伯母さんで母親で妹で従妹などといふこんがらかつた例がめづらしくないけれど、そのせゐかして、この世ならぬ美しい児と、醜い不具者とが半々に生れます。

美しい児は女も男も、子供のときから隔離されてしまひます。『愛される者の園』といふところにね。そこの設備のいいことは、まあこの世の天国で、いつも人工太陽で適度の紫外線がふりそそぎ、みんな裸で暮して、水泳やら何やら、運動競技に力を入れ、花が咲き乱れ、小動物や鳥が放し飼いにされ、さういふところにゐて栄養のよい食物を摂つて、しかも毎週一回の体格検査で肥満を制御されますから、いよいよ美しくならざるをえませんね。但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されてゐます。読書は肉の美しさを何よりも損ふから当然の措置ですね。
 
ところが年ごろになりますとね、週一回この園から出されて、園の外の醜い人間たちの性的玩弄の対象にされはじめ、これが二、三年つづくと、殺されてしまふんです。美しい者は若いうちに殺してやるのが人間愛といふものぢやありませんか。
 
この殺し方に、国の芸術家のあらゆる独創性が発揮されるんです。といふのは、国ぢゆういたるところに性的殺人の劇場があつて、そこで肉体美の娘や肉体美の青年が、さまざまの役に扮してなぶり殺しにされるのです。若く美しいうちにむごたらしく殺された神話上歴史上のあらゆる人物が再現されるわけですが、もちろん創作物もたくさんありますよ。すばらしい官能的な衣装、すばらしい照明、すばらしい舞台装置、すばらしい音楽のなかで壮麗に殺されると、死にきらぬうちに大ぜいの観客に弄ばれ、死体は啖はれてしまふのが普通です。





 
 この「柘榴の國」という逆ユートピアの世界は澁澤龍彦の世界観とは全く違う。なぜなら、澁澤の遺作となった『高丘親王航海記』という作品世界を俯瞰するに、「柘榴の國」では、殺人、近親相姦、悪徳と美に彩られたエロスが横溢しているが、澁澤の小説や幻想譚には血や悪徳の匂いとは無縁であり、この『高丘親王航海記』に関すれば明るく無邪気な怪奇幻想の世界であるのに対して、「柘榴の國」では陰惨で血にまみれ暗く官能的なエロスが彷彿としている。

 国枝史郎、小栗虫太郎、江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭などの小説よりも《柘榴の國》の物語は、三島由紀夫と澁澤龍彦が絶賛した沼正三の『家畜人ヤプー』という奇妙奇天烈な小説に最も近いかも知れない。そ れは、この奇書も逆ユートピアの世界を描いていて、「柘榴の國」の世界は三島流の『家畜人ヤプー』ともいえるだろう。ただし、『 家畜人ヤプー』の小説で描かれているのは徹底的なマゾヒズムの世界だから、「柘榴の國」のサディステックでナルシズムの“鏡の国”の劇場は、性的嗜好や美意識の違いは趣きが全く異なり対極の世界を映している。

 『家畜人ヤプー』は奴隷以下で家畜同然の日本人が悲惨な状況でありながら、沼正三による滑稽譚のようなブラックなレトリックにより、悲壮を超えて苦笑いこそ誘われる世界であるが、こと三島の硬質の文体で描かれる「柘榴の國」では、陰惨で血にまみれ悪徳の匂いが蔓延した世界は、反『家畜人ヤプー』としての座標軸に位置するかも知れない妄想と幻想の世界である。

 さて、『仮面の告白』なのだが、この小説の第一章は、三島由紀夫の生誕から7歳までの記憶が綴られて、 第二章は13歳からの思春期の頃が書かれているのだが、そこで《聖セバスチャン殉教図絵》のエ ピソードが重要なポイントとして描かれていた。

 第一章の主人公の少年時代の記憶として性的な重要なエピソードに、①汚穢屋(おわいや)の男のエピソードがあるが、つまり、糞尿汲取人が紺の股引を穿いて肥桶を前後に担ぎ坂を下るところの描写で、この時に主人公が「私が彼になりたい」、「私が彼でありたい」という欲求が私をしめつけたという件。

 ②絵本の白馬に跨り剣をかざすジャンヌ・ダルクの絵に偏愛して、美しい騎士の死に対して私の抱いた甘い幻想。

 ③男の汗の匂い・・・・・・練兵から帰還する軍隊の兵士たちから匂う体臭の記憶。

 ④女奇術師の松旭斎天勝の舞台を観て、「天勝になりたい」という想いから女装を試みる。

 以上①~④のエピソードに主人公の記憶と性的に倒錯した感情が描かれているのだが、三島が憧れた女奇術師の松旭斎天勝について、④の記憶を話題としたい。

 その松旭斎 天勝(しょうきょくさい てんかつ・本名、中井かつ、1886年- 1944年)は、明治後半から昭和初期まで興行界で大成功した女流奇術師で、東京、神田生まれである。

 1895年 (明治28年)、神田松富町の質屋の娘だったが家業が失敗して、門前仲町の天ぷら屋に奉行人として勤める。店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。それからは 奇術を積極的に自分の物にすると決心、妾を宿命とし受け入れた。弟子70人を数える『天一一座』でスターとして頭角を表わし、「天勝」として舞台へ出演した。

 日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。

 1911年(明治44年)、27歳で独立。座員100名を越す『天勝一座』の座長になった。一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚。奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。

 “奇術といえば天勝”という代名詞にもなったほどの 知名度を誇り、キャラクター商品なども当時は大ヒットした。その頃に得意芸としては水芸などがある。この人気と知名度とにあやかったニセ物の “天勝一座” も複数現れたと言われる。

 引退後は姪に二代目へ天勝の名を譲る。50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、一生を添い遂げた。二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)も遡れば松旭斎一門へたどり着くといわれる。

 少年・三島由紀夫も憧れた松旭斎天勝は、三島が生まれる10年も前に(大正4年)有楽町で魔術応用劇「サロメ」を演じている。それは前年の大正3年9月に島村抱月と松井須磨子の芸術座が、「サロメ」を帝国劇場で日本人による最初の公演をはたした翌年の事。

 本郷座の川上貞奴も大正4年に「サロメ」を演じているので、この時、オスカー・ワイルドの「サロメ」の上演が流行となっていた ことが伺われる。

 ワイルドの戯曲『サロメ』は森鴎外が本邦で初翻訳して紹介したが、昭和13年に日夏耿之介により翻訳された『院曲撒羅米』は、三島由紀夫のお気に入りの翻訳であり、1960年(昭和35年)に文学座で三島は日夏訳で「サロメ」の演出を果たしている。

 浪漫劇場で三島由紀夫は日夏訳の戯曲「サロメ」の再上演の演出を予定していたが、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決したために、急遽1971年3月に浪漫劇場は三島由紀夫追悼公演として「サロメ」を上演して解散する。

 三島由紀夫の遺作となった長編ロマンである『豊穣の海』の第三部「暁の寺」にある《柘榴の國》の挿話は、その長大なアラベスクの一端ではあるが、三島のエロティシズムの“アラビアン・ナイト”の逸話として昏く頽廃の匂いを放つ逸品である。この物語の根底にはオスカー・ワイルドの「サロメ」が、また舞台の天勝が、三島由紀夫の“エロスの劇場”に大きな影響を与えたに違いない。(了)






 五社英雄監督の1969(昭和44)年の作品である『人斬り』のリバイバル上映を東京で観たのが1985年のことである。まず、この映画をみて強く感じたのは迫力ある殺陣であり、冒頭から勝新太郎演ずるところの岡田以蔵が一人で居合いをする場面では、電信柱より太い樹木を、横に一刀両断するシーンは実際に切断しているように見えて、トリックにみえないので驚かされた。

 主演は勝新太郎が岡田以蔵役、世に知れた「人斬り以蔵」こと、土佐勤皇党の幕末の“四大人斬り"の一人を演じている。幕末四大人斬りのもう一人に薩摩藩士の「人斬り新兵衛」こと、田中新兵衛を演じるのが三島由紀夫である。

 二人のテロリストの他に、彼らを影で操る土佐勤皇党の重鎮は武市半兵 太を仲代達矢、また坂本龍馬を石原裕次郎が演じている豪華キャスト陣。この映画の岡田以蔵は獣性にあふれた実践的な剣法で、きって、斬って、斬りまくる激剣を揮う剛腕の持ち主。この映画の殺陣は日本のチャンバラ映画史上に、燦然とリアリズムに徹している伝説的な作品である。

 命じられて刺客となり暗殺を難なくこなして、裏の仕事を武市半平太に認められて、その金で儲けで酒がたらふく呑めて、女が抱ければ、それだけでイイと、単純に以蔵は、ただそれだけで日々よかった。以蔵には尊皇も攘夷も革命もない。あるのは情動と獣性が赴くままにテロルを実行する快楽に身を任せて、武市半兵太に評価されることだけが最大の幸せであった。

 斯様な岡田以蔵の迫力ある殺陣と双璧をなす ように、三島由紀夫を演じる田中新兵衛の気迫ある演技は迫真へとせまる。そして殺陣よりも激しく渾身を越えて演じられる切腹場面では、演技を超絶した激しい緊張を発散してあまりにも激烈だ。

 この映画が公開されて1年後に三島由紀夫は現実に割腹自決を遂げるのだが、まるで映画『人斬り』での切腹場面が、今思うに予行演習であったような気分にされてしまう緊迫した迫真の演技であった。

 この映画で、武市半兵太が当時34歳、坂本龍馬28歳、田中新兵衛22歳、岡田以蔵25歳である。史実では一番若い田中新兵衛が、当時三島由紀夫44歳で主演男優のなかでも一番年上にも関わらず、何故か年齢的なものを越えて颯爽として一番若々しく見えるのが不思議な気持ちにさせられる。五社監督の映画 では、ボクはこの映画が一番の渾身の力作で傑作時代劇だと思うのだが、名作に間違いない幕末チャンバラ映画である。




 さて、世界に類をみない切腹という日本独自の風習はサディズムとマゾヒズムの極致である。このSとMの行きつくところは間違いなく《死》である。ジョルジュ・バタイユは「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」と定義したが、愛の相対的な関係性を極限まで高めて極めれば、絶対的な関係性へと収斂しパラフレーズされる。

 切腹の深層心理学的な分析はむずかしいだろうし、それがエロティシズムと関連して語るのは難解でもある。切腹願望が如何なる心理から生れるものか、コンプレックスという語が示すとおり、それは複雑にして怪奇、かつ錯綜した心理状態そのものと言い表すしかないであろうが、そのエロスの深淵に触れることより、表層的な事例をここ では披瀝するのみとする。

 切腹の発祥から、その歴史を一貫して俯瞰してみると、その総体を一括すれば“悲壮美”という世界に尽きる。古来、切腹の事件で源為頼が有名である。追っ手にかこまれた為頼は、もはや捕囚となる身よりも、と、家の柱に背を当てて腹をかっさばいたが死にきれず、背骨を切断してやっと息絶えたと伝わる。つまり、脊髄の中枢神経を切断したわけである。

 腹を切るといっても、第二次世界大戦後から現代にいたるまで、テレビの時代劇くらいでしか、そのイメージを目にすることはなくなったであろうが、江戸時代の武士でさえも現実に切腹を目撃したり、観察記述した記録は数少ない。徳川幕府約250年の治世で刑としての切腹の記録はわずかに20件ほどしか執行され ていないのである。

 江戸時代の幕末における騒乱期以外は刃傷沙汰や、はてや切腹というイメージは歌舞伎や伝聞による形を通じてしか世間の人々は見聞きすることはなかったのが実情である。

 さて、切腹行為の文献的初見は、永保3年(1083)から寛治元年(1087)にわたる『後三年合戦絵巻』の一部にある絵画で見受けられる。切腹した男が右手に短刀を握り、一文字の切口から腸を引き出して倒れている姿がある。

 この絵巻にある以前から切腹という行為はあったであろうと思われる。和銅6年(713)の『播磨国風土記』にある記述に腹辟(はらさき)の沼の由来を表した箇所があり、この沼に切腹した者が没ちたことが述べられてる。新渡戸稲造はその著作の『武士道』で切腹の意義を論述 しているが、その解義たるや民俗学的に重要と思われる。

 鎌倉時代に登場し、江戸時代初期に格式化された切腹は、武士の名誉ある刑死や自決として一つの《式次第》ができあがった。介錯人を頼むことがその一つで、古式にある腸(はらわた)をひっぱりだす必要はなくなり、形式的に単純化される。

 生理学的に切腹は死に至るまで時間を要する。つまり、腹部には大血管が通っていないので、即時に生命は失われず、長期の苦痛をともない絶命まで長くかかる。自殺という目的からすればかなり効率の悪い方法だといえる。

 されど自殺マニアにとっては魅力的な方法が切腹でもある。古来に怨みを相手にぶつけて無念をはらす悲壮美としての自殺という表現行為が、過剰な表現形式である が故に爽快感へと意識は為んなく転移する。その満足を与える爽快さは快楽へと変質するのはマゾヒズムの境地でもある。また罪の意識を抱える者には誠意を見せる格好のスタイルとしての自殺形式なのである。



 

 

 三島由紀夫没後、伝説として語り継がれてきた“幻”の映画である『憂国』がDVD化されたのは2006年のことであった。1966年に『憂国』は劇場公開されのだが、三島由紀夫没後に夫人の意向で『憂国』の上映プリントは処分されてしまったと伝わる。

 しかし密かに三島邸で封印されていたネガ・フィルムが発見されて、2009年にDVD化の運びとなるのだが、ボクは25年程前に有志により秘匿されていたフィルムを或る同好会が主催した上映会で、この『憂国』を観ていた。

 原作・脚色・製作・監督:三島由紀夫、プロダクション・マネージャー並びに製作:藤井浩明、演出:堂本正樹、撮影:渡邊公夫、主演:三島由紀夫、鶴岡淑子/1965年製作、35mm 黒白スタンダード版、上映時間28分。

 能舞台に見立てた美術セット、そこで行われる愛の交歓シーン、そしてリアルな切腹行為が展開して、全編セリフなしの白黒の映像には、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」がすべてのエモーションとなる。

 物語は、昭和11年、“2.26事件”が勃発、新婚であるがゆえに仲間から決起に誘われなかった武山中尉(三島由紀夫)は、皮肉なことにかつての親友たちの鎮圧を命ぜられる。国も友も裏切ることのできない中尉は、妻の麗子(鶴岡淑子)と共に自決の道を選択する。

 この「愛と死の儀式」を拙い言葉でボクが語るよりは、ここで三島由紀夫の文学の盟友である澁澤龍彦の評論から一文を掲載したいと思う。

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 「黒い血の衝撃 (―三島由紀夫「憂国」を見て―)」




 三島氏はこの映画で、日本人の集合的無意識の奥底によどんでいるどろどろした欲望に、映像としての

明確な形をあたえ、人間の肉の痙攣としてのオルガスムを、エロティシズムと死の両面から二重写しに描

き出した。愛欲のオルガスムがあるように、死のオルガスムというものがある。簡素な能舞台で、主人公

の陸軍中尉とその妻は、ふしぎな相似形を示した二度のオルガズムに陶酔する。そして、それだけであ

る。余分なものは何もないのである。

 割腹する青年将校の胸にしたたる汗の玉。口からあふれ出る血。苦悶の歯ぎしり。とび出す腸。そして

腹部から下帯からズボンから、刀を握った手まで真っ黒に濡らすおびただしい血、血、血。

 ――これらがカメラの目によって隅々まで眺められ、キャッチされた死のオルガズムの兆候であり、こ

の死と格闘してのたうちまわる夫を、観客とともに三十分、眺めなければならない妻は、あたかも夫を愛

撫を受けたかのように次第に陶酔に巻きこまれ、かすかに口をあけてあえぎながら、膝を乗り出してゆ

く。この着物を着た日本のイゾルデは、最後まで決して目をつぶらない。

 俳優としての三島氏は、軍帽をま深にかぶり、一度も顔をあらわさず、その魂の深い深いところで行わ

れているはずの情念の葛藤を、決して外にあらわさないための配慮をこらしている。

 それは無言の、孤独の、肉体という袋のなかに完全に閉じ込められた情念の劇であるから、伝達不可能

なものであり、ただ私たちのは、この肉体の袋を突き破ってほとばしる血の顕現によって、わずかにそれ

をうかがい知ることしかできないのである。血を流さなければ、断固として流通し得ない情念が存在して

いることを、この映画は教えている。


                                            (「東京新聞」昭和41年3月某日)

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 この映画の原作になった三島由紀夫の短編小説『憂国』は、昭和36年1月冬期号の「小説中央公論」に書き下ろされたものである。






 三島由紀夫の“褌(ふんどし)"フェティシズムは、その昔に有名であった。四文字の熟語に「緊褌一番」という成句があるのだが、大勝負の前に、或いは、難事などをむかえる心構えなり、気合を入れて事に望む意気込みを表わす意である。つまり、「緊褌」とは、六尺ふんどしを固く引き締めることで、大事の前に心意気を引き締める思いがこめられている。

 緊褌という言葉があるように“フンドシ"とは、いわゆる下着にしてボンデージであり、局所を隠す最小の衣装でもある。アダムとイヴが無花果の葉で陰部を覆ったのが人類の最初の衣装であろうが、褌はお相撲さんが締めている例もあり、闘技や軍(いくさ)と関係した衣装でもある。そんなところから「緊褌一番」のような言葉もある。

 相撲でもわかるように褌はきつく締めていないと勝負にはならないのであるが、エロティシズムという視点で褌をみてみると、性的器官への緊縛が精神に及ぼす緊張感となってある種の恍惚感を与えるし、観る者へもフェティッシュな感覚をよびさます。

 世には褌マニアという者も存在して、アンダーグランドの小説から、その一例を以下に引用してみよう。



「僕が初めて褌を締めたのは越中褌です。しばらくは満足しておりましたが、しばらくすると物足らなくなり、変わったものを締めてみたくなりました。モッコ褌、水泳褌、六尺褌と次々と代えてみました。ところが六尺褌の緊張感のすばらしさと共に何んともいえぬ快感を知った時から、僕は完全に六尺褌の囚となってしまいました。

 その後、現在に至るまで四六時中、六尺褌を着用しており、そして赤、黄、黒といろいろ色を変えてみましたが、やはり六尺褌はなんといっても白が一番良いようです。真新しいサラシの六尺褌を締めた時は心身共に爽快となり、元気が増すのをおぼえます。しかし、六尺褌もサラシの新しい間は、しっかりしていますが、何度も洗い返すと布が弱ってきます。すると、締めあげた時の快感も、それに従って減るように思います。」

(愛知輝一『褌に憑かれた男』) 



  緊褌の六尺褌を締め身につけるのは、かなりメンドウなフンドシでもあるのだが、マニアになると日夜コレをしめずにはいられなくなる輩もいるのである。



「巻きおわった軍刀を腰の前に置くと、中尉は膝を崩してあぐらをかき、軍服の襟のホックを外した。その目はもう妻を見ない。平らな真鍮の釦をひとつひとつゆっくり外した。六尺褌の純白が覗き、中尉はさらに腹を寛ろげて、褌を両手で押し下げ、右手に軍刀の白刃の握りを把った。そのまま伏目で自分の腹を見て、左手で下腹を揉み柔らげている。」

(三島由紀夫『憂国』)



 三島美学ならずとも、常識からいっても切腹には六尺褌が一番相応しい装束であろう。切腹には越中褌やパンツではサマにならないと思われる。そして刺青にも六尺褌はよく似合う男気の衣装であろう。褌という急所なり恥部を隠す衣服としては、表面積がギリギリ最小なものである。また、この衣装は緊縛という緊張を肉体に与えて精神に作用する下着でもある。

 精神とは、集中し、働いている心であり、心とは、分散し、休んでいる精神である。力には集中と分散の相互作用が均衡し必要となる。英語では “stuff "が“集中(かたまり)"であり精神を表わし、“dust "が“分散(ちり)"であり心を表す。

 衣装も精神や心に作用する重要なコスチュームであり、例えば、六尺褌は精神に作用し、越中褌は心にゆとりをもたらすはき心地なのである。

 現代の生活において褌を下着として着用することは無くなったが、今でも祭礼などで褌は身につけられている。ボクも過去に祭りで六尺褌を何度か身につけた経験がある。

 三島由紀夫は市ヶ谷での割腹自決の際に、軍服の下に六尺褌を身につけていた。この褌はパンツと違い、ギュッとひきしまる感覚で、しめてみると体全体までが、否、精神までがグット緊張を及ぼし、ある種の恍惚感さえ覚えてくるはき心地なのである。

 暑い夏の日にステテコ姿もよいが、また越中褌の緩やかな感じもよいであろう。仕事には気を引き締めて六尺褌、お家では心休めて越中褌という生活のスタイルが、精神と心にバランスをもたらし、気分転換になろう。

 されど越中褌も明治期に軍隊で採用され官給された。それは装着の利便性が重視されたからである。「褌」という漢字はコロモ偏に「軍」と書くが、古代からの軍服の名残であるのかも知れない。






 昭和43年(1968)の10月に、澁澤龍彦責任編集によるエロティシズムと残酷の綜合研究誌『血と薔薇』が天声出版より刊行される。ページを捲くると、巻頭には三島由紀夫の篠山紀信撮影による、「聖セバスチャン殉教図絵」を演じる三島が磔にされ矢で射抜かれた写真から始まる。

 巻頭の写真は三島由紀夫の他に、澁澤龍彦、俳優の中山仁、土方巽、唐十郎、歌手の三田明などが男の“死”を演じ被写体となっているが、この特集は「男の死」というテーマであり、フランス語で “LES MORTS MASCULINES” と題されている。

 この題の添え書きに、ジョルジュ・バタイユの言葉があり、それは「エロティシズムとは死にまで高められた生の賛美である」と記されている。

 バタイユの述べるところのエロティシズムの定義は、言い方を変えると、「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」という事なのだが、三島由紀夫は昭和45年(1970)11月18日、劇的な死の一週間前に、思想的立場を異にする評論家の古林尚氏と対談するが、この中で語られた発言の中にバタイユのエロスティシズムの定義が引用されている。

 そこで三島は、自分にとっての“戦後”の意味するもの、天皇制と絶対者の問題、死とエロスと美の関係、絶筆『豊饒の海』四部作のモチーフなどについて語っているのだが、まるで辞世の意を固めた上で、思想的立場を極めて饒舌に語っている対談である。

 このことは、作家・三島由紀夫にとって文学と、人生と、行動の哲学を、総括する最後の仕事であり、遺言とも思える熱いメッセージでもある最後の言葉となった対談なのある。

 さて、三島由紀夫の小説で『仮面の告白』は、作者である三島自身を主人公とする一人称による告白小説の体裁の作品なのだが、「私」の生まれたときから23歳までの青年の“ヰタ・セクスアリス”(ラテン語由来の性欲的生活を意味する)を描いた自伝的小説。

 三島由紀夫の明晰に構築された私小説である『仮面の告白』は、ヨーロッパ文学をわずか数年で血肉化した作品ともいえよう。では、この小説から13歳の性的なエピソードの一文を掲載してみよう。それは最初の自慰行為により、はじめて射精した事を表している。






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 ある日私は風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父の外国土産の画集を幾冊か部屋へもちこんで丹念に眺めていた。

  (中略)

 ・・・・・・するとその一角から、私のために、そこで私を待ちかまへていたとしか思われない一つの画像が現れた。

 それはゼノアのパラッツォ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニの「聖セバスチャン」であった。

 チシアン風の憂鬱な森と夕空との仄暗い遠景を背に、やや傾いた黒い樹木の幹が彼の刑架だった。非常に美しい青年が裸かでその幹に縛られていた。手は高く交叉させて、両の手首を縛めた縄が幹につづいていた。その他に縄目は見えず、青年の裸体を覆ふものとては、腰のまはりにゆるやかに巻きつけられた白い粗布があるばかりだった。

 それが殉教図であろうことは私にも察せられた。しかしルネサンス末流の耽美的な折衷流の画家がえがいたこのセバスチャン殉教図は、むしろ異教の香りの高いものであった。何故ならこのアンティノウスにも比(たぐ)ふべき肉体には、他の聖者たちに見るような布教の辛苦や老朽のあとはなくて、ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽があるだけでだったからである。

 その白い比ひない裸体は、薄暮の背景の前に置かれて輝いていた。身自ら親衛隊として弓を引き剣を揮ひ馴れた逞しい腕が、さしたる無理もなくい角度でもたげられ、その髪のちょうど真上で、縛られた手首を交叉させていた。顔はやや仰向きがちに、天の栄光をながめやる目が、深くやすらかにみひらかれていた。張り出した胸にも、引き緊った腹部にも、やや身を撚(よぢ)った腰のあたりにも、漂っているのは苦痛ではなくて、何か音楽のような物憂い逸楽のたゆたひだった。左の腋窩と右の脇腹に箆深(のぶか)く射された矢がなかったなら、それはともすると羅馬の競技者が、薄暮の庭樹に凭(よ)って疲れを休めている姿かとも見えた。

 矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰ひ入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼かうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢も描かれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のやうに、彼の大理石の肌の上へ落としていた。

 何はさて、右のやうな判断と観察は、すべてあとからのものだった。

 その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどほ)ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教へられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。・・・・・・

 ・・・・・・やや時がすぎて、私は自分がむかっていた机の周囲を、傷ましい思ひで見まわした。窓の楓は、明るい反映を、私のインキ壺や、教科書や、字引や、画集の写真版や、ノート・ブックの上にひろげていた。白濁した飛沫が、その教科書の捺金の題字、インキ壺の肩、字引の一角などにあった。それらのあるものはどんよりと物憂げに滴(したた)りかかり、あるものは死んだ魚類の目のように鈍く光っていた。・・・・・・幸い画集は、私の咄嗟の手の制止で、汚されることから免れた。

   
 これが私の最初の ejaclatio であり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった。

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 さて、ゼノア(ジェノバ)のパラッツオ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニ(1575-1642)の作品を少年の三島が初めて目撃した訳だが、この他に、ローマのカピトリーノ美術館にあるグイド・レーニによる「聖セバスチャン殉教図絵」があって、こちらはジェノバ美術館のものより矢が一本腹部に多く刺さっているのだが、三島由紀夫が篠山紀信に撮影させた「聖セバスチャンの殉教」を演じた写真と同じ構図となっているのに注目したい。