昭和43年(1968)の10月に、澁澤龍彦責任編集によるエロティシズムと残酷の綜合研究誌『血と薔薇』が天声出版より刊行される。ページを捲くると、巻頭には三島由紀夫の篠山紀信撮影による、「聖セバスチャン殉教図絵」を演じる三島が磔にされ矢で射抜かれた写真から始まる。
巻頭の写真は三島由紀夫の他に、澁澤龍彦、俳優の中山仁、土方巽、唐十郎、歌手の三田明などが男の“死”を演じ被写体となっているが、この特集は「男の死」というテーマであり、フランス語で “LES MORTS MASCULINES” と題されている。
この題の添え書きに、ジョルジュ・バタイユの言葉があり、それは「エロティシズムとは死にまで高められた生の賛美である」と記されている。
バタイユの述べるところのエロティシズムの定義は、言い方を変えると、「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」という事なのだが、三島由紀夫は昭和45年(1970)11月18日、劇的な死の一週間前に、思想的立場を異にする評論家の古林尚氏と対談するが、この中で語られた発言の中にバタイユのエロスティシズムの定義が引用されている。
そこで三島は、自分にとっての“戦後”の意味するもの、天皇制と絶対者の問題、死とエロスと美の関係、絶筆『豊饒の海』四部作のモチーフなどについて語っているのだが、まるで辞世の意を固めた上で、思想的立場を極めて饒舌に語っている対談である。
このことは、作家・三島由紀夫にとって文学と、人生と、行動の哲学を、総括する最後の仕事であり、遺言とも思える熱いメッセージでもある最後の言葉となった対談なのある。
さて、三島由紀夫の小説で『仮面の告白』は、作者である三島自身を主人公とする一人称による告白小説の体裁の作品なのだが、「私」の生まれたときから23歳までの青年の“ヰタ・セクスアリス”(ラテン語由来の性欲的生活を意味する)を描いた自伝的小説。
三島由紀夫の明晰に構築された私小説である『仮面の告白』は、ヨーロッパ文学をわずか数年で血肉化した作品ともいえよう。では、この小説から13歳の性的なエピソードの一文を掲載してみよう。それは最初の自慰行為により、はじめて射精した事を表している。
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ある日私は風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父の外国土産の画集を幾冊か部屋へもちこんで丹念に眺めていた。
(中略)
・・・・・・するとその一角から、私のために、そこで私を待ちかまへていたとしか思われない一つの画像が現れた。
それはゼノアのパラッツォ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニの「聖セバスチャン」であった。
チシアン風の憂鬱な森と夕空との仄暗い遠景を背に、やや傾いた黒い樹木の幹が彼の刑架だった。非常に美しい青年が裸かでその幹に縛られていた。手は高く交叉させて、両の手首を縛めた縄が幹につづいていた。その他に縄目は見えず、青年の裸体を覆ふものとては、腰のまはりにゆるやかに巻きつけられた白い粗布があるばかりだった。
それが殉教図であろうことは私にも察せられた。しかしルネサンス末流の耽美的な折衷流の画家がえがいたこのセバスチャン殉教図は、むしろ異教の香りの高いものであった。何故ならこのアンティノウスにも比(たぐ)ふべき肉体には、他の聖者たちに見るような布教の辛苦や老朽のあとはなくて、ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽があるだけでだったからである。
その白い比ひない裸体は、薄暮の背景の前に置かれて輝いていた。身自ら親衛隊として弓を引き剣を揮ひ馴れた逞しい腕が、さしたる無理もなくい角度でもたげられ、その髪のちょうど真上で、縛られた手首を交叉させていた。顔はやや仰向きがちに、天の栄光をながめやる目が、深くやすらかにみひらかれていた。張り出した胸にも、引き緊った腹部にも、やや身を撚(よぢ)った腰のあたりにも、漂っているのは苦痛ではなくて、何か音楽のような物憂い逸楽のたゆたひだった。左の腋窩と右の脇腹に箆深(のぶか)く射された矢がなかったなら、それはともすると羅馬の競技者が、薄暮の庭樹に凭(よ)って疲れを休めている姿かとも見えた。
矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰ひ入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼かうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢も描かれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のやうに、彼の大理石の肌の上へ落としていた。
何はさて、右のやうな判断と観察は、すべてあとからのものだった。
その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどほ)ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教へられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。・・・・・・
・・・・・・やや時がすぎて、私は自分がむかっていた机の周囲を、傷ましい思ひで見まわした。窓の楓は、明るい反映を、私のインキ壺や、教科書や、字引や、画集の写真版や、ノート・ブックの上にひろげていた。白濁した飛沫が、その教科書の捺金の題字、インキ壺の肩、字引の一角などにあった。それらのあるものはどんよりと物憂げに滴(したた)りかかり、あるものは死んだ魚類の目のように鈍く光っていた。・・・・・・幸い画集は、私の咄嗟の手の制止で、汚されることから免れた。
これが私の最初の ejaclatio であり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった。
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さて、ゼノア(ジェノバ)のパラッツオ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニ(1575-1642)の作品を少年の三島が初めて目撃した訳だが、この他に、ローマのカピトリーノ美術館にあるグイド・レーニによる「聖セバスチャン殉教図絵」があって、こちらはジェノバ美術館のものより矢が一本腹部に多く刺さっているのだが、三島由紀夫が篠山紀信に撮影させた「聖セバスチャンの殉教」を演じた写真と同じ構図となっているのに注目したい。