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空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言





三島由紀夫の硬質な文体で構築された私小説である『仮面の告白』は、ヨーロッパ文学をわずか数年で血肉化した作品ともいえよう。

 
 「すでにここ一年あまり、私は奇体な玩具(おもちゃ)をあてがはれた子供の悩みを悩んでゐた。十三歳であつた。
 その玩具は折あるごとに容積を増し、使ひやうによつては随分面白い玩具であることをほのめかすのだつた。ところがそのどこにも使用法が書いてなかつたので、玩具のはうで私と遊びたがりはじめると、私は戸惑ひを余儀なくされた。この屈辱と焦燥が、時には募つて玩具を傷つけてやりたいとまで思はせることがあつた。しかし結局、甘やかな秘密をしらせ顔の不逞な玩具に私のはうから屈服し、そのなるがままの姿を無為に眺めてゐる他はなかつた」

 
 上記に転載したのは『仮面の告白』第二章の文面である。自慰をおぼえた十三歳の自分を、このような表現で描ける日本の作家は三島以前に存在しない。ヨーロッパ人の思考、論理、修辞を文体として身に付けたような独特の表現には、バタ臭いなどといったレベルを超えている。

 評論家の奥野健男は、『仮面の告白』は、三島文学の中でももっともすぐれた重要な作品といっている。それだけでなく、文学史上画期的な意義を持つ作品であり、三島文学の核であり、根っこにほかならないもので、こうゆう作品は生涯に一度しか書くことができないと断言している。

 作品の芸術性、美的完成度などを願うよりも、どうしても書かずにはいられないという必然性にかりたてられて筆をすすめた作品であり、自己の全存在とひきかえにするような気持ちで書かれた文学だとも述べている。

 『仮面の告白』の主人公は明らかに他人と違う性的欲望を抱えている。女性に対してよりも男性の逞しい肉体を血だらけに傷つける空想に官能の陶酔をおぼえる。あるいは自分は美しい王子であるため、傷つけられ、殺されるという空想に官能を感じる。女の白い腿を物質のようにしか眺められない青年を、彼は《お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ》と罵らずにはいられない。

 人間の性欲と、そのリビドーの本質をきわめて冷静に正確に把握認識し、それを幼児期の記憶、環境にまで遡って、そのよって来る原因を、まるで科学者のように精密に分析して、それを大胆に極限まで表現され文学化したのが『仮面の告白』である。

 同性愛それもサディスティックな陶酔感と官能美を冷静に告白したこの小説は、マルキ・ド・サドの文学とは異質である。サドの小説は自己弁護や己の罪におののき、それは告白ではなく、夢想にのめりこんでいるだけだが、『仮面の告白』は客観的で正確であり、自己弁護にも自虐にも陥っていない。異常な空想を扱いながらも、そこには溺れず、冷静にして極めてリアリスティックなのだ。

 澁澤龍彦が若き日の三島について語った右の言葉で終わりたい。「サドの専門家であるにもかかわらず、私の夜ごとの夢には、あんまり赤い血の流れることはないのである。それにくらべると、三島にははっきり嗜血癖があったと断言できる。あんなに血みどろが好きだったひとを私は知らない。思えば昭和23年、雑誌『序曲』の座談会で、第一次戦後派作家たちのあいだに混じって……

……《僕は、はっきりいうとスペインの絵描きのように血に飢えているんだ。血をみたくてしょうがない》といっていたのは、嘘いつわりのない彼の本音だったのである。しかしこのころ、こんな発言をしていた23歳の青年作家が、最後に腹を切って死ぬことになるだろうと、いったいだれが想像しえたろうか。 (了)



 ボクは十代の頃は純文学などは全く読まないし関心もなかった。高校生の時に司馬遼太郎と池波正太郎だけは読んでいた。高校2年生からボディービルを始めた。通っていたボディービルの事務所に三島由紀夫の大きなポスターが飾られていた。それは褌ひとつを身につけ、片膝を立てて坐し、日本刀を立て支えた姿の黒白の写真だった。

 その時から、その裸体の三島由紀夫の姿を見てから、彼を意識するようになっていた。しかし、三島の小説は読まなかった。三島への意識とは男という存在感にであり、武士道という精神に関心が寄せられていた。17歳のボクは彼が割腹自決したことはもとより知っていた。市ヶ谷の事件があった当時ボクは9歳であったし、連合赤軍の浅間山山荘事件より明確では無かったが何となく記憶していた。始めて三島由紀夫の小説を読んだのが22歳だった。それは『仮面の告白』であった。

 島田雅彦という作家はボクと同じ歳の同年代である。彼を最初に知ったのは小劇場で客演していた芝居を観た時だった。あまり記憶にないのだが、その芝居で彼はバイオリンを弾いて登場していたのを覚えている。それは1986年だったと記憶する。

 何故なら、彼がその年に『僕は模造人間』という作品を発表していて、島田客演の芝居を観てから小説を読んだ気がするのだ。その小説は、亜久間一人くんの少年期からの姿を画いた自伝的青春小説なのであるが、9歳の一人くんが三島由紀夫の割腹自決をテレビのニュースで見てから、学校でハラキリごっこに耽るシーンがあったのを明確に覚えている。

 ボクがハラキリごっこに耽ったのは、三島由紀夫の写真をボディービルの事務所で見たときから始まった。17歳ではじめてハラキリの夢想にとりつかれたのだが、それはエロティシズムと通低している遊びだとは、その時はには認識はしていなかった。

 昭和46年の『新潮 「一月臨時増刊号 三島由紀夫読本」』に三島由紀夫の自決に関する特集の記事に、多くの文筆家、知識人による文章が寄せられているが、そのなかで切腹という視点から語られた宇能鴻一郎の文面が異彩を放っている。



 「切腹……かくも凄惨でありながらしかもエロティックな死が、またとあろうか。かくも酸鼻を極めながら、しかも激情の美にあふれた死が、世界のどこに見出せようか。

 強いて類例を求めるならばスペインの闘牛の、繊巧華麗な死との戯れのみがあろう。とはいえ人にとっては、これはあくまでも戯れにとどまる。死にゆくものの感覚の類例はむしろ、熱砂にうずくまった牡牛の、もはや霞みがちな眼に映る空の青さの方に、求めるべきなのは言うまでもない。
 
 (中略)……切腹には、そしてむろん今度の三島事件には、私の官能を戦慄にそそり、異様な美感をかき立てるものがあった。あるいはこれは、いささか倒錯した官能であり美感であるかもしれない。しかしいつの世にもおよそ真に強烈な官能、通俗的でない美感で、多少の倒錯をふくまぬものがあろうか。」

 

 宇能氏は三島のボディービルで鍛えられた肉体は“金閣”だと述べる。それは三島の作品で『金閣寺』までは、滅びるものしか美をみとめない三島の美学があり、それは焼かれねばならなかった。・・・・・・日本には、世界に類例のない悲愴美にあふれた、切腹、という死の形式があった。三島が、肉体を最高に誇示し、自らも酔える儀式として切腹に執着したのは、おそらく宇能氏の論理が実しやかに思えたからである。

 会員制男性同性愛者の会“アドニス会”の雑誌、「ADONIS」そして別冊「APOLLO」5号が刊行されたのが1960(昭和35)年10月のことである。この会員制の機関紙別冊号に〈榊山 保〉という名義で『愛の処刑』という小説が発表された。後に、この小説『愛の処刑』は1973(昭和48)年5月号の「薔薇族」に公表されている。


 この『愛の処刑』は三島由紀夫の変名小説として、アンダーグランドでは噂されていたが、しかし、2005年には故・中井英夫の関係者から、三島由紀夫の自筆ノートで下書きが公開されて、今では新潮社の『決定版・三島由紀夫全集・補巻』に収められている。


 三島由紀夫が書いたとされるアンダーグランドな小説は、その当時、三島が書いた原稿を、三島の公私ともに親しい友人の手で、三島の面前で複写された。三島の筆跡による元原稿は一枚ずつ書き写されると、その場で破り捨てられたという。


 こうして筆跡を消し、しかも新仮名に改められた小説は、三島の独特なレトリックも用心深くのぞかれたのだが、しかし『愛の処刑』だけが奇跡的に残って全集にこの度まとめられた訳である。


 この小説は学校の体育教師が生徒を処罰のために雨の中を外に立たせたことで、この生徒が肺炎で亡くなってしまう。体罰による、その30代半ばの独身である謹慎中の教師宅へ、死んだ生徒の友人が或る日訪ねてくる。訪れた美少年は教師に切腹を要求する。そして教師は罪の意識からその要求をのむ。


 美少年は切腹の際に白いランニングシャツに白い運動ズボンを着用することも望む。そして切腹が始まると美少年は逞しい教師に恋情を抱いていたことを告白する。白い運動着姿で、逞しい筋骨に玉の汗を浮かべて、血に塗れていく姿を見たかったことも告白する。教師が息絶えるまで悶絶する姿を見て、死後硬直が来る頃に、少年は服毒自殺のために容易した青酸加里を仰いで、教師の死体に重なることを夢想しながら、苦痛と涙に溢れた教師を見つめつづける。



 この小説は血まみれの同性愛という形から、やがて日本の伝統的様式美にのっとり、夫婦の愛、公的な死、三島由紀夫の美学を映像化した1966年の映画『憂国』に結晶化される。また、1969年公開の五社英雄監督の作品『人斬り』のなかで、薩摩藩士のテロリスト田中新兵衛役での切腹の場面では、壮絶な鬼気せまるあまりにもリアルな名演技には驚かさられるが、やがて東京市ヶ谷陸上自衛隊東部方面総監部に至り、割腹自決する予行演習にも、今はふりかえるとそのように見えてくる。(つづく)