三島由紀夫のエロティシズム#2『官能美の儀式』 | 空閨残夢録

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 ボクは十代の頃は純文学などは全く読まないし関心もなかった。高校生の時に司馬遼太郎と池波正太郎だけは読んでいた。高校2年生からボディービルを始めた。通っていたボディービルの事務所に三島由紀夫の大きなポスターが飾られていた。それは褌ひとつを身につけ、片膝を立てて坐し、日本刀を立て支えた姿の黒白の写真だった。

 その時から、その裸体の三島由紀夫の姿を見てから、彼を意識するようになっていた。しかし、三島の小説は読まなかった。三島への意識とは男という存在感にであり、武士道という精神に関心が寄せられていた。17歳のボクは彼が割腹自決したことはもとより知っていた。市ヶ谷の事件があった当時ボクは9歳であったし、連合赤軍の浅間山山荘事件より明確では無かったが何となく記憶していた。始めて三島由紀夫の小説を読んだのが22歳だった。それは『仮面の告白』であった。

 島田雅彦という作家はボクと同じ歳の同年代である。彼を最初に知ったのは小劇場で客演していた芝居を観た時だった。あまり記憶にないのだが、その芝居で彼はバイオリンを弾いて登場していたのを覚えている。それは1986年だったと記憶する。

 何故なら、彼がその年に『僕は模造人間』という作品を発表していて、島田客演の芝居を観てから小説を読んだ気がするのだ。その小説は、亜久間一人くんの少年期からの姿を画いた自伝的青春小説なのであるが、9歳の一人くんが三島由紀夫の割腹自決をテレビのニュースで見てから、学校でハラキリごっこに耽るシーンがあったのを明確に覚えている。

 ボクがハラキリごっこに耽ったのは、三島由紀夫の写真をボディービルの事務所で見たときから始まった。17歳ではじめてハラキリの夢想にとりつかれたのだが、それはエロティシズムと通低している遊びだとは、その時はには認識はしていなかった。

 昭和46年の『新潮 「一月臨時増刊号 三島由紀夫読本」』に三島由紀夫の自決に関する特集の記事に、多くの文筆家、知識人による文章が寄せられているが、そのなかで切腹という視点から語られた宇能鴻一郎の文面が異彩を放っている。



 「切腹……かくも凄惨でありながらしかもエロティックな死が、またとあろうか。かくも酸鼻を極めながら、しかも激情の美にあふれた死が、世界のどこに見出せようか。

 強いて類例を求めるならばスペインの闘牛の、繊巧華麗な死との戯れのみがあろう。とはいえ人にとっては、これはあくまでも戯れにとどまる。死にゆくものの感覚の類例はむしろ、熱砂にうずくまった牡牛の、もはや霞みがちな眼に映る空の青さの方に、求めるべきなのは言うまでもない。
 
 (中略)……切腹には、そしてむろん今度の三島事件には、私の官能を戦慄にそそり、異様な美感をかき立てるものがあった。あるいはこれは、いささか倒錯した官能であり美感であるかもしれない。しかしいつの世にもおよそ真に強烈な官能、通俗的でない美感で、多少の倒錯をふくまぬものがあろうか。」

 

 宇能氏は三島のボディービルで鍛えられた肉体は“金閣”だと述べる。それは三島の作品で『金閣寺』までは、滅びるものしか美をみとめない三島の美学があり、それは焼かれねばならなかった。・・・・・・日本には、世界に類例のない悲愴美にあふれた、切腹、という死の形式があった。三島が、肉体を最高に誇示し、自らも酔える儀式として切腹に執着したのは、おそらく宇能氏の論理が実しやかに思えたからである。