中学校一年生の時に、国語の教科書で太宰治の『走れメロス』が教材となっていたと記憶している。いずれにしても教科書ではじめて太宰の文学にふれた訳である。それ以前にもこの作品はラジオの朗読などで耳にしていた。
太宰の『走れメロス』は、笛を吹き、羊を追う、村の牧人メロスが主人公である。ある日、或る老人の「王様は人殺しです」という言葉を、メロスはマに受けて、王を「生かしておけぬ」と憤り、王城へと向う。メロスはおよそ、“政治はわからぬ"そして“単純な男"であると、作者もことわりを入れている。
だが、同じ青森県の出身であり、太宰嫌いで有名な寺山修司は、太宰治論を述べた『歩けメロス』という評論に、のそのそと王城へ入っていくメロスを、見知らぬ老人の一言で、殺人を決心してしまうような“あかるい正確"の“のんきな男"というのは、私には耐えがたいと語り、『走れメロス』を解体していく。
たとえば、それが見知らぬ老人ではなく、最近、将官に出世したばかりの兵士の母親だったら、事情は一変していただろうと仮定して、「王様は、思いやりのある人です」という母親の言葉をマに受けたとすると、メロスは花束でも抱えて王城を訪ねたかも知れないと寺山は述べるが、さもありなん。
太宰の『走れメロス』は、こうした無神経さをメロスに与えることにより、最初から一つの滑稽譚の様相を見せていると、寺山は見解して、更に話しは続く。
メロスは斥候能力に欠けて、 敵情視察の不充分な為に、すぐさま巡邏の警吏に捕らえられて、王の前に引き出されたが、所持していた短刀の用途と目的を詮索されると、「市を暴君の手から救うのだ」・・・・・・と、メロスは胸を張って応えた。
そこで、寺山は市を暴君の手から救おうとしているのならば、こうした無策ぶりも、困ったものであると述べる。さらに、大体が軽卒であるとつけくわえ、一人の跳上りの逮捕により、王城の警備は一段と厳しさを増し、メロスの妄動は、“反革命"的でさえあったと言わなければならず、こんな男を、無知と純粋さによって“愛すべきやつ"と考えてやるほど、政治的現実はゆるやかではない。ディオニス王の場合も、彼の圧政下にあったシクラス市民たちの場合も、生きることにシノギを削 っていたに違いないと、寺山はリアリズムで見解する。
ディオニス王は、メロスを磔刑にするようにと命ずるが、なんとメロスは命乞いをはじめる。寺山に言わせると、王の事情には耳を傾けもしないが、じぶんの“家庭の事情"は聴いてください、というワケで、その自分勝手なワケとは、「たった一人の妹に、亭主を持たせて、三日のうちに村で結婚式を挙げさせてやり、必ずや、ここへ戻って来ます」・・・・・・という事情で、もしも、妹の結婚式が王の命より大切だと考えていたのなら、何故さっさと結婚式へ行かずに、王殺しに熱中したのだと、寺山は疑問を投げかける。
自分の無計画さの責を、己れの殺そうとした相手に負わせようと甘えるのでは、いくらなんでも調子がよすぎるし、 それに第一、行当りばったりで、人を殺そうとした者は、行当りばったりで殺されること位の覚悟は必要であろう。それに妹の結婚式に兄がいなければならぬというのも、あまりにも説得力が乏しい理由でもある。
だまっていても自力で妹は結婚できるだろうし、それができぬほど過保護な妹に育てたメロスに、ディオニス王の政治批判をすることなど、できるであろうかしら、たとへば、メロスが王を殺したとして、メロスが王の妹の結婚に、如何なる猶予を与えるというのだろう?・・・・・・と、この辺で、寺山はソロソロ、このテロリストに愛想がつきてしまうが頷けよう。
メロス曰く「私は約束を守ります。私を三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私が信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを人質としてここへ置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の夕暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい!」
身勝手なメロスは本人の了解も得ずに、いきなり牢獄に入れられるセリヌンティウスという 石工の迷惑など顧みずに、寺山は続けてメロスについて考えてみる。
メロスには、自分の妹の結婚式が、セリヌンティウスの日常生活よりも、はるかに重要だと考える或る種の思い上がりがあり、そのことが一段と太宰治の小説をシラーの原作から遠ざけていると考える。
しかも、この場合、友情物語であるならば、石工のセリヌンティウスが自ずと身代わりを買うのが筋だと見解するが、それは妥当と思われる。
しかし、それはともかくとして、メロスはセリヌンティウスを獄に入れ、無事に妹の結婚式を終えた後に、市の王城に向って走り出す物語のクライマックスへと向かう。
そして、この小説の大半の紙数を費やして、メロスがいかにして約束どおりに三日目の日暮れに間に あうように走ったか、という描写を濃密に詳細に文学的に綴る。
「私は今宵殺される。殺される為に走るのだ。身代わりの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れと教えられた。さらば、ふるさと。」
このエゴチストの道化の頭を去来しているのは、ひたすら、自分のことばかりだと寺山は見解する。そして、メロスは走りながら言葉を吐き続ける。
「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きなものの為に走っているのだ」と、・・・・・・この「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」という のは、メロスの名誉に換喩されていると寺山は分析する。
本来ならば、間に合うことによってセリヌンティウスの命を救うために走る、というべきところを、「自分が信じられているから」走る、と言い換えることにより、メロスは太宰独特の自尊心文学の系列に加えられると寺山は位置付ける。
寺山は、太宰の文学を、父性喪失を特色としていると見抜き、すなわち、思いやりに欠けて、何を書いてもモノローグであり、『走れメロス』においては、セリヌンティウスやディオニス王の都合が一切省かれてしまっていると洞察する。
この場合の“父性"は、具体的な父親のイメージからはじまり、ゆきつくところは支配的な社会的構造となる。『走れメロス』では、父親たるべきディオニス王 が、兄弟化して、メロスやセリヌンティウスと同格にしか扱われていない。つまり、兄弟社会の特色は、役割交換が容易だと寺山は述べる。
「役者になりたい」「白状し給え。 え? 誰の真似なの?」・・・・・・などと書くとき、太宰の頭には、家族におけるような情動的関係も、支配構造のもっているぬきさしならぬ階級も存在せず、ただひたすらに無名の機能を営み、無名の機能によって支配されている単独者の自尊心だけが存在していると寺山は分析する。
このことは、太宰の“侵害的"な自己形成、それは「生まれてきてすみません」といった言葉と無縁ではなく、A・ミッチャリーヒなどを用いて指摘をしている。
その指摘とは、「ナルシズム的、攻撃的な本能表現は、系統的に みて、あらゆる侵害的体験によって強化される」のであり、太宰文学の読み方は、その侵害的体験、原罪意識が何であったかを解釈し、鑑賞することだとも言えると、寺山は見解する。
そして、メロスは刑場にとびこんできて、「セリヌンティウス、私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし、私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえないのだ。殴れ。」と叫ぶのでした。
時間に遅れそうになって、相手に不安を与えたからではなく、悪い夢を見たから殴ってくれ、というのは甚だ しい甘えであると寺山は言う。そして、どこまで面倒を見てもらいたいと言うのだろう。第一、殴ることは奉仕であり力仕事でありサービスである。さんざん迷惑をかけておいて、こうした、一方的な関係を“友情"と呼ばれるには我慢がいると寺山は更につけくわえる。
文芸評論家の奥野健男は、『走れメロス』について、「人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な文体で表現されていて、(中略) 深い感動の奥行き」を伝えている、と書いているそうだが、寺山は、この小説からそうしたものを読みとれることは、きわめて困難であると断定する。
もし、一つの信頼が描かれているとするならば、それは三日間の猶予を与え、三日間、セリヌンティウスを殺さずに、メロス を待っていたディオニス王の戯れの中に、見出されるであろう。だが、そのディオニス王も「顔をあからめて、《信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わたしも仲間に入れてくれまいか。》」と、言うことで、父性を放棄してしまうことになる。
“圧政への反抗と正義"に到っては、思想的にも心情的にも絶無であって、メロスは王の磔刑に抗して最後まで戦うどころか、妹の結婚式のために、その王と取引きをする卑劣漢である。こうした傾向は、他の太宰文学にも共通していて、作中にナルシストの一人の道化を登場させ、その彼の大げさな身ぶりを借りて、太宰自身が何かを物語ろうとするのではなく、むしろ逆に読者を異化し、友情も信頼も“身ぶり“化してしまう。
つまり、 寺山が言いたいのは、不在の父親を必要としているのは太宰自身ではなくて、読者側にこそ現代には潜在していて、読者は太宰の“書物を生活する"のではなく、彼の書物を異化効果をもたらす一人の道化役として扱うことによって、文学的世界から演劇的世界へと、“生活する"場所を置換することになるのだと結論する。
文末で寺山は、太宰に欠けているものをあげている。
それは、エロス、またはリビドーの満足を約束する人間関係への信頼。自分の心的生活のための解毒剤。他人の都合への関心。運動神経。持続する日常、たとへば“歩く"ことへの興味。そして、いまは春なのに、平気で、
「春ちかきや?」
などと書く、もの欲しさの克服。「お前は嘘がうまいから、行いだけ でもよくなさい」と叔母は言ったそうだが、私ならばこうつけ加えておきたい。「お前は素顔がまずいから、せめて仮面だけでもいいのをつけなさい。」
いい仮面というのは、鏡のように、他人の顔をうつしてくれるものであるのだ。(了)
