寺山修二は、1971年の映画『書を捨てよ町へ出よう』の製作に続き、1974年に2本目の長編映画として取り組んだ作品が、アングラ映画の傑作と呼ばれる『田園に死す』である。この映画は、当時、低予算で芸術的水準の高い映画を世に数多く送り出していた“ATG(アート・シアター・ギルド)”が配給しており、ATGはかつてカルトっぽい作品を多く配給していたが、今では芸術的に高く評価される作品が多い。
この寺山修司の映画は、寺山の主催する劇団”天井桟敷”のメンバー以外にも、八千草薫や、原田芳雄、木村功などの俳優陣が出演しており、この配役から映画に対する意気込みが感じられてくる。因みに“少年時代の私”を演じているのは、テレビの変身ヒーロー活 劇番組の『超人バロム1』にも出演していた子役の高野浩幸で、余談ですがボクと高野広幸とは同じ歳であります。
物語は寺山自身の少年時代と生まれ故郷の青森が舞台で、溺愛する母親、隣家の憧れの美人の後家さん、ててなし子を産む娘と間引き、サーカス団と異形の人達、白塗りの老人学生服集団、共産党員として追われる男、兵隊馬鹿と角巻、イタコ、柱時計と刻む時間、突然観客に向かって叫ぶ三上寛など、その他モロモロの異形の登場人物とオブジェの大集結となるシュルレアリスム的な演出の椀飯振舞。
映画全編には寺山自身による歌集『田園に死す』から、寺山自身による朗読と、シュールで詩的な郷愁に満ちた映像が鏤められ、そしてラストの衝撃的なシーンは、観る者を圧巻させ 、コアな映画ファンの間では、今でも語りグサとなっているし、このボクもこの映画とラストには衝撃を受けた一人でもある。
(さて、『田園に死す』あらすじを、以下に・・・・・・)
映画のストーリーは、寺山修司自身の自伝的なストーリーで物語は始まる。舞台は青森県恐山。父親を戦争で亡くした為、母親(高山千草)に溺愛されて育った少年(高野浩幸)が、母親を捨てて都会へ出たいと考えているところに、隣家に嫁いできた化鳥(八千草薫)に憧れを抱く。そして少年は化鳥に近づき駆け落ちの相談をする。
そして、まんまと二人は駆け落ちに成功するのだが、しかし、ここでカラー・フィルムは終了して、暗転するとモノクロの映像に変わり、タバコの紫煙と二人の男が現れる。これは過去の幻想から現実の世界に戻り、現在の私(菅貫太郎)と映画評論家(木村功)が登場してきて、二人はバーで《私》の自伝を撮った未完成の映画について語り合 う場面へと変わり物語は進行していく。
二人は精神世界について語り合った後、映画評論家が“私”に一つの問題を提示するのだが、それは、「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のお祖母さんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」という質問・・・・・・、こうして私の時空を越えた旅が始まり、“家出”と“母親殺し”の回想の物語は再び始まる。
ただ、主人公である“私自身”は、自分の過去についての回想を映画で脚色していた為に、その脚色された嘘の過去を振り返るドラマは、それが現実と幻想のアラベスクとして物語は進行していく。
そして、私は最後に過去の自分の母親を殺そうと、20年前の自分の家に向かう。20年後の私を前に、何食わぬそぶりで迎える母親。しかし結局は一人の母親も殺せない私。その「私 とはいったい誰なのか?」・・・・・・
(・・・・・・歌集『田園に死す』の、警句ずくめの跋文の一節に、寺山修司はこう記している。)
「私は少年時代にロートレアモン伯爵の書を世界で一ばん美しい自叙伝だと思っていた。そして、私版『マルドロールの歌』をいつか書いてみたいと思っていた。この歌集におさめた歌がそれだとは言わないが、その影響は少しくらいあるかも知れない。」
そして、まんまと二人は駆け落ちに成功するのだが、しかし、ここでカラー・フィルムは終了して、暗転するとモノクロの映像に変わり、タバコの紫煙と二人の男が現れる。これは過去の幻想から現実の世界に戻り、現在の私(菅貫太郎)と映画評論家(木村功)が登場してきて、二人はバーで《私》の自伝を撮った未完成の映画について語り合 う場面へと変わり物語は進行していく。
二人は精神世界について語り合った後、映画評論家が“私”に一つの問題を提示するのだが、それは、「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のお祖母さんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」という質問・・・・・・、こうして私の時空を越えた旅が始まり、“家出”と“母親殺し”の回想の物語は再び始まる。
ただ、主人公である“私自身”は、自分の過去についての回想を映画で脚色していた為に、その脚色された嘘の過去を振り返るドラマは、それが現実と幻想のアラベスクとして物語は進行していく。
そして、私は最後に過去の自分の母親を殺そうと、20年前の自分の家に向かう。20年後の私を前に、何食わぬそぶりで迎える母親。しかし結局は一人の母親も殺せない私。その「私 とはいったい誰なのか?」・・・・・・
(・・・・・・歌集『田園に死す』の、警句ずくめの跋文の一節に、寺山修司はこう記している。)
「私は少年時代にロートレアモン伯爵の書を世界で一ばん美しい自叙伝だと思っていた。そして、私版『マルドロールの歌』をいつか書いてみたいと思っていた。この歌集におさめた歌がそれだとは言わないが、その影響は少しくらいあるかも知れない。」
そして、映画『田園に死す』も、ロートレアモンの詩的な霊感がベースとなって、シュルレアリストの映画の手法や、フェデリコ・フェリーニなどの技法と方法論などが演出的に展開し、本質的な哲学や思想を根源的に据えながらも、この映画は逆説に満ちた作品でもあり、魔術的な傑作“アングラ”映画として記憶される作品として残る。(了)