空閨残夢録 -24ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言



  

 古代ギリシアの女流詩人サッフォーは、レスボス島で今から2500年あまり昔に生まれたと伝わる。プラトンによって“十番目の詩女神(ムーサ)”と称えられて以来、彼女の名はすべての時代を通じて西欧の詩人たちの憧れを呼び起こし、その愛の詩は研鑽の的となってきた。近年では19世紀末のボードレール、20世紀初頭のロレンス・ダレルを筆頭に数々の詩人や文人がサッフォーをとりあげ、その作品のなかで様々な姿で描かれてきている。

 女性同性愛者を通俗的にレズビアンというが、この語源はレスボスの島からきている言葉だ。サッフォーの詩をみるからに同性への愛が謳われているものもうかがえることも確かなのだが、はたしてサッフォーが同性愛者であった のかを確かめる術は今ではない。女性同性愛者をレズビアン或いはその傾向をサフィズムと呼ぶ慣わしは、サッフォーの愛の詩から由来している。

 ピエール・ルイスの作品である『ビリティスの唄』もサッフォーの存在なくして編まれることが無かったであろう。このエロスの司祭ピエール・ルイスの信者にして、サッフォーの愛をベル・エポックのパリでエロスの劇場としたのはナタリー・バーネイとルネ・ヴィヴィアンである。そしてピエール・ルイスは『アフロディテ』を著すが、この小説を献上すべき存在が同時期のベル・エポックに君臨した“クルチザンヌ”のリアーヌ・ド・プージイであった。クルチザンヌとは、フランスではルネッサンスから伝統的に続く寵姫の如きもので、神殿に使える古 代ギリシヤの高級娼婦の系譜でもある。

 クルチザンヌ(courtesane<英>,courtisane<仏>,クルチザーヌ、クルティザンヌ、クルティザーヌ,コーティザンなどとも訳される)には、ココット(cocotte)、グランド・ココット(grande cocotte)、ドゥミモンディーヌ(demi-mondaine(s))、ドゥミ・カストール、オリゾンタル(horizontale) などいろいろな呼び名があるが、日本では一般的に高級娼婦と訳されている。

 そもそも、courtesanは「宮廷人」を意味する言葉で、courtesaneはその言葉から派生した語であろう。呼び名の由来がルネッサンスのコルティジャーナからきているとも言われているのだが、フランスのクルチザンヌとルネッサンスのコルティジャーナが指す女たちはほぼ同じである。

 クルチザンヌと呼ばれる女たちは、第二帝政時代をもって頂点に達して、第一次世界大戦が勃発するまでに華ひらいた風俗の花形であった。日本の芸者を西欧ではジャパニーズ・クルチザンヌと訳される。

 高級娼婦というと、日本では、高い金で取引する娼婦という言葉どおりそのままのイメージがあるが、クルチザンヌはただ多額の金銭を払えばよいという問題ではなく、自分の恋人となる客は厳選して選んだのである。その客は国王であり、貴族であり、銀行家や当代一の名を競う音楽家や作家などの芸術家であった。

 また、美貌のほかに広い教養と貴婦人に劣らない気品を要求されたクルチザンヌは自邸に豪華なサロンを開くことによって、上流階級の客を呼び自分がホステス(女主人)を勤める洗練された社交場を持った。時として、そのサロンに出入りすることは紳士にとって一種の自慢になり、またそこの女主人であるクルチザンヌはあらゆる羨望の的になった。




 

 ナタリー・クリフォード・バーネイは、1876年10月31日に米国のオハイオ州デイトンに生まれ、1972年2月2日パリに死す。ナタリーの父は鉄道会社の社長で資産家であり、ホワイトハウスに招かれるほどの人物であった。

 ナタリーは17歳でワシントンの社交界にデビューすると、美貌、才知、魅力、健康、富にあふれた金色の髪のナタリーに魅了されない男たちはいなかったが、男たちの愛のささやきと熱い誘惑 には、全く無駄なことで、頑なに求婚者たちをはねつけて、両親を心配させた。

 ナタリーの書く詩は、いにしえの古代ギリシアの女神であり、レスボス島の詩人であったサッフォーの影響が濃密にして偏愛が露わであり、“ワシントンのサッフォー”という渾名を頂戴することになる。

 ピューリタンの末裔の多い米国では、ナタリーの精神や情熱、魂や意志として、理想の場所と感じられずに、やがて、セーヌに浮かぶレスボス、世紀末の快楽の都へ逃れることとなる。

 パリに逃れたナタリーは、クルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンやリアーヌ・ド・プージィの写真を収集するようになるが、ナタリーはこの時、“クルチザンヌ”という言葉の、正確な意味がまだわからなかったようが 、ナタリーはクルチザンヌであるリアーヌに恋をし心奪われてしまったのだ。そして、なんとナタリーはブローニュの森のアカシアの小道で、リアーヌ・ド・プージィに求愛する。リアーヌは情熱を湛えた見知らぬ娘に一本のアイリスを捧げる。

 西欧社会で当代随一のクルチザンヌと“月の光”の髪が靡く米国娘が出逢ったのは1889年、その時、 リアーヌ30歳、ナタリー23歳のときである。あまりにもロマネスクな恋の場面は、プルーストの世界に入り込んだような錯覚さえおぼえてしまう物語であり、これは史実のお話。

 やがてリアーヌを誘惑したナタリーは、伴に愛し合い、世を席巻するクリチザンヌを虜にするのだが、ナタリーの恋人であったルネ・ヴィヴィアンはナタリーと別離て、リアーヌに次ぐクルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンの恋人となり、エミリエンヌもリアーヌやココ・シャネルを愛人にするなど、世紀末のパリではレスボスの宴が華やかにくりひろげられていた時代。






 リアーヌ・ド・プージィはベル・エポックのクルチザンヌにして、パリに輝くレスボスの明星、いにしえの女神の再来かと、同時代の芸術家たちに 称えられ、ヨーロッパ中に熱狂的な賛美を巻き起こしていたが、それはドゥミ・モンド(半社交界)の世界のことであった。ドゥミ・モンドとは本当の社交界に対して、クルチザンヌなどが出入りする裏と夜の社交界。

 ナタリーにしても、リアーヌにしても、詩人や芸術家とも知識人や芸術家とも深く関わっているのだが、リアーヌ・ド・プージィは、ダヌンツィオ、プルスート、ポワレ、コクトーらと深く交流している。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のオデット、そしてコレットの『シェリ』のヒロインはリアーヌがモデルであった。

 リアーヌは1910年にルーマニアのプリンス・ジョルジュ・ギガ大公と結婚してクルチザンヌから足を洗うことになり、ドゥ・ミ・モンドから表の社交界にデビューすることにもなる。この時、リアーヌが41歳、ギガ大公26歳であった。

 リアーヌは1869年7月2日にフランスの北西部サルト県ラ・フレーシュにて生まれる。本名はアンヌ=マリー・シャセーヌといい、父も兄も軍人で、貧しく厳格で保守的な家庭で育つ。9歳でオレーの聖アンナ修道院の「イエスの忠実な伴侶の会」のもとに入学する。そして16歳まで修道院での生活が、後のクルチザンヌとしての教養と品格を身に付けることにもなる。

 17歳で海軍中尉と結婚したリアーヌは男の子が一人恵まれたが、夫の粗暴さや嫉妬深さに嫌気がさして、拳銃を発砲されたのを契機に家を出てパリに向かう。そして1891年には「超一流のオリゾンタル」というお墨付きを「ジル・ブラス」紙に宣せられるまでのクルチザンヌとなる。

 クルチザンヌのリアーヌのライバルたちとのエピーソードが残っているので紹介しよう。この有名な一場面は、モンテ=カルロのカジノの中庭(アトリウム)で起きた。1897年2月6日土曜日、カジノの中庭に、花柳界(ギャラントリー)の選り抜きが次々と姿を見せる。この女たちは夜毎に前日以上の趣向を凝らし、ドレスの胸はいよいよ露わに、いっそう豪華な宝石を煌びやかに飾り、ますます突飛な帽子をかぶって、登場せねばならなかった。

 さて、この煌びやかな連中の中で、まず注目を集めるのは、ラ・ベル・オテロがいる。その美貌、アンダルシアの燃える瞳、豊かに波打つ髪からのぞく端正な額、そして堂々たる歩き方。さらに頭の先から爪の先まで、彼女は全身これ、宝石やダイヤモンドの塊そのものであったという。この宝石コレクションに今宵はエメラルドが加えられていたのを群集は知っていた。

 そこへ、リアーヌの登場である。彼女は仄かに薔薇色を帯びた白いモスリンのドレスを纏い、腰にも同じ薔薇色のリボンを付けて現れたのだが、ダイヤモンドも、ルビーも、サファイヤもなく、胸にはただ一輪の薔薇の花が飾っているだけの衣装だった。

 しかし、これで幕ではなかった。リアーヌに数歩離れて、彼女の小間使いが静々と歩いてきた。見ればこの小間使い女主人のドレスを身に纏い、しかもその衣装には、さすがのオテロにも敵わないほどの多くの宝石が燦然と輝いていたのである。群集は瞬間、息を呑んでいたが、やがて絶大な拍手が送られていた。

 そんな艶やかな時代を生き、ギガ大公妃として結婚生活を送ったリアーヌも、晩年は聖ドミニコ会第三会員として神に使える身となる。そんな聖リアーヌの生涯も1950年81歳で天に召される。リアーヌ・ド・プージィの名は日本では馴染みが薄いと思わしいが、彼女はフランンスを代表する美女として、「われらが国のリアーヌ」と称えられた国の記念碑であり、ゴンクールをして「十九世紀最高の美女」と言わしめた女性なのである。

 彼女はその美貌を武器に多くの王侯貴族を虜にし、多くの資産化を破産させ、多くの著名人と浮名を流した。彼女の動静は逐一、新聞に報道され、フランスはもとよりヨーロッパでは知らぬものなどいないほどの有名人なのであった。

 高級娼婦であったリアーヌは結婚もしていたが、クルチザンヌの時にも、同じクルチザンヌのエミリアンヌ・ダランソンや貴族の后たちとも性的な関係をもっており、そのなかでも有名なお相手がナタリー・バーネイである。結婚してからもギガ大公の公認で“小さな愛情の戯れ”と称してレスボスの行為を続けていた。本来、リアーヌは最初の結婚で失敗してから男性的な粗暴さを嫌悪していたのも原因の一つといえる。

 ナタリー・バーネイはリアーヌ・ド・プージィをクルチザンヌから足を洗わせようとした時期がある。それが二人の愛の破局にもつながったようだが、結婚して貴族となったリアーヌはナタリーと別れても親交は続いた。しかし、晩年のリアーヌ・ド・プージイはカトリックの帰依から、若き快楽と放蕩の日々を悔い改めナターリー・バーネイを“我が罪”と言った。このことはナタリーを深く傷つけることになる。(了)



 


 2000年製作の米国映画は『クイルズ』を観る。監督はフィリップ・カウフマンで、代表作は『存在の耐えられない軽さ』(1988年)の作品がある。物語は悪名高き放蕩貴族のサド侯爵の晩年を描いた作品で、出演はマルキ・ド・サドをジェフリー・ラッシュが演じている。

 サド侯爵に惹かれるシャラントン精神病院で働く小間使いの乙女をケイト・ウィンスレットが演じていて、病院を管理運営するカトリックの信仰深き神父をホアキン・フェニックス、皇帝の特命によりサド侯爵を治療するために派遣された科学者のコラール博士をマイケル・ケインが演じている。

 “クイルズ”(Quills)とはフランス語で羽ペンの意味である。サド侯爵はシャラントンの精神病棟で 、かの悪名高き発禁本の『ジェスティーヌ』、『ジュリエット物語』、『恋の罪』などを執筆する。寛容なアッベ神父のもとでサド侯爵は思うまま淫らな、余りにも猥らな小説を書き続ける。

 この書かれた猥雑な物語は世間に流失して、出版され、話題を呼び売れてしまう。そこで、ナポレオン皇帝の目に届き怒りを招くことになる。サドの死刑を目論んだ皇帝だが、家臣の進言により、侯爵の去勢のためサディスティックで博愛的な医師を派遣することになるというお話が主なあらすじ。

 この皇帝により派遣された科学者にして医師のコラール博士を嘲笑するために、サド侯爵は病棟で開かれる演劇で一芝居うつのであった。このお芝居がたまらなく面白い仕掛けとなっている。

 リベルタンのサドと、そのサドに惹かれる乙女、そして乙女に心惹かれながら信仰のため情熱を鎮める神父、科学者で医師で道徳的な顔をしながら修道女を籠絡する偽善者、そしてサド侯爵夫人の思惑などがからみ物語はすすむのだが、精神病院を舞台に快活な秀作である映画だ。





 リベルタンとは、17世紀においては独立精神および伝統への敵意を示す思想と表層的には意味している。したがって信仰および宗教的行為に従うことを拒否する者を意味していた。18世紀において、その意味は道徳上の放埒にまで拡大されたのだが、放蕩児の意味に用いられた例もあり、リベルタンは宗教的戒律に対する不服従から、キリスト教の性的束縛に対する不服従へと徐々に変化していたが、サド侯爵は両義的にリベルタンとして生きた人物である。

 またリベルタンはルネサンス思想と啓蒙思想をつなぐ役割を果たす思想家であり、革命のおりサド侯爵はバスティーユの牢獄に当時は収監されていたのも歴史的な因果であろう。いずれにしてもサド侯爵の74歳の人生の後半は牢獄と精神病院で過ごしていたわけで、サドの創作のエネルギーは抑圧された環境から生み出されていたといえる。

 ボクがサドを初めて知ったのは澁澤龍彦の翻訳による桃源社の「サド選集」が最初で、この全集には『サド侯爵の生涯』が小説集の巻末に伝記があった。この『サド侯爵の生涯』から三島由紀夫は戯曲『サド侯爵夫人』を創作したわけである。

 澁澤のサド観は、徹頭徹尾、地中海的な伝統の上にたつ、18世紀のリベルタンとしてのそれであったが、しかし、三島のサド観は、これといくらか相違していたと澁澤は後に述べている。澁澤のサドが、明るい幾何学的精神のサドとすれば、三島のサドは、暗い官能的陶酔のサド、「神々の黄昏」としてのサドだったと澁澤は回想している。

 澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』が上梓されたのが昭和39(1964)年のことであるが、三島は読了して澁澤に手紙で「サドが実生活では実に罪のないことしかやっていないのを知り、愕きました」と書いてきて、書評では「実にこの伝記を通読すると、すべては呆れるほどノーマルなのにおどろかせれる」と書いている。アブノーマ ルを期待 していたのに、ノーマルだったのでがっかりした、とでもいっているかのような調子であったそうな。

 ボクも実は読了後に三島と同じような感想をもった。青髭のジル・ド・レイみたいな怪物のような人生をサド侯爵は送っていたと読む前に勝手な想像を逞しくしていたのである。




 サドの起こした事件は1768年のアルクイユ事件と、1772年マルセイユ事件が公になって収監された。アルクイユ事件はローズ・ケレルという女性をメイドに雇うと騙して別荘に連れ込み、そこで笞打ちにして陵辱した事件で、マルセイユ事件は更に乱交は過激だった。

 サド侯爵はこの事件で娼婦たちに斑猫の粉末を媚薬に用いた。この媚薬は“カンタリス”という名前で、カンタリジンを含んだ媚薬として巷間伝わる毒薬でもある。

 マルキ・ド・サドの小説に、『悪徳の栄え』の女主人公であるジュリエットは、カンタリス入りのボンボンを忍ばせて、見境い無く毒殺を繰り返す犯罪を犯すのだが、現実にサド侯爵は、このマルセイユ事件でカンタリス入りボンボンを娼婦に食べさせて、放蕩行為で使用し事件となる。

 この事件で街娼マルグリット・コストは、膀胱炎と尿道炎を患い排尿が困難になる後遺症が残ることになった事が伝わる。

 余談だが、ルネッサンス期にチェザリー・ボルジア(1475-1507)と、その妹である ルクレチア・ボ ルジアは、 秘蔵の毒薬“カンタレラ”を用いて、ローマ法王や権力者と手をくみ、暗殺を繰り広げたのは有名なお話。

 ボルジア家の毒薬のレシピは残っていないが、カンタレラはサド侯爵が媚薬に使用した“カンタリス”と同じく、カンタリジンを含有していたのは間違いないと思われる。

 さて、サド侯爵は2つの事件の容疑でヴァンセンヌの牢獄に、後にヴァスティーユへと収監された。そして革命後はシャラントンの精神病院に送られて生涯を終える。

 牢獄にいたマルキ・ド・サドは妻に食品や生活に必要な物品を所望した手紙が残っており、その一つに葉巻のケースがある。葉巻を所望したワケではなくて、葉巻の入れ物を求めたわけだ。

 現代では葉巻の入れ物はアルミ製のケースが主流である。葉巻はタバコと違い湿っている状態なので、乾燥を防ぐために包装されている。タバコは乾燥された状態なので湿度を避けるようになっている。葉巻は湿度により発酵して熟成状態にあると想像して頂ければよかろう。

 そこでサド侯爵は葉巻を吸わずに何故?・・・・・・葉巻ケースを、牢獄で望んだかというと、肛門に挿入にして自慰行為をするための器具に必要だったのである。

 牢獄のサド侯爵は想像力で自慰に耽るだけでなく、言葉で、淫靡な妄想を発現してリビドーを開放する。その壮大なポルノグラフィーをシュルレアリストたちと、ジョルジュ・バタイユ、ピエール・クロソフスキー、シモーヌ・ド・ボーボワール、そして、現代思想家たちは、それをフランス革命が産み落としたもうひとつの哲学とみなし、牢獄の文学と讃えた。





 レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ(Leopold Ritter von Sacher Masoch、1836-95)は、ハプスブルグ家落日の貴族であり、オーストリア文化圏の作家である。当時は作家としては成功をおさめていたが、現在は皮肉なことにマゾッホの名は、彼の名から造語された精神分析学用語「マゾヒズム」ほどは知られてはいないであろう。  


 マゾッホの書く小説は、驕慢で嗜虐的な嗜好をもつ女性と、この女性に服従することを喜ぶ被虐的な男とが登場する。このことから、クラフト=エビング博士が1886年に公刊した『性の心理学』に、マゾヒズムの語源をマゾッホの作風を念頭にして心理学の造語にした。


 マゾッホによる一番有名なマゾヒズム小説は、『毛皮を着たヴィーナス』(原題:Venus im Pelz、1871年)という作品で、この物語に残酷で美しい女ワンダが、彼女の崇拝者である主人公のゼヴェーリンの前に、素肌の上に毛皮のコー トを着て、鞭をもって登場する。


 さて、マゾッホの私生活にワンダ・リューメリンという不思議な女が現実に現れる。この女は本名をアウローラ・リューメリンといって、マゾッホの小説の愛読者なのであるが、『毛皮を着たヴィーナス』に登場するワンダを名乗り、小説と同じように愛の契約を交わして結婚する。


 その時、ワンダ(アウローラ)が27歳、マゾッホ36歳であったが、この結婚は10年間の契約とともに解消され、二人は別れて、ワンダは別な男と、マゾッホも若い娘と再婚した。


 ワンダはマゾッホと出逢ったときは独身であったが、さも結婚しているような素振りで関係をもった。ふつうは結婚をしていても独身と偽ったり、男と結婚するのに処女のような素振りをするのだが、 マゾッホの愛読者であるワ ンダはマ ゾッホのツボをおさえていたのだ。


 そして、二人の10年に及ぶ結婚生活の詳細はわからないとしても、おおよそマゾッホの小説を読めば、ワンダが絶対権力のある女主人で、マゾッホは彼女の命令を何でもきく、卑しい奴隷になるという愛の関係であったことは想像されるであろう。


 サディストとマゾヒストの関係は、絶対と服従、権力と抑圧という主従の関係性であり、、或いは、行われる愛の関係性は宗教的な信仰心のように絶大でもある。ワンダとマゾッホの恋愛劇は、ある意味、エロスの実験劇にもみえてしまう。


 恋愛においては、肉体的要素と精神的要素とが相互に干渉し合っている。純粋に精神的な要素だけで成り立つ愛などというものは想像しにくい。


 両性間あるいは同性間の分離を克服し、非連続の固体を結びつけようとする絶望的な努力が愛だとしても、結局のところ、二つの固体は最後まで一つに融合することは不可能で、ただ互いの幻想を交換し合っているだけに過ぎない。


 エロティシズムをペシミスティックな思考で捉えれば以上のような考え方もあるけれども、つまり、愛は不可能なのであるというような意見には、それなりの説得力もある。このような見解には、快楽は恋人たちを結びつけるというよりは、むしろ彼らを孤立させ、それぞれの自己内部の肉体へ閉塞させる性質のものだからである。


 然るに、快楽にとらわれているときに、相手に注意を向けることなど不可能であるように、相手に対する愛と、自分自身の快楽とを、如何にうまく折り合いつける関係性は、そもそも可能ではない。


 欲望が恋人たちをとらえ、恋人たちが快楽の海に溺れていけばいくほどに、愛における精神の要素は希薄となり、逆に肉体の要素はますます濃密となろう。


 キリスト教的なアガペーは、自己中心的な愛ではなく、与える愛、自己犠牲の愛を説くのは、このようなエロス的な愛の陥りやすい危険を、未然に防ぐ思想とも考えられる。しかし、この思想はマゾヒズムに傾きやすいことも否定できない。


 相対的な愛による融合が不可能と意識して絶対を垣間見んとした恋人は 、もはや相手を奴隷として、サディズムとマゾヒズムと いう関係性を構築し演出したエロスの劇場こそが、ザッヘル・マゾッホの小説『毛皮を着たビーナス』であり、これは愛の実験劇でワンダとゼヴェーリンのエロスの秘法である。


 更に、このサディズムとマゾヒズムの関係を極限へと収斂し或いは昇華すると、もはや相手を物体として観るか、さもなければ相手の視線から、自己を物体として提供するという小説を描いたのが、フランス地下文学の最高傑作と呼ばれるポーリーヌ・レアージュの『0嬢の物語』である。


 この小説はアンダーグランドではあるけれども単なる官能小説ではない。序文にあるジャン・ポーランによる「奴隷状態における幸福」という文章を読むだけでも、この小説からエロティシズムの奥義を垣間見ることであろうし、『O嬢の物語』と『毛皮を着たヴィーナス』は文学的ポルノグラフィーの金字塔といえよう。(了)






 昭和44年(1969)に発売されたカルメン・マキの『時には母のない子のように』という唄は、当時かなりヒットした曲で記憶しているが、この年に2枚目のシングル曲で発売された『山羊にひかれて』のほうがボクは好きである。こちらもカルメン・マキが歌った寺山修司の作品。

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  「山羊にひかれて」      詞/寺山修司 曲/田中未知 唄/カルメン・マキ



 山羊にひかれてゆきたいの
 遥かな国までゆきたいの
 しあわせそれともふしあわせ
 山のむこうに何がある


 愛した人も別れた人も
 大草原に吹く風まかせ


 山羊にひかれてゆきたいの
 想い出だけをみちづれに
 しあわせそれともふしあわせ
 それをたずねて旅をゆく

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 寺山修司の「少女詩集」は角川文庫で現在でも入手できるようだが、表紙絵の装丁が昔と変わってしまった。昔は林静一の画で装丁されていて、他にも角川文庫の寺山作品では林静一の表紙を飾っていたのが印象的である。「少女詩集」の文庫の他に、単行本の「不良少女入門」なんかも林静一のカバー絵が内容とベスト・マッチしている。






  「半分愛して」      詩/寺山修司



  半分愛してください
  のこりの半分で
  だまって海を見ていたいのです



  半分愛してください
  のこりの半分で
  人生を考えてみたいのです


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 『寺山修司 作詞・作詩集』ソニー/3670円/ティナー・ラッツ朗読による「半分愛して」が収録されているが、その昔に junko (川上順子)という主婦がシャンソン歌手としてデビューした時に、この「半分愛して」をレコーディングしている。


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 「半分愛して」       詞/寺山修司 曲/服部公一 唄/junko



 月が雲から半分 のぞき
 グラスにお酒が 半分あるの
 海は今夜もまっくらくらで
 幸せ気分が 半分するの
 私を半分愛してください
 全部は いやよ
 全部は こわい


 庭のダリアが半分咲いて
 部屋の明かりも消した
 酔えば頭もまっくらくらで
 半分笑って 半分泣いた
 私を半分愛してください
 全部は いやよ
 全部は こわい


 青いメロンを半分食べて
 明日のために半分残す
 あなたなしでは生きられぬから
 夢も不安も残しておくの
 私を半分愛してください
 全部は いやよ
 全部は 明日





 『少女詩集』、『不良少女入門』という流れから、『青女論(さかさま恋愛講座)』を読むに、寺山修司曰く、「少年少女という言葉があるが、青年青女という言葉はなぜないのだろうか?」、「“少年”に対して、“少女女”があるように、“青年”に対して“青女”という言葉があっていい」という意見はマトをえている。

 混迷の現代に於いて若い女性の自由な生き方を示唆し、新しいモラルの必要性を説く寺山の女性論は、自由な女として個人的な人生を築くための新しいモラルを大胆に提唱しているが、「家出のすすめ」女性版として出版されたのが、1974年(昭和49年)初版の単行本と、1981(昭和56年)年初版の文庫の帯にあるが、時は流れて女性の意識も感覚も今では多様に変化してしまった。

 あとがきに、少年と少女、幼年と幼女、老年と老女という言葉があるのに、どうして、青年に対する「青女」という言葉がないのだろうかという寺山の疑問に、女性にとって、もっとも人生が美しく感じられる時期に、「青年」とよばれ、男性と一緒にしか扱われないのは、女性の社会的差別は、案外こうした言葉の日常性の中から始まっているのかも知れないと寺山は洞察し語っているが、寺山修司流のフェミニズムは現代でも色褪せていない。
 
 

 寺山修司の映画『上海異人娼館 / チャイナ・ドール』は、上海の娼館を舞台に一人の美しい娼婦“O”と、愛人のステファン卿との倒錯的な愛を描いた作品。製作総指揮はアナトール・ドーマンとヒロコ・ゴヴァース、製作は九條映子、監督・脚本は寺山修司。

 この原作は文学的ポルノグラフィーとして名高いポーリーヌ・レアージュの『0嬢の物語』であり、撮影は鈴木達夫、音楽はJ・A・シーザー、編集はアンリ・コルピ、美術は山下宏、衣裳はカイジック・ウォン、グラフィック・デザイナーは合田佐和子、ナレーターはジョルジュ・ウィルソンが各々担当している。

 出演はO嬢にイザベル・イリエ、ステファン卿にクラウス・キンスキー、アリエル・ドンバール、ピーター、新高けい子、山口小夜子、高橋ひとみ、大野美雪、中村研一、石橋蓮司、藤田敏八など。

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 《あらすじ》


 1926年、魔都上海。幻想の都市でもあるこの市街の一角に密かにも、また優雅にして、豪華に佇む娼館“春桃楼”に、“O(オー)”(イザベル・イリエ)と呼ばれる美しい白人女性が、老齢の銀髪碧眼のステファン卿(クラウス・キンスキー)に連れられてやって来た。

 その娼館は、女主人の黒蜥蜴(ピーター)によって営まれ、拷問人のスイカ頭の大男や、小人など奇異な人間たちが仕えている偏奇な館でもある。オンナたちによって裸にされた“O”は、化粧をされ、一室を与えられた。彼女は実はステファン卿の愛人なのだが、二人の精神的で、絶対的にして超越的な愛を確立するために、彼女の肉体は他人に任せ、どのような屈辱にも耐える、というステファン卿との契約に従って“O”は娼婦になったのである。

 ステファン卿は、上海租界でカジノを経営していた。そこは中国の中の外国で中国人の侵入が許されない治外法権の土地。危険を愛する彼は資金を集める中国人の革命テロリストに資金を提供していた。そして、彼は今、愛人ナタリー(アリエル・ドンバール)と共に暮らしていた。ナタリーは“O”の存在を知っていて、嫉妬心を深く抱いている。

 “春桃楼”には、様々の娼婦たちがいるが、愛染(新高けい子)は、元女優だったという記憶のみに生きており、客ともドラマのシーンを演じないとベッドを共にしない。それは、まるで『サンセット大通り』の狂気のハリウッドの老女優を思い出させるし、寺山修司の『レミング』に登場する幻想に憑かれた女優の姿とも重なる。またマゾヒスト専門で日本人将校専属のサディスト役の少女娼婦(高橋ひとみ)や、聾唖者を装う咲耶(山口小夜子)などの娼婦たちも居る。

 “O”は、時々、自分の父親の夢を見る。まだ幼ない彼女は父に手をひかれて歩いている。四角い線の囲いの中に“O”を置いて去る父。追おうとしても動けない“O”。ふと父親がふり返ると、それはステファン卿の顔と重なる。彼女にとってステファンは父のイメージであり、ファザーフィガーなのであろう。

 “春桃楼"と川を隔てた場所に無法地帯の貧民窟がある。そこの飲食店の息子、王学(中村研一)は、いつも娼館を眺めていたが、“O”の美しい姿に魅了されてしまう。そして、いつしか、お金を貯めて彼女を買う夢をみるようになる年頃の少年であった。

 ある日、娼館にナタリーを伴ったステファンが現われ、“O”を縛り上げた目の前でナタリーを抱く。これも彼にとっては愛の実験なのだ。やがて上海の情勢が変化をみせ、資金の提供を拒んだステファンに、テロリストたちは逆上し、彼のカジノを破壊する。やがてナタリーが彼から去り、彼には“O”しかいなくなる。

 賭けに破れ、愛の実験を最後に試すステファンは、“O”に花束を贈り続けていた少年の王学に彼女を逢わせた。王学のけなげで純情な姿にうたれ、“O”は初めて心を開いていく。それを陰から見ていたステファンは、“O”の愛の裏切りを感じて嫉妬に狂う。イギリス領事の誕生パーティで、“O”は、ステファンが逮捕されたことを知る。彼は王学を拳銃で殺害したのだ。

 0嬢以外にも、娼館の女たちは、それぞれに闇を抱えている娼婦たちであり、客である男たちも心に深い闇がある。そして、男たちは、娼館の中でその闇をあらわにしリビドーを性欲で開放する。心の闇と、エキゾチックで官能的な世界を描く寺山修司流の演出がスクリーンに瞬きざわめくエロスの劇場。

 ヒロインの0嬢と登場人物のステファン卿は、フランスの匿名小説家のポーリーヌ・レアージュの作品である『0嬢の物語』の主要登場人物。この小説の続編が原作なのだが、20世紀の文学的ポルノグラフィーの最高傑作と評され、澁澤龍彦訳でボクも20代前半に読んでいるし、映画化もされていて、映画公開時の、その頃は中学生の時で映画を観ているが、子供だったのでゼンゼン理解できなく記憶に薄く、こちらのフランス版の映画作品のほうは世間の評価も今でも低いようだ。

 寺山修司は、この『0嬢の物語』の続編を念頭にして脚本を編んだようだが、映画が公開されたのは1981年で、1983年の5月に、舞台の最後の演出となる『レミング』公開寸前に亡くなってしまった。この『レミング』のエピーソードに出てくる元女優が、映画『上海異人娼館 チャイナ・ドール』の娼婦に、劇団・天井桟敷の女優・新高けい子が芝居にも映画でも同じ役柄で登場している。

 舞台の「レミング」では・・・・・・タンゴを踊りながら登場する影という名の女優に、新高けい子が演じる訳だが・・・・・・ 名声を失った後でも、演じることをやめない影という名の女優の存在を演じ続ける姿は、映画『上海異人娼館 チャイナ・ドール』でも全く同じだ。その登場を寺山修司は次のように戯曲のト書きに書いている。

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 マグネシュウムの光が一閃。立ち上る煙の中から、古い独逸風タンゴの調べが流れ込んでくる。



 「世界という名の映画・・・雨、雨、雨が降るプールのうかんでいるのはわたしの死体、行き過ぎよ、影、仮面の似合う大佐と鰐が応接間であたしを待っている 。」



 あきらかに時代錯誤を思わせる映画の一場面。往年の大スター的な衣装メイクの女優・影山影子が不思議な一団を引き連れ、スローモーションでゆっくりと現われ、中央に肖像写真のようにひろがる。


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 このタンゴの音と共に登場し、歌い、踊る、デカダンでゴージャスでコケティシュな役の影という名の女優が『上海異人娼館 チャイナ・ドール』の映画でも娼婦として登場しているのだが、寺山修司のこの女優のイメージは、『サンセット大通り』から来ているかも知れないし、あるいはマレーネ・デートリッヒをも連想させる仕掛けになっている。

 山口小夜子が演ずる聾唖の娼婦も闇というよりは、詩的なエピソードを独白する場面がとても美しいのであるが、ボクは新高けい子と山口小夜子の二つのエピソードが好みである。それでもボクも男であるから王学少年に心理的に共感してしまい、ステファン卿には未だ感情移入できない。

 王学少年は『田園に死す』の家出する《私》である少年とも重なるし、ステファン卿は『田園に死す』の少年の20年後の《私》の更に20年後の姿とも思えてくる。

 いずれにしても寺山修司は少女と娼婦と人形についてよく多くを語っていたが、この映画は更に少年と中年と老人についても寺山節の語り口を感じられるようにも思えてくる・・・・・・。

 この映画は、フランスの文学的ポルノグラフィーの代表的な傑作を、寺山流に換骨奪胎した作品であり、エロティシズムを主題にした映画で、存在論をテーマにした秀作といえる。(了)