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空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

2014年5月2日金曜日、午後、曇り、札幌市中央区北海道大学植物園内にて撮影。





エゾエンゴサク




フッキソウ






エゾノリュウキンカ




キクサキイチゲ






シラネアオイ



 オイディプスはテーバイの王であり、ロトはイスラエルの族長であり、ネロはローマの皇帝であり、パイドラーはアテナイの王妃であり、セミラミスはアッシリアの女王であり、ドン・カルロスはスペインの王子であり、ハムレットはデンマークの王子であり、『メッシーナの花嫁』の兄弟たちはシチリアの公爵家の子であり、聖グレゴリウスはフランドルおよびアルトワの君主の孫であり、フランチェスコ・チェンチはイタリアの名門の当主であり、ジークムントはネーデルランドの王であり、チェザレー・ボルジアはローマ法王の子であり、そして本邦では木梨軽皇子は大和朝廷の天皇の子である。

 また現代の文学や映画の作品では、ジャン・コクトーの『恐るべき子 供たち』 、ムジールの『 特性のない男』、サルトルの『アルトナの幽閉者たち』、サガンの『スウェーデンの城』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などの文学作品。映画ならば、ビスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども(The Damned)』、ルイ・マルの『好奇心』、ティム・ロス監督の『素肌の涙』といった作品。本邦では、夢野久作の『瓶詰め地獄』、三島由紀夫の『熱帯樹』、野坂昭如の『骨餓見峠死人葛』、中山可穂の『白い薔薇の淵まで』等など・・・・・・

 このエロスの万華鏡は、すべて近親相姦という禁忌を侵犯した高貴なる者たちが登場する神話であり、伝説であり、物語なのである。高貴な血統というナルシズムと、さもなくば孤立した環境で展開される性的な関係性が、各々共通していて、そのどちらも兼ね備えたチェンチ一族の城で起こった出来事などは典型的な事例であろう。

 1985年公開の日本映画で『魔の刻』は降旗康男監督の作品であるが、母子相姦を題材にしたきわめて日本では珍しい映画だった。主演の母親役を岩下志摩、その息子に坂上忍が演じていた。その 頃の岩下志摩は45歳くらいで、この映画の配役には当時として適任の女優であった。

 監督の降旗氏は東映任侠路線で活躍していたが、1978年の『冬の華』、81年の『駅 STATION』、83年の『居酒屋兆治』と名作を作っている。85年の『魔の刻』は残念ながら駄作であった。主演女優の岩下志摩は確かに美しかったが、脚本や演出に禁断のエロティシズムにおけるリアリティーな描写は薄すぎていた。

 映画は観ていないのだが、同じく兄妹と母子という二重の近親相姦による血の呪われた悲劇を描いた伝奇小説『狗神』は映画化もされた作品。あのオイディプス王と同じように自らの意志ではなく呪われた運命で母と婚姻をとげるように、小説のヒロインは呪われた宿命のために意志と関わらずに2度の近親 相姦の罪に堕ちる。

 坂東真砂子の『狗神』は日本人の土俗的な感性に密着したホラー小説で伝奇ロマンの傑作。小説の舞台は高知の山里で、四十路の今日まで恋も人生も諦めた和紙職人の美希がヒロインで、美希の一族は村人から“狗神筋”と忌み嫌われていた。それでも平穏な日々を送っていた美希の前に突然に現れた孤独な美青年・晃の登場により、美希と晃はお互い心惹かれあうが、やがて血の呪われた悲劇が幕をあける。




 さて、『魔の刻』であるが、この映画にも原作がある。北泉優子が1982(昭和57)年に講談社で発表している小説なのである。映画では母子の関係ばかりに膠着していたが、小説では夫婦、親子の家庭状況と崩壊の悲劇、貞淑で平凡な 妻の不貞と近親相姦に至る克明な描写、夫の不倫とその恋人との葛藤と心理劇、恐るべき母子相姦に至る愛憎劇はリアルな展開で迫真の呪われた物語を奏でる。

 この小説には高貴な血統による自己愛の物語も、孤立した環境の特殊な世界も登場していない。現代の日本のエリート層ではあるが、ごく一般的な家庭環境から母子相姦という禁断の愛を描く筆力は高く評価されるであろう。


 1960年、35歳の三島由紀夫の手による『熱帯樹』は、欧州では『サド侯爵夫人』に次ぐ上演記録をもつ戯曲である。フランスで実際に起こったギリシア悲劇を思わせる事件にインスパイアされたというこの作品は、母が富豪である父を殺そうとしていると思い込んだ妹が兄に母殺しをそそのかすという、近親相愛と近親憎悪が錯綜する物語だ。

 三島は自作について、こう語っている。「肉欲にまで高まった兄妹愛というものに、私は昔から、もっとも甘美なものを感じつづけてきた。これはおそらく、子供のころ読んだ千夜一夜譚の、第十一夜から第十二夜において語られる、あの墓穴の中で快楽を全うした兄と妹の恋人同士の話から受けた感動が、今日なお私の心の中に消えずにいるからにちがいない」。

 三島には美津子という妹がいた。しかし彼女は終戦の年の秋に腸チフスを患い、三島の懸命の看病も空しく、17才の若さで亡くなった。後年、三島は「日本の敗戦は、私にとつて、あんまり痛恨事ではなかつた。それよりも数ヶ月後、妹が急死した事件のほうが、よほど痛恨事である」と著述している。 (了)



 

 ヴィスコンティの『ベニスに死す』、フェリーニの『サテリコン』、ケン・ラッセルの『サロメ』、ファスビンダーの『ケレル』、ジェームス・アイヴォリーの『モーリス』、エクトール・バベンコの『蜘蛛女のキス』、アニエス・ホランドの『太陽と月に背いて』などの映画はボクの好きな映画であるが、いずれの作品も男性の同性愛的なテーマが大きく映画の背景にある。

 特に『ベニスに死す』はボクが一番好きな映画といってもいいが、男同志の愛を映画にした作品のなかでも、スティーブン・フリアーズ監督の1986年に公開された英国映画『マイ・ビューティフル・ランドレット』が一番のお気に入りである。

 主演のパンク青年をダニエル・デイ・ルイスが演じているが、英国の舞台俳優として当時は、彼は かなり脚光を浴びていたが、これは彼のスクリーンデビュー作でもある。

 1980年代に英国のサッチャー政権は、米国のレーガン政権、日本の中曽根政権のもとで、経済の安定化を図り、福祉国家の実現や「大きな政府」を支持する古典的な自由主義に対して、最小限の国家的役割(防衛や治安)を限定して、「小さな政府」を用いたのが新自由主義で、民営化路線や減税を進めていった時代である。

 そして、サッチャリズムの英国は1980年代の映画やTVドラマで、当時の世相がネオリベラリズムの反映した状況を描いた作品がいくつか生まれたが、その英国の時代状況を的確に捉えた映画のひとつに、スティーブン・フリアーズ監督、ハニフ・クレイシ脚本、ダニエル・デイ・ルイス主演の映画「マイ・ ビューティフル・ランドレット」が製作・公開された。



 そのあらすじは・・・・・・


 パキスタン青年オマール(ゴードン・ウォーネック)は、父(ロシャン・セス)とロンドンのみすぼらしいアパートに住んでいた。父はかつてボンベイで新聞記者をしていたインテリだが、今では妻を亡くしアルコール漬けになって一日じゅうベッドにいることが多い(枕もとにはスミノスのウォッカがあり喇叭飲みしている)。

 働かずに失業手当をもらっている息子を心配して、アル中の父は、実業家の弟のナセルに電話して、息子をガレージで使ってくれと頼んだ。ナセルが経営するガレージで車磨きの仕事を始めるオマール。そん な彼にナセルが「イギリスでは欲しいと思うものは何でも手に入る。だから、この国を信じ、システムの乳房をしぼればいいんだ」と説く。彼はこの方針に基づいて金を儲け、英国人女性レイチェルを情婦にしていた。そんなナセルの考え方を認めない父は、弟のナセルに深入りするなと、息子オマールに忠告する。

 ある日、ナセルに招かれて彼の瀟洒な館に行ったオマールは、叔母や従妹のタニア、商売仲間に紹介され、ナセルの成功、富裕さに感心してしまう。親族のサリムの車で帰宅する途中、パンク連中と一緒にいるジョニー(ダニエル・デイ・ルイス)を見かけた。彼は5歳の時からの幼馴染みだったが、その後、ナショナル・フロントに参加し、アジア移民追放を叫んでデモ行進をしているのを目撃したこともあった。

 南ロンドンにあるコイン・ランドリーの経営を、叔父から任せてもらえることになったオマールは張り切るが、浮浪者は出入りするし、洗濯機もガタがきていて、思うようにうまくいかない。ジョニーと連絡をとり、彼に手伝ってくれと頼んだが、ワルの世界から足を洗うつもりになったジョニーも承諾する。

 サリムから麻薬の運び屋の仕事を受けおったオマールは、麻薬の一部をくすね、それを売った金を改装費に当てる。ナセルはジョニーを雇ったと聞くと、自分の仕事を手伝うならいいだろうと言う。その叔父のお手伝いの仕事とは、家賃を払わないパキスタン人の貧乏詩人を、ナセルが経営するアパートから追い払うことで、「パキスタン人がこんなことをするのか」と尋ねるジョニーに、ナセルは「俺はプロのパキスタン人ではなく、プロの商売人だ」と答える。

 洗濯機を新しくして、壁には絵を飾り、外には新店名パウダーズのネオン・サインをつけて見違えるようになったコイン・ランドリーの新装開店の日。店内ではナセルとレイチェルがダンスをし、奥では全裸になったオマールとジョニーが接吻をし抱き合う。やがて、テープ・カットが行われ、お客がどっと店内へ。そこへタニアがやってきて、あわてるナセル。彼女はレイチェルに向い「男に囲われている女なんて寄生虫と同じよ」となじる。その言葉に傷ついたレイチェルは、ナセルの娘に言った「私も養われているが、あなたもお父さんに養われているのヨ」。

 夫の不貞に怒ったナセルの妻は、薬草、鳥の嘴、鼠の屍骸で魔術的秘薬を作り、これで呪法を用いて夫の情婦を殺そうと企てる。レイチェルは体に湿疹がでて呪いを悟り、オマールと別れる決意をする。

 ナセルの娘タニアもレイチェルの一言に家出を決意して、ジョニーに駆け落ちをせまるが、ジョニーはオマールを裏切れないと断り、やがてタニアは独りでロンドンを去る。

 ジョニーの仲間のパンク連中は、ある日、サリムに仲間の一人を故意に轢き逃げして怪我を負わせたが、パウダーズの前に駐車中にその仕返しを受ける。車はメチャクチャに破壊され、サリムも死ぬほどの暴行を受けるが、ジョニーは意を決して仲裁に入り、かつてのパンク仲間から逆にやられてしまうオチになる。やがてオマールが血だらけのジョニーを見つけてエンディングへ・・・・・・ 。



 

 この物語で映画の冒頭部に、スラム化した街の一角の廃墟に近いアパートが冒頭シーンに映る。そこへ無断で生活しているパンク愚連隊が、屈強の用心棒である黒人に追い出されるのが印象深い映像。その追い出されたジョニー役のダニエル・デイ・ルイスが、今度はパキスタン人の命令でパキスタン人の貧乏詩人を追い出すハメとなる。

 舞台はロンドン南東部、白人労働者階級及びウェスト・インディアンやインド系移民が多数をしめるルイシャムと呼ばれる地区。映画製作の数年前にはウェスト・インディアンの大暴動で一躍有名となり、スラム化したところもあるエリアであった。

 オマールとジョニーの間には、過去の溝があるが、二人はそれをお互い一つの目的のために乗り越えようとする。溝とは、 かつては幼なじみではあったが、ジョニーは青年時代に右翼的な移民排斥運動にたずさわってパキスタン人をはじめ移民を斥けようとした。白人のジョニーとパキスタン人のオマールという人種の溝もあるが、お互いにかつては学校では優等生であり前途洋々の筈であったが、しかし今では失業者であり、やっと職ににありつけて希望を見出していくことで、その溝を埋めていくところに、この映画の前向きな明るさがある。

 脚本家のハニフ・クレイシはイギリス人とパキスタン人の混血で、ジョニーとオマールという存在は、脚本家の分裂した存在の反映であり、分身としての自己の同一性を求める愛の映画とも考えられる。この映画のエロスの劇場には、男と女、男と男、人種と差別、貧困と富裕など英国の時代状況を的確に捉えた秀逸な作品である。(了)







 セルジュ・ブールギニョン監督の映画『シベールの日曜日』(Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray)は、1962年製作のフランス映画。原作はベルナール・エシャスリオーの「ビル・ダヴレイの日曜日」である。

 漸く、2010年にDVD化された美しくも哀しい愛と孤独を描いた名作である。ビデオでも発売されていなかった作品なので、尚のこと、この愛の悲劇の発売に映画を愛する者の待望の作品となる。

 この映画は、少女フランソワーズと中年男性のピエールの愛と孤独の物語であるのだが、ピエールはインドシナ戦争から復員して心身を喪失し記憶も無くしていた。そんなピエールと少女フランソワーズが出逢うことで物語りは展開していく。

 パイロットとしてインドシナへ従軍していたピエールは、戦場で少女を誤って殺してしまったと思い込むようになる。その戦争によるショックから記憶喪失となってしまったピエールは、復員後に病院で知り合った看護婦のマドレーヌと、パリ郊外のビル・ダブレイの町で同棲をするようになる。

 しかし、それは一方的なマドレーヌの愛による庇護下に置かれた日常であり、自分を失ったピエールにとってはますます殻に閉じ籠る生活が全てだった。

 そんな或る日、ピエールは父親に捨てられカトリックの寄宿学校に入れられた12歳の少女フランソワーズと知り合う。彼女もまた自分を失い、孤独な魂を抱えて彷徨っていたのだ。二人はお互いに喪失と欠落した魂の部分を埋め合わせるかのように次第に惹かれあっていく。

 しかし親子程も年の離れた他人である二人の関係を世間が祝福してくれるはずもない。ピエールとフランソワーズは学校には父と娘と偽り、日曜ごとに池の畔での逢瀬を二人きりの時間を楽しんだ。しかしその嘘も長くは続かず、周囲から疑惑の目が向けられるようになった。二人の関係が純粋なものであり、互いに必要な存在であることを正しく理解していたのは、ピエールの恋人マドレーヌだけであった。

 クリスマス・イブにピエールはフランソワーズが欲しがっていた他人の家の屋根上にある風見鶏を盗み出し、彼女はお返しにマッチ箱の中に書いた本名を彼にプレゼントする。マッチ箱の紙片には“シベール(Cybele)”と名前が書かれていた。そしてイブの夜を楽しんでいた二人のところへ、警官が偶々通りかかった。警官はピエールを、少女を誘拐しようとしている変質者と思い込み、その銃口が火を吹いた。

 ・・・・・・以上が、この映画のあらすじ、復員兵のピエールがフランソワーズとの最初の出逢いで、泣いている少女をあやそうと、硝子玉を見せて気を惹く場面の台詞が印象的である。



 「ひとつおとりよ」



 ピエールはマッチを擦って、手のひらの上にある硝子玉を照らして見せる。



 「お星さまのかけらだヨ。空から落ちてきたんだ」



 するとフランソワーズは、《星の欠片》が高価なものだと思って、・・・・・・「貰えないわ」と遠慮するのだが、こんなメルヘンのような二人の出逢いが、現代に生きるために、無垢なる心が如何様な報復を受けなければならないのか、そんな残酷な物語がセルジュ・ブールギニョン監督の映画である『シベールの日曜日』なのだ。








 この映画のラストでピエールは警官に撃たれて死に、警官にフランソワーズは名前を問われて答えた言葉は、・・・・・・「もう私には名前など無いの、私はもう誰でも無いのよ」と、答える言葉には、硝子の欠片で胸の裡を撫でられるように、今でも忘れられない切なく哀しい科白だ。

 ピエールを演じたハーディ・クリューガーの名演、フランソワーズ役のパトリシア・ゴッジのニンフェットのような美しくも哀しい姿に今でも胸をうたれる。


 少女フランソワーズは修道院の寄宿舎に身を寄せていたが、復員兵のピエールにフランソワーズは本当の名前を紙片に書いて、マッチ箱に閉まってピエールにプレゼントするつもりであった。しかし、その思いは届くことは無く映画は終焉してしまう。

 

 さて、フランソワーズがピエールに渡そうとしたマッチ箱の紙片には“シベール(Cybele)”と名前が書かれていた。フランソワーズの本当の名前は異教徒的であるという理由から、修道院ではフランソワーズと改名されて寄宿舎で生活をしていた。

 それでは“シベール”という名前が何故?・・・・・・異教徒的な名前だったのであろうか。






 シベールという名前を否定されて、フランソワーズと改名された少女は、“シベール”という名前に如何なる運命と深層が内包されていたのかを知らなかったが、この映画は単なる私的なファム・ファタルの物語ではなく、神話の構造を秘めた悲劇であり、神話的なエロスの劇場でもある。

 シベールとは“Cybele”と表すが、ラテン語では「Cubele」と表記する。これは古代ギリシャから古代ローマで信仰されていた“Kybele”が語源である。つまり、ギリシャ神話に登場するキュベレーが、シベールの語源なのである。

 もともとキュベレーとは、プリュギア(小アジア北部地方、現在のトルコ共和国中央部)のペッシヌースを中心地として広くアナトリア地方全体に渡って崇拝された豊饒の女神であった。

 最初は、シリアのイーデー山の豊饒の女神だったが、やがて小アジア全域の太母神として、予言あるいは預言や託宣を、治癒と戦争の加護、獣の守護者など、さまざまな面で信仰を集めていた神である。

 紀元前5世紀後半にアッティカ(ギリシア)に伝わり、ギリシアでは「神々の母レア」(ウラヌスの娘でクロノスの妻。ゼウスの母)と同一視されていた。紀元前4世紀末頃からキュベレーを信仰する特異で秘儀的な宗教がギリシア世界に流行りだし、庶民階級にも流行することになる。

 その勢いはローマにも及び、第2次ポエニ戦争の時に、ローマでは、アウグスタ(大いなる者)、アルマ(養育する者)、サンクティスシマ(最も聖なる者)と呼ばれ、太母神、神々の母として、重要な神の一柱の地位にあり、キリスト教が普及する4世紀頃まで存在した。

 ギリシア神話では、主神ゼウスが夢の中で洩らした精がアグドスの山に滴って、両性具有のアグディスティス(Agdistisはキュベレーと同一視される)が生まれたとされる。

 アグディスティスは大変な乱暴者で、手を焼いた神々はアグディスティスを去勢することにしたが、誰もが尻込みしてしまい、その役目を実行したのはディオニュソスであった。彼はいつもアグディスティスが飲んでいる泉の水を葡萄酒に変えて眠らせ、その間に、髪の毛で作った縄でアグディスティスの男根を木に縛り付けたのである。

 目覚めたアグディスティスは、暴れて自ら去勢してしまい、もぎとれた男根を地中に埋めたところ、そこからアーモンド(もしくは柘榴<いずれも女陰の象徴>)の木が生えてきたと伝わる。

 近くを流れるサンガリオス河の精霊の娘ナナが、その木の実を摘んで懐に入れたところ、その実は消えて彼女は妊娠する。まもなくナナは男の子を産み、その子をアッティスと名付けた。

 彼女はアッティスを山に捨てたが、牝山羊が彼を育て、彼は成長して美しい青年に成長した。或る時、女神となったアグディスティスは、成長したアッティスを見て恋に落ち、アッティスも女神の愛を受け入れその愛を裏切らないと誓ったのだが、若いアッ ティスは誓いを破り、ニンフのサガリティスを愛し、嫉妬したアグディスティスはサガリティスを殺す事になる。これを知ったアッティスは狂人となって自らの手で去勢した後に、自らを八つ裂きにして死んでしまった。
 
 キュベレー信仰では、アッティスは、人類を救済するために殺されて、供儀のために生贄となり、救世主となったとされる。アッティスは被造物の創造者であるとともに、去勢する事により欲望と物質界の無制限な増大を戒めてもいる。

 アッティスは、去勢され、松の木に十字に磔刑され、アッティスの身体から流れ出た聖なる血は、地上の罪をあがなう事になる。

 アッティスは死んで埋葬されたが、3日目に“現世を統一する至高神”として復活する。アッティスを崇拝する人々は、「アッティスは救済された。あなたがたも試練を受けると救済されるであろう」と言葉にして祈る。

 アッティスは新しい季節の太陽神として復活する事で、ローマでは、アッティスが復活したこの日を、ヒラーリア祭(Hilaria)と同時に祝い、人々は町へ繰り出して踊り、変装して練り歩く祭りとなる。この日は日曜日で、復活祭(Easter Sunday)はこれに由来し、以後ずっと続けられる。

 このお祭りは、まるでキリスト教のイエス復活の話とあまりにも似ている。キュベレーの祭りと、キリスト教復活祭イースターとの類似性に気付いたキリスト教の神学者は、キリストの母マリアと神々の母キュベレーとの混同を戒め、キリスト教はキュベレー信仰を激しく斥けた。

 キュベレーの祭は、アッティスの秘儀(ludi)と呼ばれるが、ガリ(Galli‘Galloi:ギリシャ語ではガロイ’)と呼ばれる祭司たちは、キュベレーの生贄として死んでいくアッティスを象徴する生贄の雄牛の血を浴び、そして、アッティスが復活するために母親の胎内に入ったことを象徴して、松の木で作ったアッティスの男根を太母神の聖なる洞穴に持ち込み、アッティスの像を、この松の木(十字架)にくくりつける。

 その儀式の間、祭司や信者たちは、去勢されたアッティスにならって、自ら男根を切取り、自傷することで神と交感する。生贄とされた雄牛の男根とともに、女神にその切断した男根を捧げ、切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれる。ときには、切断された男根はとくにありがたいものとして、家々に投げこまれたりもした。

 しかし、この祭りは、狂喜で錯乱した徒党が、手に持つ器具や刃物で身体を傷つけて血を流して狂いまわるという狂信的なものであったため、ローマでは、後に禁止させられたと伝わる。






 映画の『シベールの日曜日』の少女フランソワーズの「シベール」というマッチ箱に隠された本当の名前が、何故に異教的であるかは、拙い文脈から理解していただけると思う。それは過去の盛んだったヘレニズムの異端の宗教であり、ヘブライズムの思想がカトリック社会に蔓延していた時代にフランソワーズとピエールが出逢ってしまった悲劇でもあった。

 映画の表面と表層ではフランソワーズという可愛らしい無垢なる少女が映し出されているが、その少女には宿命的な深層と背景が秘められていた。それはファム・ファタルの原型が隠されていたのである。

 キュベレーの両性具有神話と、この去勢の物語を深淵に秘めた『シベールの日曜日』には、フランソワーズを愛したピエールとは、異教的な供犠と生贄としての存在であると考えてみると、少女フランソワーズの存在には、その萌芽としてのファム・ファタルの幻影を内包させた悲劇とも考察できる。

 表層ではフランソワーズという少女はファム・ファタルとしては見えないニンフェットのような存在であるが、無垢で純真なる清純な少女の宿命にはファム・ファタルとしての萌芽が名前に刻印されていたのである。

 物語の深層では、その記憶を喪失することで無垢なる存在として、或いはキリスト教社会と戦争の犠牲となったピエールによる神話的な物語とも読める現代的な悲劇なのであるかも知れない。(了)