寺山修司の映画『上海異人娼館 / チャイナ・ドール』は、上海の娼館を舞台に一人の美しい娼婦“O”と、愛人のステファン卿との倒錯的な愛を描いた作品。製作総指揮はアナトール・ドーマンとヒロコ・ゴヴァース、製作は九條映子、監督・脚本は寺山修司。
この原作は文学的ポルノグラフィーとして名高いポーリーヌ・レアージュの『0嬢の物語』であり、撮影は鈴木達夫、音楽はJ・A・シーザー、編集はアンリ・コルピ、美術は山下宏、衣裳はカイジック・ウォン、グラフィック・デザイナーは合田佐和子、ナレーターはジョルジュ・ウィルソンが各々担当している。
出演はO嬢にイザベル・イリエ、ステファン卿にクラウス・キンスキー、アリエル・ドンバール、ピーター、新高けい子、山口小夜子、高橋ひとみ、大野美雪、中村研一、石橋蓮司、藤田敏八など。
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《あらすじ》
1926年、魔都上海。幻想の都市でもあるこの市街の一角に密かにも、また優雅にして、豪華に佇む娼館“春桃楼”に、“O(オー)”(イザベル・イリエ)と呼ばれる美しい白人女性が、老齢の銀髪碧眼のステファン卿(クラウス・キンスキー)に連れられてやって来た。
その娼館は、女主人の黒蜥蜴(ピーター)によって営まれ、拷問人のスイカ頭の大男や、小人など奇異な人間たちが仕えている偏奇な館でもある。オンナたちによって裸にされた“O”は、化粧をされ、一室を与えられた。彼女は実はステファン卿の愛人なのだが、二人の精神的で、絶対的にして超越的な愛を確立するために、彼女の肉体は他人に任せ、どのような屈辱にも耐える、というステファン卿との契約に従って“O”は娼婦になったのである。
ステファン卿は、上海租界でカジノを経営していた。そこは中国の中の外国で中国人の侵入が許されない治外法権の土地。危険を愛する彼は資金を集める中国人の革命テロリストに資金を提供していた。そして、彼は今、愛人ナタリー(アリエル・ドンバール)と共に暮らしていた。ナタリーは“O”の存在を知っていて、嫉妬心を深く抱いている。
“春桃楼”には、様々の娼婦たちがいるが、愛染(新高けい子)は、元女優だったという記憶のみに生きており、客ともドラマのシーンを演じないとベッドを共にしない。それは、まるで『サンセット大通り』の狂気のハリウッドの老女優を思い出させるし、寺山修司の『レミング』に登場する幻想に憑かれた女優の姿とも重なる。またマゾヒスト専門で日本人将校専属のサディスト役の少女娼婦(高橋ひとみ)や、聾唖者を装う咲耶(山口小夜子)などの娼婦たちも居る。
“O”は、時々、自分の父親の夢を見る。まだ幼ない彼女は父に手をひかれて歩いている。四角い線の囲いの中に“O”を置いて去る父。追おうとしても動けない“O”。ふと父親がふり返ると、それはステファン卿の顔と重なる。彼女にとってステファンは父のイメージであり、ファザーフィガーなのであろう。
“春桃楼"と川を隔てた場所に無法地帯の貧民窟がある。そこの飲食店の息子、王学(中村研一)は、いつも娼館を眺めていたが、“O”の美しい姿に魅了されてしまう。そして、いつしか、お金を貯めて彼女を買う夢をみるようになる年頃の少年であった。
ある日、娼館にナタリーを伴ったステファンが現われ、“O”を縛り上げた目の前でナタリーを抱く。これも彼にとっては愛の実験なのだ。やがて上海の情勢が変化をみせ、資金の提供を拒んだステファンに、テロリストたちは逆上し、彼のカジノを破壊する。やがてナタリーが彼から去り、彼には“O”しかいなくなる。
賭けに破れ、愛の実験を最後に試すステファンは、“O”に花束を贈り続けていた少年の王学に彼女を逢わせた。王学のけなげで純情な姿にうたれ、“O”は初めて心を開いていく。それを陰から見ていたステファンは、“O”の愛の裏切りを感じて嫉妬に狂う。イギリス領事の誕生パーティで、“O”は、ステファンが逮捕されたことを知る。彼は王学を拳銃で殺害したのだ。
0嬢以外にも、娼館の女たちは、それぞれに闇を抱えている娼婦たちであり、客である男たちも心に深い闇がある。そして、男たちは、娼館の中でその闇をあらわにしリビドーを性欲で開放する。心の闇と、エキゾチックで官能的な世界を描く寺山修司流の演出がスクリーンに瞬きざわめくエロスの劇場。
ヒロインの0嬢と登場人物のステファン卿は、フランスの匿名小説家のポーリーヌ・レアージュの作品である『0嬢の物語』の主要登場人物。この小説の続編が原作なのだが、20世紀の文学的ポルノグラフィーの最高傑作と評され、澁澤龍彦訳でボクも20代前半に読んでいるし、映画化もされていて、映画公開時の、その頃は中学生の時で映画を観ているが、子供だったのでゼンゼン理解できなく記憶に薄く、こちらのフランス版の映画作品のほうは世間の評価も今でも低いようだ。
寺山修司は、この『0嬢の物語』の続編を念頭にして脚本を編んだようだが、映画が公開されたのは1981年で、1983年の5月に、舞台の最後の演出となる『レミング』公開寸前に亡くなってしまった。この『レミング』のエピーソードに出てくる元女優が、映画『上海異人娼館 チャイナ・ドール』の娼婦に、劇団・天井桟敷の女優・新高けい子が芝居にも映画でも同じ役柄で登場している。
舞台の「レミング」では・・・・・・タンゴを踊りながら登場する影という名の女優に、新高けい子が演じる訳だが・・・・・・ 名声を失った後でも、演じることをやめない影という名の女優の存在を演じ続ける姿は、映画『上海異人娼館 チャイナ・ドール』でも全く同じだ。その登場を寺山修司は次のように戯曲のト書きに書いている。
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マグネシュウムの光が一閃。立ち上る煙の中から、古い独逸風タンゴの調べが流れ込んでくる。
「世界という名の映画・・・雨、雨、雨が降るプールのうかんでいるのはわたしの死体、行き過ぎよ、影、仮面の似合う大佐と鰐が応接間であたしを待っている 。」
あきらかに時代錯誤を思わせる映画の一場面。往年の大スター的な衣装メイクの女優・影山影子が不思議な一団を引き連れ、スローモーションでゆっくりと現われ、中央に肖像写真のようにひろがる。
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このタンゴの音と共に登場し、歌い、踊る、デカダンでゴージャスでコケティシュな役の影という名の女優が『上海異人娼館 チャイナ・ドール』の映画でも娼婦として登場しているのだが、寺山修司のこの女優のイメージは、『サンセット大通り』から来ているかも知れないし、あるいはマレーネ・デートリッヒをも連想させる仕掛けになっている。
山口小夜子が演ずる聾唖の娼婦も闇というよりは、詩的なエピソードを独白する場面がとても美しいのであるが、ボクは新高けい子と山口小夜子の二つのエピソードが好みである。それでもボクも男であるから王学少年に心理的に共感してしまい、ステファン卿には未だ感情移入できない。
王学少年は『田園に死す』の家出する《私》である少年とも重なるし、ステファン卿は『田園に死す』の少年の20年後の《私》の更に20年後の姿とも思えてくる。
いずれにしても寺山修司は少女と娼婦と人形についてよく多くを語っていたが、この映画は更に少年と中年と老人についても寺山節の語り口を感じられるようにも思えてくる・・・・・・。
この映画は、フランスの文学的ポルノグラフィーの代表的な傑作を、寺山流に換骨奪胎した作品であり、エロティシズムを主題にした映画で、存在論をテーマにした秀作といえる。(了)