古代ギリシアの女流詩人サッフォーは、レスボス島で今から2500年あまり昔に生まれたと伝わる。プラトンによって“十番目の詩女神(ムーサ)”と称えられて以来、彼女の名はすべての時代を通じて西欧の詩人たちの憧れを呼び起こし、その愛の詩は研鑽の的となってきた。近年では19世紀末のボードレール、20世紀初頭のロレンス・ダレルを筆頭に数々の詩人や文人がサッフォーをとりあげ、その作品のなかで様々な姿で描かれてきている。
女性同性愛者を通俗的にレズビアンというが、この語源はレスボスの島からきている言葉だ。サッフォーの詩をみるからに同性への愛が謳われているものもうかがえることも確かなのだが、はたしてサッフォーが同性愛者であった のかを確かめる術は今ではない。女性同性愛者をレズビアン或いはその傾向をサフィズムと呼ぶ慣わしは、サッフォーの愛の詩から由来している。
ピエール・ルイスの作品である『ビリティスの唄』もサッフォーの存在なくして編まれることが無かったであろう。このエロスの司祭ピエール・ルイスの信者にして、サッフォーの愛をベル・エポックのパリでエロスの劇場としたのはナタリー・バーネイとルネ・ヴィヴィアンである。そしてピエール・ルイスは『アフロディテ』を著すが、この小説を献上すべき存在が同時期のベル・エポックに君臨した“クルチザンヌ”のリアーヌ・ド・プージイであった。クルチザンヌとは、フランスではルネッサンスから伝統的に続く寵姫の如きもので、神殿に使える古 代ギリシヤの高級娼婦の系譜でもある。
クルチザンヌ(courtesane<英>,courtisane<仏>,クルチザーヌ、クルティザンヌ、クルティザーヌ,コーティザンなどとも訳される)には、ココット(cocotte)、グランド・ココット(grande cocotte)、ドゥミモンディーヌ(demi-mondaine(s))、ドゥミ・カストール、オリゾンタル(horizontale) などいろいろな呼び名があるが、日本では一般的に高級娼婦と訳されている。
そもそも、courtesanは「宮廷人」を意味する言葉で、courtesaneはその言葉から派生した語であろう。呼び名の由来がルネッサンスのコルティジャーナからきているとも言われているのだが、フランスのクルチザンヌとルネッサンスのコルティジャーナが指す女たちはほぼ同じである。
クルチザンヌと呼ばれる女たちは、第二帝政時代をもって頂点に達して、第一次世界大戦が勃発するまでに華ひらいた風俗の花形であった。日本の芸者を西欧ではジャパニーズ・クルチザンヌと訳される。
高級娼婦というと、日本では、高い金で取引する娼婦という言葉どおりそのままのイメージがあるが、クルチザンヌはただ多額の金銭を払えばよいという問題ではなく、自分の恋人となる客は厳選して選んだのである。その客は国王であり、貴族であり、銀行家や当代一の名を競う音楽家や作家などの芸術家であった。
また、美貌のほかに広い教養と貴婦人に劣らない気品を要求されたクルチザンヌは自邸に豪華なサロンを開くことによって、上流階級の客を呼び自分がホステス(女主人)を勤める洗練された社交場を持った。時として、そのサロンに出入りすることは紳士にとって一種の自慢になり、またそこの女主人であるクルチザンヌはあらゆる羨望の的になった。
ナタリー・クリフォード・バーネイは、1876年10月31日に米国のオハイオ州デイトンに生まれ、1972年2月2日パリに死す。ナタリーの父は鉄道会社の社長で資産家であり、ホワイトハウスに招かれるほどの人物であった。
ナタリーは17歳でワシントンの社交界にデビューすると、美貌、才知、魅力、健康、富にあふれた金色の髪のナタリーに魅了されない男たちはいなかったが、男たちの愛のささやきと熱い誘惑 には、全く無駄なことで、頑なに求婚者たちをはねつけて、両親を心配させた。
ナタリーの書く詩は、いにしえの古代ギリシアの女神であり、レスボス島の詩人であったサッフォーの影響が濃密にして偏愛が露わであり、“ワシントンのサッフォー”という渾名を頂戴することになる。
ピューリタンの末裔の多い米国では、ナタリーの精神や情熱、魂や意志として、理想の場所と感じられずに、やがて、セーヌに浮かぶレスボス、世紀末の快楽の都へ逃れることとなる。
パリに逃れたナタリーは、クルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンやリアーヌ・ド・プージィの写真を収集するようになるが、ナタリーはこの時、“クルチザンヌ”という言葉の、正確な意味がまだわからなかったようが 、ナタリーはクルチザンヌであるリアーヌに恋をし心奪われてしまったのだ。そして、なんとナタリーはブローニュの森のアカシアの小道で、リアーヌ・ド・プージィに求愛する。リアーヌは情熱を湛えた見知らぬ娘に一本のアイリスを捧げる。
西欧社会で当代随一のクルチザンヌと“月の光”の髪が靡く米国娘が出逢ったのは1889年、その時、 リアーヌ30歳、ナタリー23歳のときである。あまりにもロマネスクな恋の場面は、プルーストの世界に入り込んだような錯覚さえおぼえてしまう物語であり、これは史実のお話。
やがてリアーヌを誘惑したナタリーは、伴に愛し合い、世を席巻するクリチザンヌを虜にするのだが、ナタリーの恋人であったルネ・ヴィヴィアンはナタリーと別離て、リアーヌに次ぐクルチザンヌのエミリエンヌ・ダランソンの恋人となり、エミリエンヌもリアーヌやココ・シャネルを愛人にするなど、世紀末のパリではレスボスの宴が華やかにくりひろげられていた時代。
リアーヌ・ド・プージィはベル・エポックのクルチザンヌにして、パリに輝くレスボスの明星、いにしえの女神の再来かと、同時代の芸術家たちに 称えられ、ヨーロッパ中に熱狂的な賛美を巻き起こしていたが、それはドゥミ・モンド(半社交界)の世界のことであった。ドゥミ・モンドとは本当の社交界に対して、クルチザンヌなどが出入りする裏と夜の社交界。
ナタリーにしても、リアーヌにしても、詩人や芸術家とも知識人や芸術家とも深く関わっているのだが、リアーヌ・ド・プージィは、ダヌンツィオ、プルスート、ポワレ、コクトーらと深く交流している。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のオデット、そしてコレットの『シェリ』のヒロインはリアーヌがモデルであった。
リアーヌは1869年7月2日にフランスの北西部サルト県ラ・フレーシュにて生まれる。本名はアンヌ=マリー・シャセーヌといい、父も兄も軍人で、貧しく厳格で保守的な家庭で育つ。9歳でオレーの聖アンナ修道院の「イエスの忠実な伴侶の会」のもとに入学する。そして16歳まで修道院での生活が、後のクルチザンヌとしての教養と品格を身に付けることにもなる。
17歳で海軍中尉と結婚したリアーヌは男の子が一人恵まれたが、夫の粗暴さや嫉妬深さに嫌気がさして、拳銃を発砲されたのを契機に家を出てパリに向かう。そして1891年には「超一流のオリゾンタル」というお墨付きを「ジル・ブラス」紙に宣せられるまでのクルチザンヌとなる。
クルチザンヌのリアーヌのライバルたちとのエピーソードが残っているので紹介しよう。この有名な一場面は、モンテ=カルロのカジノの中庭(アトリウム)で起きた。1897年2月6日土曜日、カジノの中庭に、花柳界(ギャラントリー)の選り抜きが次々と姿を見せる。この女たちは夜毎に前日以上の趣向を凝らし、ドレスの胸はいよいよ露わに、いっそう豪華な宝石を煌びやかに飾り、ますます突飛な帽子をかぶって、登場せねばならなかった。
さて、この煌びやかな連中の中で、まず注目を集めるのは、ラ・ベル・オテロがいる。その美貌、アンダルシアの燃える瞳、豊かに波打つ髪からのぞく端正な額、そして堂々たる歩き方。さらに頭の先から爪の先まで、彼女は全身これ、宝石やダイヤモンドの塊そのものであったという。この宝石コレクションに今宵はエメラルドが加えられていたのを群集は知っていた。
そこへ、リアーヌの登場である。彼女は仄かに薔薇色を帯びた白いモスリンのドレスを纏い、腰にも同じ薔薇色のリボンを付けて現れたのだが、ダイヤモンドも、ルビーも、サファイヤもなく、胸にはただ一輪の薔薇の花が飾っているだけの衣装だった。
しかし、これで幕ではなかった。リアーヌに数歩離れて、彼女の小間使いが静々と歩いてきた。見ればこの小間使い女主人のドレスを身に纏い、しかもその衣装には、さすがのオテロにも敵わないほどの多くの宝石が燦然と輝いていたのである。群集は瞬間、息を呑んでいたが、やがて絶大な拍手が送られていた。
そんな艶やかな時代を生き、ギガ大公妃として結婚生活を送ったリアーヌも、晩年は聖ドミニコ会第三会員として神に使える身となる。そんな聖リアーヌの生涯も1950年81歳で天に召される。リアーヌ・ド・プージィの名は日本では馴染みが薄いと思わしいが、彼女はフランンスを代表する美女として、「われらが国のリアーヌ」と称えられた国の記念碑であり、ゴンクールをして「十九世紀最高の美女」と言わしめた女性なのである。
彼女はその美貌を武器に多くの王侯貴族を虜にし、多くの資産化を破産させ、多くの著名人と浮名を流した。彼女の動静は逐一、新聞に報道され、フランスはもとよりヨーロッパでは知らぬものなどいないほどの有名人なのであった。
高級娼婦であったリアーヌは結婚もしていたが、クルチザンヌの時にも、同じクルチザンヌのエミリアンヌ・ダランソンや貴族の后たちとも性的な関係をもっており、そのなかでも有名なお相手がナタリー・バーネイである。結婚してからもギガ大公の公認で“小さな愛情の戯れ”と称してレスボスの行為を続けていた。本来、リアーヌは最初の結婚で失敗してから男性的な粗暴さを嫌悪していたのも原因の一つといえる。