栄枯盛衰
2004年11月20日は、さいたま市にとって永遠に忘れられない日になるだろう。J1で浦和レッズが優勝し、J2で大宮アルディージャがJ1に昇格を決めたからだ。サッカーの街・埼玉(旧・浦和)はかつて高校サッカー界で一大勢力を誇り「浦和を制する者は全国を制す」といわれた時代もあった。だがその後は「日本のブラジル」清水・静岡が勢力をまし、強豪校も全国に分散すると、埼玉の高校サッカー界は急激に勢いを失った。昨日の浦和優勝・大宮J1昇格は「サッカーの街」埼玉復活を高らかに宣言する日になるのではないかと思う。
それに引き替え、清水の凋落は目を覆うばかりである。J発足時、チームの中で唯一親会社を持たずにスタートした清水ナビスコカップを制覇したのが’96年。だが深刻な経営難に陥り、翌シーズンから地元の鈴与グループ傘下に入り、財政面では安定してきた。その後は着々と戦力強化を進め、’99年のセカンドステージを制覇する。磐田とチャンピオンシップを争ったその頃が、清水のピークだったように思える。以後の成績は主力選手の衰え、世代交代の失敗もあり、成績は下がる一方。ここ数年はJ1残留が精一杯という有様で、数年前には覇を競ったチームとはとても思えない。今年は柏を立て直したアントニーニョを監督に招聘したが結果を出せず、セカンドステージから大分、川崎で指揮を執った石崎がヘッドコーチから昇格し、チーム再建を目指していたが、成績が上向かないという状態が続いている。今年の天皇杯でも初戦(4回戦)で大宮に敗退し、サポーターは選手に罵声を浴びせたという。観客動員が伸び悩み→収入減→選手補強に力が入らない→チーム弱体化という「負のスパイラル」に完全にはまってしまった。
今シーズンは世代交代がうまくいかなかった磐田、監督の采配がマンネリで、さらに選手と監督の間にすきま風が吹き、あげくの果てに選手とサポが暴力沙汰を起こした鹿島。Jリーグ初期に圧倒的な強みを発揮したが、主力選手の衰えと同時に親会社が経営から撤退し、一時期はJ2落ちの恐怖を味わうなど辛酸をなめた東京ヴェルディ1969。これらのチームに共通しているのは、チームのフロントとサポーターの間の意思疎通システムが機能していなかったことである。
浦和レッズは毎年のようにサポとフロントが会合を持ち、チームの運営方針について議論を交わしている。きっかけは’99年、浦和がJ2に陥落したことからだった。強化方針が一貫しないフロントに業を煮やしたサポーターは、フロントに対し対話を要求する。その年の大晦日、地元テレビ局でフロントとサポーターの対話集会が生中継され、以来サポとフロントの大晦日の対話集会は毎年の恒例行事になりつつある。今の浦和レッズ社長は、かつて三菱重工サッカー部の選手として活躍し、その後社業に専念していたが、自ら親会社の社長に直訴してレッズの社長に納まったという人物。彼は時たまサポーターが集まる居酒屋にふらりと顔を見せ、居合わせたサポーターと意見を交換しているという。そのぐらい情熱を注がないと、チームは強くならないという好例を、レッズは証明してくれた。
それに引き替え、清水の凋落は目を覆うばかりである。J発足時、チームの中で唯一親会社を持たずにスタートした清水ナビスコカップを制覇したのが’96年。だが深刻な経営難に陥り、翌シーズンから地元の鈴与グループ傘下に入り、財政面では安定してきた。その後は着々と戦力強化を進め、’99年のセカンドステージを制覇する。磐田とチャンピオンシップを争ったその頃が、清水のピークだったように思える。以後の成績は主力選手の衰え、世代交代の失敗もあり、成績は下がる一方。ここ数年はJ1残留が精一杯という有様で、数年前には覇を競ったチームとはとても思えない。今年は柏を立て直したアントニーニョを監督に招聘したが結果を出せず、セカンドステージから大分、川崎で指揮を執った石崎がヘッドコーチから昇格し、チーム再建を目指していたが、成績が上向かないという状態が続いている。今年の天皇杯でも初戦(4回戦)で大宮に敗退し、サポーターは選手に罵声を浴びせたという。観客動員が伸び悩み→収入減→選手補強に力が入らない→チーム弱体化という「負のスパイラル」に完全にはまってしまった。
今シーズンは世代交代がうまくいかなかった磐田、監督の采配がマンネリで、さらに選手と監督の間にすきま風が吹き、あげくの果てに選手とサポが暴力沙汰を起こした鹿島。Jリーグ初期に圧倒的な強みを発揮したが、主力選手の衰えと同時に親会社が経営から撤退し、一時期はJ2落ちの恐怖を味わうなど辛酸をなめた東京ヴェルディ1969。これらのチームに共通しているのは、チームのフロントとサポーターの間の意思疎通システムが機能していなかったことである。
浦和レッズは毎年のようにサポとフロントが会合を持ち、チームの運営方針について議論を交わしている。きっかけは’99年、浦和がJ2に陥落したことからだった。強化方針が一貫しないフロントに業を煮やしたサポーターは、フロントに対し対話を要求する。その年の大晦日、地元テレビ局でフロントとサポーターの対話集会が生中継され、以来サポとフロントの大晦日の対話集会は毎年の恒例行事になりつつある。今の浦和レッズ社長は、かつて三菱重工サッカー部の選手として活躍し、その後社業に専念していたが、自ら親会社の社長に直訴してレッズの社長に納まったという人物。彼は時たまサポーターが集まる居酒屋にふらりと顔を見せ、居合わせたサポーターと意見を交換しているという。そのぐらい情熱を注がないと、チームは強くならないという好例を、レッズは証明してくれた。
大願成就したけれど……
本日私は、テレビで「歴史の目撃者」になった。浦和レッドダイヤモンズ、Jリーグセカンドステージ優勝!いつかこの日が来ることを信じて12年、やっとこの目でレッズの優勝をみることが出来た。
私がレッズファンになったのは小学校時代、日本リーグでレッズが「三菱重工」サッカー部と名乗っていた時代からであるから、相当年季の入ったサポーターだともいえるだろう。なぜ三菱のファンになったのかといえば理由は簡単、一番最初にテレビで見たサッカーの試合が、三菱の試合だったからだ。といっても生中継ではなく、スポーツニュースで日本リーグの、試合結果を伝える映像だったと記憶しているが。その頃は釜本の全盛時代、釜本がシュートを決め、ゴールを守れなかった当時の三菱GK・田口がひっくり返っている姿はいまだに覚えている。それ以来ずっと三菱を応援していたのだが、なかなか優勝できずにもどかしい思いをしたものである。やっと優勝したのは’78年。陰ながら子供心に「やったー!」と叫んだのだった。
’82年に優勝した時は中学生の時で、しっかりと記憶に残っている。このシーズンは最終節まで5チームが優勝の可能性があった、史上まれに見る大混戦。三菱は眼前の敵である日立(現:柏レイソル)と対戦、5-0で圧勝、同じ時間に試合を開始した、他の優勝を争ったチームが続々と脱落したこともあり、三菱が大逆転で優勝した。だがよかったのはそこまで、日産、読売クラブが台頭するのと時を同じくして凋落の一途をたどり、’88年の日本リーグではついに屈辱の2部陥落。ところが翌年の2部リーグで彗星の如くデビューした福田正博が、32試合で36ゴールという驚異的な記録でチームを引っ張り、わずか1年でチームは1部復帰を果たすものの、復帰後も不安定な戦いぶりで、成績もダッチロール状態が続いた。
’90年代になると、日本にもプロサッカーリーグを作ろうという動きが広まり、’93年にJリーグが発足することが決定した。三菱自動車はJリーグ発足に伴い「浦和レッドダイヤモンズ」と名前を変えてJリーグに参加することになった。三菱自動車は当初、東京都内に本拠地を持ちたいという希望を持っていたのだが、当時の都内にはJリーグの規定に満たすスタジアムがなかった。そこに当初別のチームを誘致する計画を持っていながら、諸々の事情でその計画が流れてしまった浦和市が三菱を誘ったことから、チームは浦和に本拠地を構えることになったのである。
’92年に開催されたナビスコカップでは10チーム中5位で終了したが、サポーターの盛り上がりは当時から熱いものがあり、当時の関係者が「いつか『レッズ』と呼ばれたい」と思っていた以上に早く「レッズ」の愛称が定着した。だが期待されたJリーグでは連戦連敗、’93年のJリーグ総得点は、そのシーズンに得点王になったディアズ(横浜マリノス)よりも少ないとボロカスに貶され、翌年のシーズンも年間最下位に沈んだ。
ところが’95年、ドイツからやってきたホルガー・オジェックがチームをガラリと変えて見せた。彼は守備の徹底からチームを再建し、ファーストステージで全14チーム中3位という好成績をあげ、福田は32ゴールをあげてそのシーズンの得点王に輝く。日本人が初めて得点王のタイトルを獲得した、最初のシーズンだった。
1シーズン制で開催された’96シーズンは、前年の得点王・福田をケガで欠きながらもチームは6位に入った。しかし翌年はパッとしない成績で終わり、原博美を指揮官に迎え入れ、「天才」小野伸二が入団した’98年はセカンドステージで3位にはいる。小野はその年の新人王に輝いたが、翌年はケガ人続出でチームは低迷。チームは原監督を解任し、ア・デモスを後任に迎えて巻き返しを図るも、屈辱のJ2転落。運命の最終戦、降格が決まってから出た福田の決勝ゴールは「世界で一番悲しいVゴール」という文字が新聞に躍った。
翌年のJ2は苦闘の末J1復帰を決めたが、翌年からの2年間リーグ戦では泣かず飛ばず。しかし’02年に初めてナビスコカップで準優勝になると、昨年のナビスコカップでチーム初めての優勝に輝く。その時の監督は、日本代表の礎を気づいたハンス・オフトだったが、チームは功労者のオフトを切り、かつてチームの主力選手として働いたギド・ブッフバルトを新監督に迎え入れた。 そして今年、チームは積極的な補強もあり「リーグ制覇をねらえるかも」と思えるほどチーム力は充実する。ファーストステージで3位になり、とうとう本日、悲願のJリーグ制覇を成し遂げた。
しかし、その内容は何ともしまらなかった。攻めても攻めても遠いゴール。一瞬のスキをつかれ、名古屋相手に2失点。後半エメルソンのPKで1点を返すが、退場で2人少ない名古屋を攻めきれずに試合終了。ところがレッズを追いかけていた2位のガンバ大阪が横浜マリノスに負けたため、めでたく(?)優勝が決まった。
とりあえずめでたいしうれしい。しかし、どうせ優勝を決めるのだったら勝てとはいわなくても、引き分けで締めくくりたかった。レッズらしいといえばらしい。だがこんな調子では「Jリーグ一のリアリスト」岡田監督率いる横浜マリノス相手に勝てるとは、とても思えない。来月開かれるチャンピオンシップ(CS)を前にして、不安材料を露呈させてしまった。この調子ではCSではコテンパンにやられてしまうだろう。本番までどこまで立て直せるのか……。
私がレッズファンになったのは小学校時代、日本リーグでレッズが「三菱重工」サッカー部と名乗っていた時代からであるから、相当年季の入ったサポーターだともいえるだろう。なぜ三菱のファンになったのかといえば理由は簡単、一番最初にテレビで見たサッカーの試合が、三菱の試合だったからだ。といっても生中継ではなく、スポーツニュースで日本リーグの、試合結果を伝える映像だったと記憶しているが。その頃は釜本の全盛時代、釜本がシュートを決め、ゴールを守れなかった当時の三菱GK・田口がひっくり返っている姿はいまだに覚えている。それ以来ずっと三菱を応援していたのだが、なかなか優勝できずにもどかしい思いをしたものである。やっと優勝したのは’78年。陰ながら子供心に「やったー!」と叫んだのだった。
’82年に優勝した時は中学生の時で、しっかりと記憶に残っている。このシーズンは最終節まで5チームが優勝の可能性があった、史上まれに見る大混戦。三菱は眼前の敵である日立(現:柏レイソル)と対戦、5-0で圧勝、同じ時間に試合を開始した、他の優勝を争ったチームが続々と脱落したこともあり、三菱が大逆転で優勝した。だがよかったのはそこまで、日産、読売クラブが台頭するのと時を同じくして凋落の一途をたどり、’88年の日本リーグではついに屈辱の2部陥落。ところが翌年の2部リーグで彗星の如くデビューした福田正博が、32試合で36ゴールという驚異的な記録でチームを引っ張り、わずか1年でチームは1部復帰を果たすものの、復帰後も不安定な戦いぶりで、成績もダッチロール状態が続いた。
’90年代になると、日本にもプロサッカーリーグを作ろうという動きが広まり、’93年にJリーグが発足することが決定した。三菱自動車はJリーグ発足に伴い「浦和レッドダイヤモンズ」と名前を変えてJリーグに参加することになった。三菱自動車は当初、東京都内に本拠地を持ちたいという希望を持っていたのだが、当時の都内にはJリーグの規定に満たすスタジアムがなかった。そこに当初別のチームを誘致する計画を持っていながら、諸々の事情でその計画が流れてしまった浦和市が三菱を誘ったことから、チームは浦和に本拠地を構えることになったのである。
’92年に開催されたナビスコカップでは10チーム中5位で終了したが、サポーターの盛り上がりは当時から熱いものがあり、当時の関係者が「いつか『レッズ』と呼ばれたい」と思っていた以上に早く「レッズ」の愛称が定着した。だが期待されたJリーグでは連戦連敗、’93年のJリーグ総得点は、そのシーズンに得点王になったディアズ(横浜マリノス)よりも少ないとボロカスに貶され、翌年のシーズンも年間最下位に沈んだ。
ところが’95年、ドイツからやってきたホルガー・オジェックがチームをガラリと変えて見せた。彼は守備の徹底からチームを再建し、ファーストステージで全14チーム中3位という好成績をあげ、福田は32ゴールをあげてそのシーズンの得点王に輝く。日本人が初めて得点王のタイトルを獲得した、最初のシーズンだった。
1シーズン制で開催された’96シーズンは、前年の得点王・福田をケガで欠きながらもチームは6位に入った。しかし翌年はパッとしない成績で終わり、原博美を指揮官に迎え入れ、「天才」小野伸二が入団した’98年はセカンドステージで3位にはいる。小野はその年の新人王に輝いたが、翌年はケガ人続出でチームは低迷。チームは原監督を解任し、ア・デモスを後任に迎えて巻き返しを図るも、屈辱のJ2転落。運命の最終戦、降格が決まってから出た福田の決勝ゴールは「世界で一番悲しいVゴール」という文字が新聞に躍った。
翌年のJ2は苦闘の末J1復帰を決めたが、翌年からの2年間リーグ戦では泣かず飛ばず。しかし’02年に初めてナビスコカップで準優勝になると、昨年のナビスコカップでチーム初めての優勝に輝く。その時の監督は、日本代表の礎を気づいたハンス・オフトだったが、チームは功労者のオフトを切り、かつてチームの主力選手として働いたギド・ブッフバルトを新監督に迎え入れた。 そして今年、チームは積極的な補強もあり「リーグ制覇をねらえるかも」と思えるほどチーム力は充実する。ファーストステージで3位になり、とうとう本日、悲願のJリーグ制覇を成し遂げた。
しかし、その内容は何ともしまらなかった。攻めても攻めても遠いゴール。一瞬のスキをつかれ、名古屋相手に2失点。後半エメルソンのPKで1点を返すが、退場で2人少ない名古屋を攻めきれずに試合終了。ところがレッズを追いかけていた2位のガンバ大阪が横浜マリノスに負けたため、めでたく(?)優勝が決まった。
とりあえずめでたいしうれしい。しかし、どうせ優勝を決めるのだったら勝てとはいわなくても、引き分けで締めくくりたかった。レッズらしいといえばらしい。だがこんな調子では「Jリーグ一のリアリスト」岡田監督率いる横浜マリノス相手に勝てるとは、とても思えない。来月開かれるチャンピオンシップ(CS)を前にして、不安材料を露呈させてしまった。この調子ではCSではコテンパンにやられてしまうだろう。本番までどこまで立て直せるのか……。
お引っ越し
今勤めている勤務先の住所が、来月から変わる。現在の勤務地より遠くなるから、通勤時間が長くなるのは、遠距離通勤者にとってはちょっとつらいモノがあるが、こればかりは仕方がない。
現住所のビルは、来月10日までに立ち退くことになっている。今年の夏頃から、部署を移転するという話は聞いていたのだが、諸々の事情で予定が延び延びになっていたのである。当初は他の部署と一緒のビルになる予定だったのだが、いざフタを開けてみると、我々の部署だけ別のところになった。他の部署と離れており、我々だけ離れ小島に流されたのである。今勤めている会社の、実際の宣伝活動の主体をになっているのは我々なのに、なんだか厄介者されているような気がしてならない。
今度引っ越すビルには、勤務先の部署は我々しかいないため、今まで以上に部外者から好奇の目にさらされるのは必至である。これだけ宣伝活動をしていても、新参者の悲しさで、今の勤務先の業務内容をよく知らない人は沢山いる。会社側としては、我々の行動が、会社のイメージを傷つけることを非常に怖れていて、これまで以上に勤務評定を厳しくするとかいっているらしい。ぶっちゃけた話、今まで通りまじめに仕事をしていればいいだけの話なのだが。
現住所のビルは、来月10日までに立ち退くことになっている。今年の夏頃から、部署を移転するという話は聞いていたのだが、諸々の事情で予定が延び延びになっていたのである。当初は他の部署と一緒のビルになる予定だったのだが、いざフタを開けてみると、我々の部署だけ別のところになった。他の部署と離れており、我々だけ離れ小島に流されたのである。今勤めている会社の、実際の宣伝活動の主体をになっているのは我々なのに、なんだか厄介者されているような気がしてならない。
今度引っ越すビルには、勤務先の部署は我々しかいないため、今まで以上に部外者から好奇の目にさらされるのは必至である。これだけ宣伝活動をしていても、新参者の悲しさで、今の勤務先の業務内容をよく知らない人は沢山いる。会社側としては、我々の行動が、会社のイメージを傷つけることを非常に怖れていて、これまで以上に勤務評定を厳しくするとかいっているらしい。ぶっちゃけた話、今まで通りまじめに仕事をしていればいいだけの話なのだが。
ドラフト雑感
オリックスと近鉄の合併問題に端を発し、話し合いがこじれて史上初めてのストライキにまで発展した日本のプロ野球だが、今年もなんとか無事にドラフトを迎えることが出来た。とりあえずめでたいというべきか。
今年の目玉であるダルビッシュは日本ハムが単独で指名した。4季連続で甲子園に出場し、昨年夏の準優勝投手に輝き、今年のセンバツ大会ではノーヒットノーランを記録したダルビッシュだが、プロの評価は意外に低かった。一説には体力と精神力に課題があったからだといわれている。甲子園で連投経験がないのは、同期に好投手2人を抱えているというチーム事情もあったのだろうが、ある試合でツーベースを打った時、2塁ベース上でゼーゼーいっていたのを見て「体力がない」と判断したスカウトも多かったらしい。ダルビッシュは精神面も弱く、ちょっとしかられるとへそを曲げていたという。東北高校に行ったのも「監督がしからない」という理由があったからだそうだ。心身共に課題を抱えたこの大型投手の将来はあるか?
裏金問題で読売・阪神・横浜3球団のオーナーを交代させた明治大学・一場投手は、新球団「楽天」の入団が決まった。今年の大学選手権で完全試合を達成した本格派右腕を巡って横浜、阪神、読売が狙っていたが、読売のスカウト戦略が奏功して、この球団の入団は半ば本決まりになっていた。ところが読売・渡辺恒雄オーナー(当時)の「たかが選手」発言がきっかけになってプロ野球は大揺れになり、その中で裏金問題が発覚し、読売は一場獲得から撤退を余儀なくされた。その後横浜が獲得する方針を決めていたのだが、横浜と阪神からも裏金を取っていたことが発覚したことで、彼のダーティーイメージは決定的になり、一時は日本球界に居場所がなくなるのではないかといわれていたのだが、新球団「楽天」が彼を救う形で入団させることになった。一場は感謝の気持ちを述べたが、その気持ちをずっともってもらいたいと思っている。
西武はどうなるのか。「大株主の比率が8割を超えてはいけない」という東証ルールを40年以上にわたって破っていた上、それを隠蔽するために社員1,200人に名義かしを共用していたのである。東証は西武鉄道の東証上場廃止を決定したが、西武はこれに懲りずにジャスダック上場を目論んでいるらしい。
このゴタゴタで、西武は球団売却を目論んでいるがうまくいかない。最初は売却価格として200~250億円といっていたのだが、すぐに80億円までダンピング、最後はライブドアに「20億円でどうだ」と持ちかけたが、先方から「いらない」といわれてあっさり頓挫した。楽天と新規加盟を競っている会社に「球団を買わないか」と持ちかけるなんて、人をバカにしているとしか思えない。そんな会社が「夢を売らなくてはいけない」から清く正しくなんてバカなことをいっているのだから、これはもうマンガとしかいいようがない。
今年の目玉であるダルビッシュは日本ハムが単独で指名した。4季連続で甲子園に出場し、昨年夏の準優勝投手に輝き、今年のセンバツ大会ではノーヒットノーランを記録したダルビッシュだが、プロの評価は意外に低かった。一説には体力と精神力に課題があったからだといわれている。甲子園で連投経験がないのは、同期に好投手2人を抱えているというチーム事情もあったのだろうが、ある試合でツーベースを打った時、2塁ベース上でゼーゼーいっていたのを見て「体力がない」と判断したスカウトも多かったらしい。ダルビッシュは精神面も弱く、ちょっとしかられるとへそを曲げていたという。東北高校に行ったのも「監督がしからない」という理由があったからだそうだ。心身共に課題を抱えたこの大型投手の将来はあるか?
裏金問題で読売・阪神・横浜3球団のオーナーを交代させた明治大学・一場投手は、新球団「楽天」の入団が決まった。今年の大学選手権で完全試合を達成した本格派右腕を巡って横浜、阪神、読売が狙っていたが、読売のスカウト戦略が奏功して、この球団の入団は半ば本決まりになっていた。ところが読売・渡辺恒雄オーナー(当時)の「たかが選手」発言がきっかけになってプロ野球は大揺れになり、その中で裏金問題が発覚し、読売は一場獲得から撤退を余儀なくされた。その後横浜が獲得する方針を決めていたのだが、横浜と阪神からも裏金を取っていたことが発覚したことで、彼のダーティーイメージは決定的になり、一時は日本球界に居場所がなくなるのではないかといわれていたのだが、新球団「楽天」が彼を救う形で入団させることになった。一場は感謝の気持ちを述べたが、その気持ちをずっともってもらいたいと思っている。
西武はどうなるのか。「大株主の比率が8割を超えてはいけない」という東証ルールを40年以上にわたって破っていた上、それを隠蔽するために社員1,200人に名義かしを共用していたのである。東証は西武鉄道の東証上場廃止を決定したが、西武はこれに懲りずにジャスダック上場を目論んでいるらしい。
このゴタゴタで、西武は球団売却を目論んでいるがうまくいかない。最初は売却価格として200~250億円といっていたのだが、すぐに80億円までダンピング、最後はライブドアに「20億円でどうだ」と持ちかけたが、先方から「いらない」といわれてあっさり頓挫した。楽天と新規加盟を競っている会社に「球団を買わないか」と持ちかけるなんて、人をバカにしているとしか思えない。そんな会社が「夢を売らなくてはいけない」から清く正しくなんてバカなことをいっているのだから、これはもうマンガとしかいいようがない。
慶事と虐殺と暴言と
ファルージャでのドンパチが続いているようだが、週末のニュースは「紀宮婚約」ばかり。そりゃ婚約自体はおめでたい限りだが、本当に伝えるべきニュースそっちのけで婚約ばかり伝えているマスコミ報道って、どっかおかしくないかい?
紀宮といえば一部では「ミッキーマウス」オタクを伝えられ、最近では「ミミズク」の彫り物集めに夢中になっていると某週刊誌で報道されたこともあった。要するに、それだけ子供っぽい性格だといいたかったのだろうが、別の週刊誌ではさばけた性格で、お酒が強いと本人が語っていたと伝えている。どれも本当のことなのかもしれないし、反対にことをオーバーに伝えているのかもしれない。真相は周辺の人間でない限りわからないし、別に下々の人間が気にすることもない。
お相手は都庁に勤めるお役人。秋篠宮と同じサークルで活動し、紀宮とも面識があったという。このニュースをすっぱ抜いたのは、雅子皇太子妃が最初の解任をしたニュースをスクープした、皇室担当約40年を数えるベテラン編集委員。宮内庁はギリギリまでこの話を隠しておきたかったらしいが、すっぱ抜かれて渋々この件を認める羽目になった。すでにプロポーズは済ませているのだが、新潟中越震災が落ち着くまで公表を控えたいという天皇家サイドの意向で、今まで伏せていたそうだ。結婚の儀は来年の春以降だそうだ。その時は、また伝えるべきニュースを後回しにして「結婚おめでとう」のオンパレードになるのかと思うと少々憂鬱だ。
米軍のファルージャでの蛮行はまだ続いている。米軍は「武装勢力1,000人を殺した」と発表しているが、これはもちろん「大本営発表」。実際に犠牲になっているのは民間人がほとんどで、住民は町から逃げ出したくても逃げられないというのが真相だそうだ。今回の攻撃でも無差別爆撃を敢行しているが、使われている爆弾は化学薬品が飛び散り、薬品が体につくと燃え上がり、懸想とすると有毒ガスが出るという、実に陰惨極まりない爆弾。米軍は人体実験のために広島と長崎に原爆を落としたが、原爆が科学爆弾に代わっただけで、やっていることはその当時とまったく変わっていない。市内は路上に転がる死体の上を戦車が通り、死体を川に投げ捨てているという地獄絵図が繰り広げられている。 ファルージャ市内は米軍が封鎖しているから、必要な水・食糧・医薬品が届かず、餓死者が出ているらしい。現地で活動している高遠菜穂子さんによれば、治安が悪化してNGOは撤退に追い込まれ、わずかに残っている人道支援者も病院が破壊されているため、思うように救護活動が出来ない状態になっている。
そんなアメリカの蛮行をノーテンキに支持している小泉、先日の党首討論では「自衛隊が行くから非戦闘地域だ」と暴言を吐いて周囲を呆れさせたばかりか、直後の記者会見でも「いい答弁だった」と開き直った。某民主党の議員は「テレビに出た時『相当おかしい。病院へ行ってみてもらった方がいい』と発言したら、他のコメンテーターも『そう、そう』と頷いていたそうだ。中国の首脳とは会談しないのに、シュワルツネッガー・カルフォルニア州知事がやってきた時は、延々1時間もくだらない話をしていたそうだ。ことの善悪、やらなければいけない順番が、この人にはわからなくなっているらしい。頭がパニックになっているのに、突っ込まれて頭に来るから開き直っている。最近の首相の答弁はこんなのがほとんどだ。もういい加減にしてくれ!
紀宮といえば一部では「ミッキーマウス」オタクを伝えられ、最近では「ミミズク」の彫り物集めに夢中になっていると某週刊誌で報道されたこともあった。要するに、それだけ子供っぽい性格だといいたかったのだろうが、別の週刊誌ではさばけた性格で、お酒が強いと本人が語っていたと伝えている。どれも本当のことなのかもしれないし、反対にことをオーバーに伝えているのかもしれない。真相は周辺の人間でない限りわからないし、別に下々の人間が気にすることもない。
お相手は都庁に勤めるお役人。秋篠宮と同じサークルで活動し、紀宮とも面識があったという。このニュースをすっぱ抜いたのは、雅子皇太子妃が最初の解任をしたニュースをスクープした、皇室担当約40年を数えるベテラン編集委員。宮内庁はギリギリまでこの話を隠しておきたかったらしいが、すっぱ抜かれて渋々この件を認める羽目になった。すでにプロポーズは済ませているのだが、新潟中越震災が落ち着くまで公表を控えたいという天皇家サイドの意向で、今まで伏せていたそうだ。結婚の儀は来年の春以降だそうだ。その時は、また伝えるべきニュースを後回しにして「結婚おめでとう」のオンパレードになるのかと思うと少々憂鬱だ。
米軍のファルージャでの蛮行はまだ続いている。米軍は「武装勢力1,000人を殺した」と発表しているが、これはもちろん「大本営発表」。実際に犠牲になっているのは民間人がほとんどで、住民は町から逃げ出したくても逃げられないというのが真相だそうだ。今回の攻撃でも無差別爆撃を敢行しているが、使われている爆弾は化学薬品が飛び散り、薬品が体につくと燃え上がり、懸想とすると有毒ガスが出るという、実に陰惨極まりない爆弾。米軍は人体実験のために広島と長崎に原爆を落としたが、原爆が科学爆弾に代わっただけで、やっていることはその当時とまったく変わっていない。市内は路上に転がる死体の上を戦車が通り、死体を川に投げ捨てているという地獄絵図が繰り広げられている。 ファルージャ市内は米軍が封鎖しているから、必要な水・食糧・医薬品が届かず、餓死者が出ているらしい。現地で活動している高遠菜穂子さんによれば、治安が悪化してNGOは撤退に追い込まれ、わずかに残っている人道支援者も病院が破壊されているため、思うように救護活動が出来ない状態になっている。
そんなアメリカの蛮行をノーテンキに支持している小泉、先日の党首討論では「自衛隊が行くから非戦闘地域だ」と暴言を吐いて周囲を呆れさせたばかりか、直後の記者会見でも「いい答弁だった」と開き直った。某民主党の議員は「テレビに出た時『相当おかしい。病院へ行ってみてもらった方がいい』と発言したら、他のコメンテーターも『そう、そう』と頷いていたそうだ。中国の首脳とは会談しないのに、シュワルツネッガー・カルフォルニア州知事がやってきた時は、延々1時間もくだらない話をしていたそうだ。ことの善悪、やらなければいけない順番が、この人にはわからなくなっているらしい。頭がパニックになっているのに、突っ込まれて頭に来るから開き直っている。最近の首相の答弁はこんなのがほとんどだ。もういい加減にしてくれ!
学園祭報告Part3
今日は東京女子大学(以下東女=とんじょ)に行ってきた。なぜ東女にいってきたのかというと、どんな大学なのか興味を持ったのと、学園祭があったからだ。
東女はキリスト教の大学だ。日本名では「キリスト」の文字は入っていないが、英語名ではちゃんと「CHRISTIAN」の文字が入っている。学部は文理学部と、短大を発展的解消させて作られた現代文化学部の2つ。建物は近代的な建物もあるが、やはりキリスト教を意識させる感じの建物が目立つ。
校風は、オツムのできのいいお嬢様大学といった感じ。キャンパス内には、キリスト教的なノーブルさと上流階級のスノッブさが、複雑に入り交じった独特の雰囲気が漂う。同じミッションスクールであるライバル・津田塾(大学側はおおっぴらに宣伝しないが、チャペルがあるれっきとしたミッションスクールである)がキャリア系を前面に打ち出しているから、なおさら校風の違いが目につく。
場所は、西荻窪か吉祥寺からバスに乗っていく。徒歩だと20分くらいかかる。週末・祝日は西荻窪にJR中央線の快速は止まらないため、今日は吉祥寺経由で大学に向かった。内輪だけで盛り上がっている学園祭も少なからずあるが、この大学は近隣住民も積極的に参加している。家族連れも目立ったが、ひょっとしたらOGも旦那子供を連れてやってきているのかもしれない。キャンパス内の芝生はきれいだが、普段は中に入ることは禁じられている。学園祭ということで、芝生に入ってのんびりしている親子連れ、そこら辺を飛び跳ねている子供も多かった。
女子大学の学園祭なのにやたらと男子学生が目立ったが、これはおそらくサークルのつきあいだからだろう。ただし、彼女たちが相手にするのはほとんどが東大・早大・慶大・一橋・ICU・上智であり、それ以外の大学は「OUT OF 眼中」だそうだ。どこぞの展示サークルに「彼氏募集!!」と自分の顔写真を出していたのがいたが、上記に上げた大学以外は避けたほうが無難だろう。
「VERA祭」の由来は、ラテン語で「真実」という意味。本館にラテン語で「すべて真実なこと」と書かれており、学園祭の名前はそこから取られた。受付でパンフレット(1冊200円)を購入。他の大学より高いが、これはパンフレットの他にお土産と称するおまけが付いてくるからだ。ただこのおまけは私にとってどうでもいい物が多かったので、もったいなと思いつつゴミ箱に直行した。ゴミ箱に捨てたくなかったら、受付で見本があるかどうかを確かめた方がいいかもしれない。
展示物だが、はっきりいって昨年いった津田塾のほうが数段上。少なくても四ッ谷祭(慶応医学部の学園祭。ほとんど内輪でだべっているだけ)よりはマシだが、インパクトに欠けるのは否めない。ステージで何かイベントやっていたが、MCをやっていた学生達が自分たちで楽しんでいたという印象しかない。女子大だからだろうか、やたらと食べ物や喫茶店が目立ったし、茶道部・華道部の作品も多かった。別にそれが悪いとはいわないが、学術系の出し物が少なかったことに寂しさを覚えた。
その数少ない学術系の出し物が、サークル「第三文明研究会」。平和に貢献した女性達というタイトルの出し物を出し、並行して「私の平和宣言」なるものを展示していたこのサークルの正体は、創価学会信者の団体。創価学会信者は「東洋哲学研究会」だの「仏教研究会」という名前のサークルで積極的に進出し、昨年までは堂々と池田大作の名前と写真を部屋に飾っていたが、母体である創価学会の評判に対する風当たりを警戒したのか、今年は池田大作の「い」の字も出ていなかったのは、先日行った学習院と同じ。本部からの命令なのか、それとも本人達の意思によるものか。上の命令に絶対服従という体質を持つ学会員のことだから、上の命令と考えたほうが良さそうだ。唯一学会らしさを出していたのが、雑誌「Pumpkin」(潮出版社、この出版社も創価学会系)がおかれていたことと、学会のシンボルカラー「青・赤・黄」のビニールの飾りがあったことか。
学食は生協ではなく業者が入っており、購買部は通常通り営業していた。書籍部は私学・社会学系の本が充実していたが、理系の学科があるにもかかわらず、理科系の本がほとんどなかったのは残念である。
キャンパスは緑が豊かで鬱蒼とした森もあり、環境面では申し分ないものであったことを最後に付け加えておく。
東女はキリスト教の大学だ。日本名では「キリスト」の文字は入っていないが、英語名ではちゃんと「CHRISTIAN」の文字が入っている。学部は文理学部と、短大を発展的解消させて作られた現代文化学部の2つ。建物は近代的な建物もあるが、やはりキリスト教を意識させる感じの建物が目立つ。
校風は、オツムのできのいいお嬢様大学といった感じ。キャンパス内には、キリスト教的なノーブルさと上流階級のスノッブさが、複雑に入り交じった独特の雰囲気が漂う。同じミッションスクールであるライバル・津田塾(大学側はおおっぴらに宣伝しないが、チャペルがあるれっきとしたミッションスクールである)がキャリア系を前面に打ち出しているから、なおさら校風の違いが目につく。
場所は、西荻窪か吉祥寺からバスに乗っていく。徒歩だと20分くらいかかる。週末・祝日は西荻窪にJR中央線の快速は止まらないため、今日は吉祥寺経由で大学に向かった。内輪だけで盛り上がっている学園祭も少なからずあるが、この大学は近隣住民も積極的に参加している。家族連れも目立ったが、ひょっとしたらOGも旦那子供を連れてやってきているのかもしれない。キャンパス内の芝生はきれいだが、普段は中に入ることは禁じられている。学園祭ということで、芝生に入ってのんびりしている親子連れ、そこら辺を飛び跳ねている子供も多かった。
女子大学の学園祭なのにやたらと男子学生が目立ったが、これはおそらくサークルのつきあいだからだろう。ただし、彼女たちが相手にするのはほとんどが東大・早大・慶大・一橋・ICU・上智であり、それ以外の大学は「OUT OF 眼中」だそうだ。どこぞの展示サークルに「彼氏募集!!」と自分の顔写真を出していたのがいたが、上記に上げた大学以外は避けたほうが無難だろう。
「VERA祭」の由来は、ラテン語で「真実」という意味。本館にラテン語で「すべて真実なこと」と書かれており、学園祭の名前はそこから取られた。受付でパンフレット(1冊200円)を購入。他の大学より高いが、これはパンフレットの他にお土産と称するおまけが付いてくるからだ。ただこのおまけは私にとってどうでもいい物が多かったので、もったいなと思いつつゴミ箱に直行した。ゴミ箱に捨てたくなかったら、受付で見本があるかどうかを確かめた方がいいかもしれない。
展示物だが、はっきりいって昨年いった津田塾のほうが数段上。少なくても四ッ谷祭(慶応医学部の学園祭。ほとんど内輪でだべっているだけ)よりはマシだが、インパクトに欠けるのは否めない。ステージで何かイベントやっていたが、MCをやっていた学生達が自分たちで楽しんでいたという印象しかない。女子大だからだろうか、やたらと食べ物や喫茶店が目立ったし、茶道部・華道部の作品も多かった。別にそれが悪いとはいわないが、学術系の出し物が少なかったことに寂しさを覚えた。
その数少ない学術系の出し物が、サークル「第三文明研究会」。平和に貢献した女性達というタイトルの出し物を出し、並行して「私の平和宣言」なるものを展示していたこのサークルの正体は、創価学会信者の団体。創価学会信者は「東洋哲学研究会」だの「仏教研究会」という名前のサークルで積極的に進出し、昨年までは堂々と池田大作の名前と写真を部屋に飾っていたが、母体である創価学会の評判に対する風当たりを警戒したのか、今年は池田大作の「い」の字も出ていなかったのは、先日行った学習院と同じ。本部からの命令なのか、それとも本人達の意思によるものか。上の命令に絶対服従という体質を持つ学会員のことだから、上の命令と考えたほうが良さそうだ。唯一学会らしさを出していたのが、雑誌「Pumpkin」(潮出版社、この出版社も創価学会系)がおかれていたことと、学会のシンボルカラー「青・赤・黄」のビニールの飾りがあったことか。
学食は生協ではなく業者が入っており、購買部は通常通り営業していた。書籍部は私学・社会学系の本が充実していたが、理系の学科があるにもかかわらず、理科系の本がほとんどなかったのは残念である。
キャンパスは緑が豊かで鬱蒼とした森もあり、環境面では申し分ないものであったことを最後に付け加えておく。
一つの時代の終わり~さらば中東の不死鳥」
「中東の不死鳥」という異名を取った一人の男が、昨日静かに天国に旅立った。
男の名前はパレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファト、享年75歳。10月下旬、体調を崩してパリの病院に入院したが容態が急変し、ここ数日は危険な状態が続いていた。病院側は死因について「お伝えすることはなにもない。家族に伝えたことを明らかにしても、議長が回復するわけではない」としてこれを拒否しているが、一説には医療ミスとも、毒殺とも囁かれている。死因が明らかにされない以上、フランス側にチアするアラブ、特に過激派の疑念は消えないままだろう。
カイロに生まれた(といわれている)アラファト議長は、資産家の出身である。カイロ大学在学中に対イスラエル闘争に参加し、急速に頭角を現す。そして'74年にパレスティナ解放機構(PLO)議長に就任する。
たぐいまれなカリスマ性があったアラファトだが、その根元は命の危険を神懸かり的に乗り切る「強運」に支えられていた。イスラエル軍によるベイルート爆撃の際は爆撃7分前、チェニスで襲撃された時はその1分前に現場を離れた。'82年にはレバノン滞在中、イスラエル軍の狙撃手が車中のアラファトに照準を定め、まさに引き金を引こうとしたその瞬間、上官から「待て、撃つな」とストップがかかった。直前にPLOがアメリカの仲介した停戦交渉で、ベイルート撤退を受け入れたからだが、その時のイスラエル国防相だったシャロンが「あの時殺しておけばよかった」と悔しがったのは有名な話である。ベイルートで襲撃未遂事件が起きた時、アラファトは「窓の外に人影(イスラエル情報部員)がチラリと見えた」と語り、危機に対する常人場慣れした嗅覚で周囲を驚かせた。これは教わって身に付くものではなく、アラファトのカリスマ性をますます高めることになった。
「テロの親玉」といわれたアラファトが世界中から支持されるようになったのは、パレスティナ解放運動の指導者として、パレスティナ人から圧倒的な支持を受けたこともあるが、'74年の国連演説で「私は(平和の象徴である)オリーブの枝と自由の戦士の銃を持ってきた。私の手から、オリーブの枝を落とさないで欲しい」という演説の通り、交渉によって「和平」を選択しようという姿勢があったからだ。その和平の努力が実ったのは'93年。アメリカ・クリントン大統領の仲立ちで、不完全ながらも中東の歴史上画期的なものと評価されるパレスティナ暫定自治宣言(オスロ協定)に調印したことで実を結ぶ。翌年ガザに入り、そこで念願のパレスティナ自治政府を組織。同年、イスラエルのラビン首相らとともにノーベル平和賞を受賞。'96年1月のパレスティナ自治区選挙で、自治政府の議長に就任した。
しかし「ゲリラの指揮官」として最高の評価を得たアラファトも、行政官としてのそれは疑問符を付けざるを得ない。最大の失敗は、後継者を育てなかったことである。自治区の議長としても側近政治を跋扈させて政府を腐敗させ、民衆の失望を買った。’01年以降はイスラエル政府によって軟禁生活を送るなど、苦しい晩年だった。
外交面でも'95年、オスロ協定に調印した盟友・ラビン首相が国内右派勢力によって暗殺されたのは痛手だったが、哲学者エドワード・サイードの「アメリカ市民に直接働きかけてください。アメリカは世論で動く国です」という忠告を無視して「裏取引こそがすべて」という政治交渉にこだわった結果、メディアを駆使してアメリカ市民、特に聖書根本主義者を親イスラエルにし、パレスティナ人=テロリストという図式をアメリカ人の脳裏に植え付けるというイスラエルや親シオニスト勢力の戦略に敗北した。返す返すもサイードの忠告に従っていたら……と惜しまれる。
また、アラファトには5,000億もの資産があるといわれているが、これは各国政府がパレスティナ自治政府に援助したカネをちょろまかしたものだといわれている。しかもアラファト亡き後、このカネの講座を握っているのはスーハ未亡人だが、彼女の評判はすこぶる悪い。パレスティナ人が厳しい生活を送っているにもかかわらず、彼女自身はパリに住んで豪勢な生活を送っていたという。また自治政府幹部とスーハ未亡人との関係は極めて悪く、資産を巡って骨肉の争いを演じることになるだろう。
今日開催されたアラファトの葬儀には、全世界中から60ヵ国を越える首脳が弔問に訪れたが、宿敵イスラエルやアメリカや、この葬儀に閣僚級の高官を送らなかった。アラファトと対立していたこともあるが、今閣僚級の人物を送り込んでも不測の事態を招くだけという計算もあったに相違ない。
アラファト亡き後、中東情勢がどう転ぶのかははっきりいってわからない。だがいえることは、アラファトのようなカリスマ性を持った指導者は、二度とまでとはいわないまでも、簡単には出てこないということだ。パレスティナとイスラエルにはどんな未来が待っているのか、それは誰にもわからない……。
男の名前はパレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファト、享年75歳。10月下旬、体調を崩してパリの病院に入院したが容態が急変し、ここ数日は危険な状態が続いていた。病院側は死因について「お伝えすることはなにもない。家族に伝えたことを明らかにしても、議長が回復するわけではない」としてこれを拒否しているが、一説には医療ミスとも、毒殺とも囁かれている。死因が明らかにされない以上、フランス側にチアするアラブ、特に過激派の疑念は消えないままだろう。
カイロに生まれた(といわれている)アラファト議長は、資産家の出身である。カイロ大学在学中に対イスラエル闘争に参加し、急速に頭角を現す。そして'74年にパレスティナ解放機構(PLO)議長に就任する。
たぐいまれなカリスマ性があったアラファトだが、その根元は命の危険を神懸かり的に乗り切る「強運」に支えられていた。イスラエル軍によるベイルート爆撃の際は爆撃7分前、チェニスで襲撃された時はその1分前に現場を離れた。'82年にはレバノン滞在中、イスラエル軍の狙撃手が車中のアラファトに照準を定め、まさに引き金を引こうとしたその瞬間、上官から「待て、撃つな」とストップがかかった。直前にPLOがアメリカの仲介した停戦交渉で、ベイルート撤退を受け入れたからだが、その時のイスラエル国防相だったシャロンが「あの時殺しておけばよかった」と悔しがったのは有名な話である。ベイルートで襲撃未遂事件が起きた時、アラファトは「窓の外に人影(イスラエル情報部員)がチラリと見えた」と語り、危機に対する常人場慣れした嗅覚で周囲を驚かせた。これは教わって身に付くものではなく、アラファトのカリスマ性をますます高めることになった。
「テロの親玉」といわれたアラファトが世界中から支持されるようになったのは、パレスティナ解放運動の指導者として、パレスティナ人から圧倒的な支持を受けたこともあるが、'74年の国連演説で「私は(平和の象徴である)オリーブの枝と自由の戦士の銃を持ってきた。私の手から、オリーブの枝を落とさないで欲しい」という演説の通り、交渉によって「和平」を選択しようという姿勢があったからだ。その和平の努力が実ったのは'93年。アメリカ・クリントン大統領の仲立ちで、不完全ながらも中東の歴史上画期的なものと評価されるパレスティナ暫定自治宣言(オスロ協定)に調印したことで実を結ぶ。翌年ガザに入り、そこで念願のパレスティナ自治政府を組織。同年、イスラエルのラビン首相らとともにノーベル平和賞を受賞。'96年1月のパレスティナ自治区選挙で、自治政府の議長に就任した。
しかし「ゲリラの指揮官」として最高の評価を得たアラファトも、行政官としてのそれは疑問符を付けざるを得ない。最大の失敗は、後継者を育てなかったことである。自治区の議長としても側近政治を跋扈させて政府を腐敗させ、民衆の失望を買った。’01年以降はイスラエル政府によって軟禁生活を送るなど、苦しい晩年だった。
外交面でも'95年、オスロ協定に調印した盟友・ラビン首相が国内右派勢力によって暗殺されたのは痛手だったが、哲学者エドワード・サイードの「アメリカ市民に直接働きかけてください。アメリカは世論で動く国です」という忠告を無視して「裏取引こそがすべて」という政治交渉にこだわった結果、メディアを駆使してアメリカ市民、特に聖書根本主義者を親イスラエルにし、パレスティナ人=テロリストという図式をアメリカ人の脳裏に植え付けるというイスラエルや親シオニスト勢力の戦略に敗北した。返す返すもサイードの忠告に従っていたら……と惜しまれる。
また、アラファトには5,000億もの資産があるといわれているが、これは各国政府がパレスティナ自治政府に援助したカネをちょろまかしたものだといわれている。しかもアラファト亡き後、このカネの講座を握っているのはスーハ未亡人だが、彼女の評判はすこぶる悪い。パレスティナ人が厳しい生活を送っているにもかかわらず、彼女自身はパリに住んで豪勢な生活を送っていたという。また自治政府幹部とスーハ未亡人との関係は極めて悪く、資産を巡って骨肉の争いを演じることになるだろう。
今日開催されたアラファトの葬儀には、全世界中から60ヵ国を越える首脳が弔問に訪れたが、宿敵イスラエルやアメリカや、この葬儀に閣僚級の高官を送らなかった。アラファトと対立していたこともあるが、今閣僚級の人物を送り込んでも不測の事態を招くだけという計算もあったに相違ない。
アラファト亡き後、中東情勢がどう転ぶのかははっきりいってわからない。だがいえることは、アラファトのようなカリスマ性を持った指導者は、二度とまでとはいわないまでも、簡単には出てこないということだ。パレスティナとイスラエルにはどんな未来が待っているのか、それは誰にもわからない……。