読んだり観たり聴いたりしたもの -62ページ目

先週読んだ漫画 13/11/24-11/30

●紅茶王子 8-9巻/山田南平

体育祭でゲットした彼とは即座に別れたそめこ。彼女は自分も紅茶王子のような「守ってくれる人」が欲しかったのだ。そめこは満月の夜におまじないを繰り返す。そしてついに呼び出しに成功。登場した新キャラ王子「紅(ホン)ちゃん」は、またもやアッサムと据わりが悪い仲。母親に関して互いによく似た辛い体験を経ていながら、心ない噂の影響もあり、紅はそのやり場のない感情をアッサムに向けてしまうのだ。そんな彼らの確執と和解がこの2冊のメイン。二人のやりとりに右往左往する中でもどんどんとアッサムに惹かれていく奈子と、そんな奈子を見ながら冷静に振る舞っているようで時々自制が利かなくなる美佳。そめこは紅に恋しちゃいそうだし、恋愛模様のその後は気になるね。叔父の怜一が結構怪しい雰囲気を醸してきた。どうも人ではあらざるような気配…。


●テニスの王子様 9巻/許斐剛

対ルドルフ戦。不二兄弟の話がメインか。関東大会出場は決定。テンポが良く気を引く。


●やっちまったよ一戸建て!! 2巻/伊藤理佐

ようやく続き読む。2巻で完結。建てた瞬間、また建てたくなる家造りの魅力。七転八倒の迷いと不安、お祭り的なやっちまえ感がすばらしい。この作品中では、著者は苦労して「お一人様用一戸建て」を建てたわけだが、現在は吉田戦車と結婚して子供も居るようなので、また建てたい、という夢はきっと叶ったのであろう。

●ワンピース 4巻/尾田栄一郎

最近妻が読み返しているので、ご相伴。やっぱり安定して面白いね。ワンピースは以前50巻超を揃えていて既読だが、飽きて全て売り払った。なので、こつこつ図書館で借りて読んでいる所。筋とか結構忘れてるな-。逆に楽しみが増えて良い塩梅だ。

PS4/発売前先行試遊会@なんばへ行ってきた

と言う事で、なんばパークスの地階の、屋内のはずなのに吹き抜けで暖気が全て抜けてゆくという煙突構造の広場で寒風に震えながら体験してきた。

こぢんまりした会場で、PS4試遊5タイトル14台、VitaTV2台、という規模。
長蛇の列という訳でもなく、がらがらという訳でもない、ちょうどよい群れ具合だった。

VitaTVを触れたのが良かった。rajikoの予約機能が便利そうで興味を引いた。GOD EATER2をプレイしたが、会場設計者が苦心の末上手く隔離して設置したPS4の画面と比べても、画質の差ははそれほど気にならなかった。

PS4の画像表現能力は、実際見てみると、確かに1段違うな、と感心する。
が、一般の人々にとってはどれほどの印象か。PS3ゲームの映像や、人によってはWiiなどSD機の映像と比べても、脳内再生される美化された記憶とのギャップはそれほどは感じないのではないか。deep downを体験したが、これがDragons Dogmaと比べてどれほどの違いがあるか、一瞬で読み取れるのは修練を積んだゲーマーだけだろうと思う。もちろん、歴然たるクオリティの差があるわけだが、それはゲーム上必須の要素であるかどうかは分からない。逆に、精緻に醜悪さまで表現されたモンスターの、その攻撃モーションが毎回全く同一であることに、高詳細故に「違和感」を感じてしまう。そうした方面への配分があっても良かったのではないか。
もちろん仮想現実としてのリアリティへ向かって突き進むことがゲームの進化だとは限らない。が、見てくれだけに突き進むことも、また違うだろうと思う。
そうした意味では、表示できる雑兵の数が増え挙動が増えました!という、真・三國無双7が、この会場ではもっとも最新鋭機の恩恵を「ゲーム」として受けているのかもしれないと思った。

本体は我が家のPS3より小さいぐらいの印象で、なるほど変態設計を廃せば最初から小型化も可能なんだな、と感心した。
コントローラのDS4は、持った感じはDS3とほぼ変わらない印象。何の違和感もなく操作できる。タッチパッドは、結構便利に感じた。ただ、どの指を使わせるのか、ゲームシステムの設計次第だと思う。

年内予約すれば、ナックが無料でついてくるキャンペーンをやっていたので若干心惹かれたが、多分、現状のソフトラインナップでは早々は購入しないだろうと思う。
PS3ソフトがダイレクトに起動しないという仕様はもとより、PS3からPS4へのバージョンアップに伴いリジェクトされた本体機能なども勘案すれば、ゲームラックでの併設はかなり高い障壁だ。
むしろ、この壁を易々と突破してくれるゲームが登場することを切に願うわけだが。

3DS/SDメモリカード増量交換 その2

以前、3DSのSDカードを交換したエントリを書いたのは、体験版がスタートした頃なので、すでに2年近く前の話となる。月日がたつのは早いものだ。

当時、コストパフォーマンスを鑑みて、容量は16Gを選定した。これが満タンになった際には、その時までに技術進歩で安くなった32Gを買えばいい、という作戦だった。

そして、その時がきた。
基本的に可能な限りゲームはDL版を購入するというポリシーと、体験版は必ずDLしてしかも消さずに保存しておく、という習性があいまって、一昨日とうとう16Gを使い切ったのだ。

そこでさくっと32Gを購入。今回選定したのは、Sundisk、SDSDX-032G-JAZである。
さらに上位のカードもあるが、3DSが生かし切れなければ意味が無いしコスパを勘案した。

移行手順は前回と変わりなし。16G→PCへの読み込みが約10分。PC→32Gへの書き出しが約40分だった。使用したのはBSCR12U2BKである。これだけ時間が掛かるならUSB3.0のを買おうかとも思うが、毎日する作業というわけでもないので、まあいいだろう。なお、実データサイズはWin上で14G少々だった。

さて、データ移行が上手く行き、空き容量が12万ブロック追加されたのは当然として、速度的なところはどうだろう?
実測はしていないが、今回はかなり、体感上早くなったように思われる。特にセーブが顕著で、セーブ中アイコンが消えるタイミングが明らかに早い。20%程度は時短された模様。
これは良い買い物をした。

と言う事で、ホリデー向けに大量に出てきた体験版を早速DLした。あとは、これをプレイする時間があればな…。


WiiU/スーパーマリオ3Dワールド/任天堂

発売日にDL購入。
今回はeShop直ではなく、ヨドバシオンラインでダウンロード番号を購入して10%ポイントをゲット。

3Dマリオ、やっぱり楽しいね。
妻も、「またマリオ?」とか言って食指が延びない風だったが、いざプレイするとかなり楽しんでいる様子。

前作にあたるマリギャラでも、いわゆるバディプレイができた訳だが、やっぱりきちんとプレイヤーキャラとして参加するのは違う。
特に今作では、FFというか、初代マリオブラザーズのように足の引っ張り合いもできる仕様となっているため、うっかり砲台帽子で吹っ飛ばしたり、うっかり持ち上げて敵陣ど真ん中や崖下へ投げてしまったりと、はらはらする事が多い。プレイスコアが復活し、コース完走時には各プレイヤーの得点発表があるため、もろに妨害で狙っていくプレイも楽しめるだろう。
実際、先日ちょうど義弟が遊びに来て、その時に3人プレイをやってみたが、かなり面白かった。比率で言うと、プレイヤーが一人増えるたびに4,5倍は面白さが増している印象。オンラインがあればなあ…。

二人プレイでの印象では、難度は低めかと。さくさく進んで今はW5。
またやり込んだら感想を書こう。

任天堂
スーパーマリオ3Dワールド

Wii/WiiUへの引っ越し

WiiフィットUがきてからもう1ヶ月になろうとしている。
また、近いうちにフィットUの感想も書いてみよう。

さて、話はさらにさかのぼるが、WiiフィットUをプレイする前に、片づけておかねばならないことがあった。
それは、WiiからWiiUへの引っ越しをするのかしないのか、いい加減に決めることである。

WiiUのWiiフィットUは当然、Wiiフィットからデータが引き継げる、とのことである。
色々と設定を弄ってみたり、セーブデータをコピーして調べてみたりした結果、この引き継ぎには、多分、引っ越しは必要ないだろうと思われた。単に、SDカードでWiiフィットのセーブデータをWiiメニューにコピーしておくだけで良いはずだ。が、しかし、諸条件を勘案した結果、結局引っ越しを行うことにした。

まず、WiiとWiiUを並行使用すると、リモコンのペアリングを切り替える必要があって、非常にめんどくさい、という点。各本体4本ずつリモコンプラスを用意すれば使用前のペアリングは不要だが、まあ現実的ではない。

そしてセンサーバーの問題もある。2本のセンサーバーを重ねてテレビの上に設置するのはいかにも間が抜けているし、かといって、電池式のサードパーティのセンサーバーを使用するのも何か気持ち悪くてスッキリしない。であれば、どちらかの本体に繋いだセンサーバーを共用するしかない。しかし、繋いでない本体でリモコンのポインティング機能を使用する場合には、繋いだ方の本体も電源を入れる必要が出てくる。通常使用頻度の高いWiiUにセンサーバーを繋ぐだろうから、Wii使用時にはWiiUも電源を入れねばならない。これは面倒である。特に、先日のWiiUの本体更新により、センサーバーへは常時給電ではなく、リモコンが使用されている間だけの給電に方式が変更になった点が致命的だ。リモコンは5分間触らないと自動で電源が切れる。つまり、Wiiのリモコンで遊ぶ時には、WiiUのリモコンのボタンを5分おきに押さねばならない、という実に現実的でない運用となってしまう。

さらに、WiiもWiiUも、ダウンロードソフトやセーブデータなど、バックアップの取れないデータ・他の本体では稼動しないデータがあるというリスクを背負っている機器であるという点。例えばスマブラXのセーブデータなどである。つまり故障の際には、別途本体を入手して置き換えて完了とできず、任天堂に修理に出さねばならない訳である。Wiiを引っ越しすれば、こうしたクリティカルな機器が1つ減る。中古のWiiなど、何でも良いならばいくらでも安く手に入る。

最後に、今後のWiiUの本体更新によって、Wiiソフトも、ゲームパッドだけてプレイできるようになる可能性に期待した。実際、更新によってWiiゲームを、ゲームパッド+リモコンで遊ぶことが可能になった。もう一息である。

引っ越し自体の手順や注意点は公式や各種まとめサイトに詳しいのでばっさり割愛。

2つだけ注意点を挙げるなら、まず、公式には「引っ越しできないソフトは、引っ越し後も引き続きWii本体でプレイすることができます。」とあるが、これは正確ではない。なぜなら、似顔絵チャンネルからごっそりMiiも引っ越して「移動」してしまうからだ。似顔絵チャンネルは初期化状態となる。つまり、他のソフト、例えば投票チャンネルを起動すると、表示するMiiがいない、という状況になってしまうのだ。Miiだけコピーして戻そうと思っても、WiiUのWiiメニューの似顔絵チャンネルは機能がスポイルされており、Miiをリモコンにコピーする機能がない。これはとても「引き続きプレイする」という状態じゃないね。実際、この引っ越し作業を行うことは、Wiiに対しては「初期化」と思っておいて間違いないだろう。Miiも本体保存のセーブデータも、ごっそり無くなって秋風吹くが如しである。もちろん、コピー可能なセーブデータは、予め取っておいたバックアップからSD経由でWiiに書き戻し、Wiiで引き続きWiiソフトをプレイすることは可能だ。しかし、WiiUに引っ越した後ではそのような行為にはあまり意味がない。唯一意味があるのは、GCポートを使うファミトレやDDRなどのソフトのプレイだけだろう。
また、WiiからWiiUへ引っ越しできないソフトが存在する点も意識したい。該当するのは初期チャンネルや特殊ソフトなどで、ここ で一覧が見られるが、実は一覧に記載されていないが引っ越しできないソフトが存在する。それは各種体験版である。体験版は、購入履歴も抹消され、どう頑張ってもWiiUへは持って行けないのであきらめよう。

3DSでもそうだったが、引っ越しと来ればピクミンである。近未来的な無機質な構造物の中を、引っ越しデータを持ってピクミンが移動する様子を眺めているのは、いちいち運んでいるセーブデータのゲーム名を表示してくれる仕様も相まって、とても感慨深いものがあった。
引っ越しの、例えばショッピングチャンネルの購入履歴の同期も、ネット経由でなく、SD経由のようであった。これは恐怖である。データをSDに書き出した後、Wiiの履歴はクリアされる。つまり、SDに書込が失敗していたり、WiiUでのSDの読込が失敗すれば、全てパーという事である。頑張って取得した、手助けキャンペーンの報酬、計268本のVC購入権が吹っ飛ぶのは辛い。WiiUで購入履歴の移動が完了した瞬間、ホッと安堵の息を吐いた。なお、VCは実際にDLしていなくても、ショッピングチャンネルに履歴さえあれば、WiiUのVC購入時の割引はキチンと認識される。

ところで、WiiUでWiiソフトをプレイすると、一旦Wiiメニューを起動する手間を除けば、Wiiゲームのローディング自体は、Wiiより若干速いようで、これは非常にメリットである。Wiiメニュー自体の起動高速化は今後十分に期待できるので、WiiUでWii、というプレイは意外と快適かも知れない。

引っ越し後のWiiは撤去とはならず、「D出力可能な安価なGCプレイヤー」として第二の人生を送ることになる。残念ながらWiiをGCコンで起動することはできないので、リモコンを1本だけWii専用としてペアリングして残しておき、そこにクラコンを繋いでおく。すると、センサーバーが無くても、クラコンのアナログスティックでGCを起動する操作が可能となるので非常にお勧めである。GCコンでWiiメニュー操作ができれば大変スマートなのだが、もはやWiiの製造が終了したような時期にきては更新されることはないだろう。

これまで使用していたSDカードも整理して、Wiiで使えるソフトだけを残した。
結局、Wiiに残った物は、伝言板のデータとチャンネルと体験版のみである。24系のチャンネルは軒並み使用停止になっており、現在では起動できるのは投票ぐらいだろうか。各チャンネルのセーブデータはSDにバックアップしてあるのでその点は問題ないが、起動しようにもまずMiiを作らねばならず、多分、もう起動することはないだろう。
体験版のソフトは、すでに配信停止しており再受信はできず、また引っ越しもできず、バックアップを他のWiiへコピーして使用することも当然できない。このWiiでしか使用できないデータである。この点だけが、このWii本体の代替を阻むポイントだろう。

今後、GC用のD端子ケーブルを安価に入手できた際にはWiiの撤去もあり得るが、当分はこのWiiがGCプレイヤーとして活躍することだろう。
ともあれ、一つの時代が過ぎ去ったようである。

先週読んだ漫画 13/11/17-11/23

●紅茶王子 5-7巻/山田南平

3年に一度、姉妹校三校による合同体育祭というビッグイベントを軸に展開される3冊。加速的に面白くなってきた。イベントは学園生活の華だろうが、実在する体育祭をかなり忠実にモデルにしたというこのイベントの壮大さはすごい。ストーリーの肝としては、奈子にちょっかいを出す存在が現れる→美佳やアッサムが全力でガード→奈子がアッサムを意識し出してしまう、という事で多角関係勃興でラブ密度が高まったきた。そんな中、そめこの突然の彼氏ゲット宣言に周囲は!!!、というところで引き。8巻も楽しみである。おまけページに触発されて紅茶の淹れ方にいろいろ工夫をするようになった。


●テニスの王子様 8巻/許斐剛

Wiiスポーツクラブでテニスをごりごりやっている事もあり、読んでいて割と楽しい。しかしブーメランは無理だろ。一瞬でさくっと読めるのは、積み漫画を抱えた身にはありがたい。


●テルマエ・ロマエ 4巻/ヤマザキマリ

読み切り構造から変化して、しかもヒロイン登場と変貌を遂げた巻。美貌の古代ローマオタクというご都合キャラだが、ルシウスとの恋物語に持ってゆくのだろうか。次巻に注目。個人的には嫌いではない。さつきには、ぜひ逆に古代ローマに飛んでもらって、ワーキャー言ってほしいところだ。で、骨を埋めると。あるいは、時間の壁が引き裂いた悲恋に持って行って、ルシウスが残したメッセージをいずれ発掘するさつき、というパターンでもいいかな。


●銀河鉄道999 4巻/松本零士

絵柄と展開のパターンに飽きてきたかも。5巻は読まないかも。


●パタリロ! 21巻/魔夜峰央

この巻は読んだことあるような無いような。記憶が定かで無い。まあ、内容は順当で面白かった。
マライ比の肉親の設定って何だったかな。これだけ記憶があやふやなところをみると、多分20巻以降はあまり読んでないな。と言うことで、逆に楽しみである。

Vita/PlayStation Vita TVの購入検討 続報

以前のエントリ で、1ヶ月ほど前にVitaTVの購入検討をした際、機器認証台数の「2台」というのがネックになっている点を書いた。

そうした理由もあり、結局その後まだVitaTVは購入してなかったのだが、その間に動きがあったのでメモ。

なんと、VitaTVの発売に合わせ、PSP/Vita系での機器認証台数が3台に変更されるという。
11/4付で発表があり、対応実施時期は今のところ未定だが、そう遠くはないだろう。
PS Vita TVの機器認証台数は?

PSP→Vita→VitaTVと購入してきたユーザに対する処置だろう。順当である。

この変更は大きい。
と言うことで、この機器認証台数の拡大が実施された暁にはTVの購入に踏み切ろうと思う。

君の銀の庭/Kalafina

と言うことで、「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語 」を観たその日に購入。すばらしい映画の、感動の頂点を極めるシーンにふさわしい名曲「君の銀の庭」および挿入歌「misterioso」、そしてオリジナル「追憶」の3曲入り。君の銀の庭のインストも。
購入からずっとリピートしているが、いいね。飽きない。

まどマギは、いわゆる魔法少女アニメとは一線を画す作品だと思うが、ぱっと見はもちろん、べったりと魔法少女アニメである。TVシリーズのオープニングテーマ、大ヒットしたClariSの「Connect」の印象は、そうした魔法少女アニメとして直球だと思うし、初期のエンド曲に至ってはむしろ女児向けといった気配。
しかし、見た目と裏腹に重厚なテーゼを宿すこの作品の本質にふさわしい曲と言えば、やはり中盤以降のエンド曲である、Karafinaの「Magia」なのである。この曲を最初に聴いたとき、まだ、まどマギの本質が分かっていなかった私は、合わないな、と違和感さえ感じた。重厚で暗く焦燥感さえ漂う楽曲は明らかに場違いな印象を得たのだ。耳に心地よいClariSに比べ、聴くこと自体にパワーがいるような曲調。しかし、何度か聴く内すぐに曲の素晴らしさに惹かれ、そして、Magiaこそが、まどマギの本当の主題歌であることを理解した。

そのずっと気になっていたKalafinaが歌う映画のエンド曲「君の銀の庭」は、実に不思議な曲である。
映画のラストで初めてこの曲を聴いた私には、もはや、まどマギから離れて、この曲単体で聴いた際の印象や感想を想像することもできない。明るい三拍子の曲である。ハープシコードとバンドネオンが奏でるようなのどかな旋律は、明るい日差しの「庭」を感じさせる。しかしリズミカルに淡々と紡がれる詩の言葉の一つ一つに、「静かに寄り添って 何処にも行かないで」といった、まどマギの世界をほむらの視点から描いたような、沁み出すような哀しさ、寂しさ、渇望を感じずにはいられない。太宰のいう滅びの明るささえ感じさせる。今や、私にとっては、まどマギという作品自体を象徴する曲である。

一方で、映画挿入歌の「misterioso」は、まどか視点でのまどマギのテーマ、という事になるだろう。ストレートに裏表のない、希望を信じて前を見つめる意思は、まどかにふさわしい印象である。

静謐さから一転重厚な和太鼓のような迫力を見せる「追憶」もすばらしい楽曲だ。

Kalafinaって何者だ?と調べたところ、作曲家の梶浦由記が率いるボーカル三人組のようだ。梶浦由記はアーティストへの楽曲提供も多く、TV、アニメやゲームの音楽を手がけることも多いようだ。既プレイではダブルキャストの音楽を担当したらしい。

すっかりファンになったので、次はMagiaが入っているアルバムを入手しようと思う。

Kalafina
君の銀の庭

劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語

上映していることは知っていたが、まあどうすっかな~と煮え切らずにいた。先週末、急に思い立って観に行ってきた。
結構好評(?)らしいという噂を聞いたのと、あとは、フィルムで一攫千金を目指したのである。

妻と併せて2枚もらった来場者特典のカットフィルムは、シーンも絵的にも良いものだったが、キャラが小さいため値段はいまいちそうな感じで惜しかった。

ということで、感想を書いておこう。
もちろん完全にネタバレしているので、観るつもりで未見の人は読まないように。

この映画は、TVで放映され一世を風靡したアニメシリーズの続編にあたる。
「その後」のお話が描かれるという触れ込みである。

TVシリーズは春頃にDVDで一通り観て、非常に感銘を受けた。
しかし、こちら でも書いたが、とくにほむらの背負う宿命など、完結した物語としてしまうには釈然としない部分を確かに感じてもいた。それがこの映画で解決されるのだろう、と期待していた訳だ。

結論から書こう。
期待以上の内容で実にすばらしい映画だった。
美術や音楽が美しく、演出が巧みなのは本編同様であるが、何よりそのストーリーと提示されるテーマの描かれ方が良かった。特に加速的に展開する後半シーンの合間に差し込まれる、少女達の切ない思いの丈に、幾度胸を刺されて目頭を押さえたことか。その集大成であるエンドロールの演出では、ほむらの想いの深さに、頬を伝う涙を禁じ得なかった。
シュタゲ映画のエントリでも書いたが、そちらと同様、もちろんこの映画も、この映画だけ観てもなんのこっちゃになるタイプである。本編を観て、その足で映画館に行かなくては何の意味も無いだろう。しかしそうした「予習」を前提とするだけあって、わずか2時間で得られる感動の密度としては、普通の映画の比ではない。こうした構造は、映画の一つのあり方として非常に有望であると思う。

ただ、同時にあれっと思ったのは、シュタゲの時は周囲ですすり泣く気配がパラパラと感じられたのに、まどかでは、そうした気配をあまり感じなかった点である。特に、ラストの付近では顕著で、マニア受けを狙いすぎた展開に一般からはやや引かれてしまったような空気をわずかに感じた。

あらすじはこうである。

冒頭から展開されるのは、魔法少女達の世界。平和な日常に夜な夜な現れるナイトメア。人の悪しき感情が具現化したその怪物は魔法少女達によって退治され、世の平和は守られていた。見滝原の街を守る魔法少女である、まどか、さやか、杏子、そしてマミの4人。さらには転校してきたほむらを加え、魔法少女達は、使命を果たし、充実し幸せな日常を送っていた。
でも。何かが違う。何かがおかしい。募ってゆく違和感を無視できないほむらは、隠された真実を求めはじめる。
徐々に浮かび上がってくる真実の記憶の断片。この世界は現実ではない。まどかがその存在と引き替えに生み出した魔女のいない世界。それを覆い隠すようなこの虚構の世界。まどかの思いを踏みにじるかのような陰謀を、ほむらは見過ごすことができなかった。危険に身をさらし、仲間を傷つけてでも、真実に迫ろうとするほむら。どこかにこの茶番の裏で糸を引く魔女が存在するはずだ。
やがて明らかになる残酷な真実。
この仮構を生み出した魔女は、ほむら自身であった。厳密に言うなら、ソウルジェムが穢れきって魔女になる寸前のほむらである。
本編で描かれたとおり、まどかの願いによって世界からは魔女が消えた。魂が穢れきり、呪いの存在である魔女に転身する直前、魔法少女達は宇宙にあまねく存在する神となったまどかによって救済され、魔女とはならずに消滅するのだ。奇跡によりほむらはそうした世界に変わる前のまどかとの記憶を保っていた。しかし、記憶を持つほむらを除いて、この円環の理と名付けられた現象の原理を知る者はいなかった。それは、魔法少女からエネルギーを回収しようとする外宇宙の存在であるキュウべえ達インキュベーターも同様で、全く未解明の謎であったのだ。キュウべえは円環の理を観測するため、一つの実験を設定した。穢れきったほむらの魂が円環の理、つまりまどかによる救済を受ける直前、ほむらの魂の本体であるソウルジェムの周囲をあらゆる干渉を無効にするフィールドで囲ったのだ。こうしてまどかによる救済を受けられないほむらは、自身の生み出した偽りの夢の世界にたゆたうことになったのである。しかし偽りの世界であってもすべての要素が空想なのではない。その世界には、ほむら自身の願いより、フィールド外部から招き入れた実体も存在した。そこに存在するまどかも、ほむらを救済に訪れ、しかしフィールドの作用によって記憶も目的も失い、ほむらの紡ぐ夢に住まう、まどか本人なのであった。
真実と記憶を取り戻し、夜の花園で、まどかとの「再会」に涙するほむら。しかし、神となる決意の強さと裏腹に、一切の人々との別れという宿命を嘆く切ない少女としての本心を吐露するまどかの言葉に、ほむらは息をのむ。自分がこれまで行ってきたこと。まどかの生み出した世界を、そしてまどかのその願いを守るために戦ってきた日々。しかし、それは彼女の本心にすこしも近づくものではなかったのだ。ほむらを救うため神になるというまどかの決意。そこに隠されたまどかの心を自分は見抜けなかった。やはり、あのとき止めていればこんな事には…。ほむらはある決意を固める。
インキュベーターの張ったフィールドに包まれ、ほむらは自身の生み出した無間地獄にとらわれている。ここから抜け出すには、まどかに真実を告げ、円環の理の救済を受ければ良い。しかし、それではまどかの存在がインキュベーターに「観測」されてしまう。まどかの存在を知った奴らは、観測し、解析し、そしてまどかに干渉し、やがては制御するようにさえなるだろう。そんな未来は断じて認められない。ではどうするか。
ほむらは魔女化する道を選んだ。救済を拒否し、魔女となり、仲間に討たれて消滅する。こうすればまどかの存在をインキュベーターに観測されることはない。呪いに身を任せ魔女化するほむら。もう、輝きと後悔しか思い出せない。しかし、そんなほむらの想いをうけ、仲間たちは彼女の救済を目指す。激しいバトルの末、魔女化したほむらを抑え、ついにインキュベーターのフィールドを打ち破る。
一転した静寂の世界。フィールドから解放され、すべてを思い出したまどかが、穢れきったソウルジェムとともに眠るほむらの救済に訪れる。像が引く車を従え、花の咲き乱れる道をたどりやってくるまどか。いや、元まどかであった神。手がさしのべられ、今まさに、ほむらはまどかによって救われ、まどかと一つになろうとする瞬間。
この瞬間をほむらは狙っていた。
まどかが神になった際に彼女から譲り受けた魔力。その魔力に限界まで宿した穢れのエネルギー。それらをすべて解放し、ほむらは「もう一つの存在」を目指す。
誰の記憶にも残らず、誰にも認知されない神となったまどか。そんなまどかを感じ、まどかに干渉し、まどかとともに存在し、まどかから特別な認知を受けるもの。そうした存在となるべく、ほむらは世界の構造を再構築した。
永遠の存在であるまどかと共にあろうとするなら、少なくとも同等の存在にならなくてはならない。そしてそれはまどかとの合一によってなされてはならない。まどかと並立し、対となる存在になること。
神の意志にあだなす者、それを悪魔と人は呼ぶ。まどかへの愛故に、ほむらは悪魔へと墜ちた。
ほむらは、まどかの願った世界の構造を破壊し、神であるまどかから奪ったまどかの記憶をもとに、自身が生み出した新しい秩序の世界に、まどかをまた人として存在させた。
ほかの何を失おうと、結果としてまどか自身の願いを妨げようと、いつの日か、まどか自身と争うことになろうと、ほむらは、まどかのために、そしてほむら自身のために、この叛逆の道を選んだのだった。
…というようなところである。

魔女となったほむらが、まどかの救済を受け、まどかと一つになる、というところで上手いことまとめてハッピーエンド?みたいな形にしておけば、多分、一般受けは上々だったのではないか。
だが、そこで妥協しなかった制作者には賛辞を送りたい。ここまで描ききることで、一人まどかの存在だけが突出し本編では不安定だった構造が安定を見るからである。

キュウべえには全く「理解できない」このほむらの「愛」という感情。これこそがエネルギーの源泉である。愛とはすなわちエゴに他ならない。何の理由も合理性もないこと自体が、その想いの存する理由そのものであるのだ。無私の愛とは、私そのものである、ということだ。これがこの叙事詩の第一のテーゼであろう。

もう一つの柱は、人とは記憶である、という事。まどかを記憶するのはほむらだけである。ほむらが消滅すること、すなわちそれはまどかが本当に消え去ることを意味する。しかし、まどかは未来永劫魔女を救済し続ける存在として存在そのものをやめることはできない。ゆえにほむらはそこから、まどかだった記憶だけを自分の世界へ奪ったのだ。しかし、ほむらが新しく創造した世界のまどかは、真っ新な記憶のまま、何も知ることはない。では、本当の「まどか」はどこにいるのだろうか?ほむらが奪ったまどかの「記憶」はどこにあるのか?それは、多分、強大な悪魔の力を宿す、パワーアップしたほむらの新生「ソウルジェム」に、ほむらの魂と共に閉じ込めてあるのだろう。その、禍々しく強大な力を暗示させるソウルジェムを、ほむらが喜悦を浮かべて愛でる様を見よ。この物語を通じて「愛」とはもちろん形而上の純粋な理念であって、性愛といった形而下に引きずられるそのサブセットにとらわれることはない。それが主人公達がすべて少女である理由でもある。しかし、このシーンだけ、まどかの「記憶」を宿したソウルジェムを愛でる行為の描写は、いかにもエロティックで性愛をイメージさせずにはいられない程だ。ともあれ、ほむらが愛するまどかとは、まどかの「記憶」、つまり過去に存在した「まどかの軌跡」、もっと言えば「まどかとほむらの相互認知の軌跡」なのである。これが第二のテーゼだろう。

夜の花園で静かにゆっくりと語り合う、ほむらとまどか。
まどかがいて、ほむらがいる。ほむらが望んだものは、ただそれだけのささやかな幸福である。
終盤のシーン。その花園に、今はほむら一人が佇む。茂みの物音に飛び上がるほむら。現れたのはキュウべえ。キュウべえを半殺しにし、微笑みを浮かべてソウルジェムと戯れるほむら…。そして終劇。
インキュベーターによって引き裂かれた、ささやかな幸福を取り戻すために、文字通りほかの全てをなげうった。ほかの全ての人の思いを踏みにじった。自らを傷つけ、世界そのものさえ破壊した。
そこまでせざるを得ないところへ追い込んだ原因であるキュウべえ達インキュベーターに対する恨み。後味の悪い棘の残るシーンをわざわざ持ってきてまで、ラストシーンで表現したかった、ほむらの心の暗所。人はいつでも環境に翻弄され打ちのめされてきた。完全に立ち直ることも、受け入れることもできないのだ。
では、悪魔に身をやつしたほむらは、「悪」そのものなのだろうか。そうではない。
まどかを救うために、その他一切を犠牲にすることをはばからないほむら。しかし、陰謀を暴こうとした時にマミと死闘を繰り広げ、その際ほむらはマミの急所を狙うことをためらった。敢えて言うならそれは弱さである。その弱さを持ちながら全てを投げ打つほむらの想いの深さがひときわ沁みるのである。
神と並ぶもう一端の全知の存在となったはずのほむら。そのほむらが、何故茂みの音ごときに驚くのか。そこに、ほむらは何を望んだのか、この特別な場所に現れるべき何を恐れたのか。ほむらは、まどかが現れることを、まどかが全てを思い出すという起こりえない奇蹟を望み、そしてそれが意味する、善悪の対決という全ての終わりを恐れたのだろう。世界を統べる力を手にしながら、ただ一つの存在を求めて打ち震える弱き魂の姿。

ほかに印象深かったシーンをいくつか。

まず、ぱっと見てぞわっとしたのが、べべである。この世界が何かがおかしい本当の世界ではない事は最初から観客には分かっている訳だが、そこへ登場するのが、マミと、マミを食い殺したはずの魔女である。そして蕩々と語られるその絆。これは上記とは逆に、赦しの象徴であろう。その意味にゆっくりと思いを巡らすと深い意味合いに感嘆する。

そして個人的には本編で一番かわいそうだった杏子。さやかという友達ができたと思った瞬間、それを失ってしまっていた。劇場版では、戦いの中、わずかな間を縫って伝えられる、杏子とさやかの互いへの想い、そっと握られた手。このすばらしいシーンにも涙した。

とくに楽曲がすばらしかった。エンドロールの三拍子の名曲「君の銀の庭」など、詩の内容も深くシンクロしていて本当にジーンとした。ほむらの心の内を表現し尽くして余りある。早速CDを購入したほどである。

この映画は、とにかく複雑な構造で、一度観ただけでは、多分、その表現の半分も意味をつかめないのだろうと思う。つまりマニア向け、という事である。何度も何度も視聴して、こつこつ意味を発見していく楽しみがあるのだろう。逆に言えば、私のように1回観ただけならば、このエントリのように、てんで見当違いであっても、自由に解釈を妄想する余地が多数あるということでもある。故意にきれいにすっきりとは終わらせてないので、誰でも多少は、何故?、何がどうなった?と考えずにはいられない作品だろう。
傑作であることは間違いないし、上手い作りだと思う反面、多分、そういうのは一般受けしないので大ヒットはしないだろうとも思う。

機会があれば、ぜひ、もう一度じっくりと観たいと思う。

劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語

先週読んだ漫画 13/11/10-11/16

●神童 2-3巻/さそうあきら

すばらしい作品だった。慣れてしまうと実に味わいのある絵もよかった。うたの背負う悲しい運命も、本人のそのとらえ方を含め、決して無理してお涙頂戴にしていないところが良かった。音楽は命!失うくらいなら死ぬ、みたいな嘘っぽいことをやられると興ざめだったろう。決して軽視できるようなものではないし、うたには深刻な影響を与えることは間違いない。それでも、人生という実践の中で、乗り越えられる障害として実に自然に描かれている点が新鮮だった。和音のサポートやうたと通い合う想いの描写もすばらしい余韻を与えた。


●まなびや三人吉三 4巻/山田南平

マイナーすぎてどこにも売ってなかったので入手に時間がかかった。この4巻で完。ふと気づいたが、山田南平はどことなく、楠圭を彷彿とさせるような。大変すばらしい筆致で好きな作品だが、掲載誌と読者層を考えると、さぞかし受けなかったことだろうと思う。主人公やぁや達のキャラや言動やストーリーに目がいきがちだが、そもそも学園における三人吉三とは何の意味があるのか?という設定について作者は最後につまびらかにしない。思うに、この作品は、特殊な小社会としての学園と、教師という存在の意味、そしてその職責と喜びを、ぎゅっと圧縮してパロディにしたものではないか。日々成長する少年少女、まなびやという土壌に受け継がれてゆく無形の何ものか。そのすべてをつぶさに見て、時に触れて、ともに分かち合う存在としての師。代表作の紅茶王子を読んでいても感じるが、作者は、学校、という空間が本当に好きなのだろう。


●極楽 青春ホッケー部 14巻/森永あい

と言うことでようやく最終巻を読了した。チロルのエピソードは良かったね。もちろんどこかの鞘に収まることもなく、展開だけ匂わせて、キャラ総出でドタバタのままエンド、という普通のパターンである。それで良かったろう。初期に比べ、中盤以降は、ハナのインパクトに比して泉のキャラが弱すぎた点が難点か。もう少し特異さを出せたら盛り上がりがあったように思う。結局最後まで1勝もできなかった異色のホッケー漫画は、食欲と睡眠欲の重要さを説いた佳作であった。客観的評価としては何度も読むような作品ではないだろう。個人的には好きだが。


●ダンディーとわたし 1巻/山下和美

拾い本ストックから妻のおすすめで読み始めた。大変面白い。好感度ナンバーワン俳優片岡平助の恋人モモ子は、辣腕マネージャ。ただし、平助のマネージャではない。モモ子は、彼を敵視している好感度ナンバー2のお笑い芸人のマネージャなのである。というすれ違いラブコメディ。絶対に世間にも誰にも公表できない禁断の愛、というシチュエーションから始まって、中盤では、失いそうになる愛を守るため、平助は世間に恋人を公表して芸能界を引退。俳優業がそれほど好きではない平助は、実は家事が大好きで、主夫に憧れていたのだ。モモ子を主人と立て家事一切を切り盛りする充実した日々。しかしモモ子に横恋慕する芸人の陰謀で超多忙を極めるマネージャ業に、二人で過ごせる時間は減るばかり。モモ子との時間を取り戻すため、平助は芸能界復帰を宣言し…。というような話。やっぱり「自分」というものを持った人物、平たくいうと変人を描かせると山下和美は上手く味を出す。今後にも期待。

●ナルト 43巻/岸本斉史

サスケとイタチ、その因縁がここに幕を下ろす。最後に舞台に立っていたのはサスケだった。しかし、舞台を演出したのは死んだイタチであった。優しい兄の仮面をかぶり、肉親と一族を抹殺した裏切り者。兄を憎むことでサスケは生きてきた。いや、生かされてきた。マダラによりつまびらかにされるイタチ、そしてうちは一族の苦難。忍びの掟よりも重い、里のすべてより重い、最愛の弟。それを守るために、自分自身を含めすべてを犠牲にするイタチの覚悟。今初めてサスケは兄の真の愛を知る。そしてそれは、自分がかつて何よりもよく知っていた兄そのものであった。オロチの呪縛を捨て、兄の命と引き替えに万華鏡写輪眼を手にしたサスケは、うちはと兄を踏みにじった木の葉の里への復讐に向かう…。実にすばらしい筆致だ。これを描くために43巻を費やしたというのなら、作者の苦労は実ったといえる。