日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -32ページ目

あなたはどちら側?

もしもあなたがクリエーターならば、

既存の価値観や現象をすべて信じることなど、

到底出来はしないだろう。

出来ないから、何か新しい物を求めるのだし、

そうでなければ、何かを作り出す事など出来ないだろう。


もしもあなたが労働者ならば、

企業や社会があてがった価値観や規範を信じなければ、

辛すぎて生きていけないだろう。


この世界は、

日本は、

この政府は、

このコミュニティーは、

この会社は、


とんでもなくすばらしいと、

自分をだます意外に、

幸福は顕現しない。

悲しい事だがそれが現実だ。



そして、

二十一世紀。


神は消えた。


無条件で信じても良いものなど、

この世の中に、


何一つ無くなってしまったのだから。

首を傾げる事ばかり。

それがこの世の中なんだね。

気配

夜中帰宅し家に上がると、

何故か未だに、猫の気配を感じてしまう。


それは、


私の願望なのか。


猫の死を、心のどこかで受け止まられないでいるせいか。


私は家に帰ると、ただいまと声をかける。


誰もいない居間に向かって。


しかし、


物陰に、猫の気配を感じる。



錯覚?



私は何度も猫の名前を呼んだ。


「すまなかったな、ほんとうに。俺じゃなく娘たちと一緒に暮らしてた方がよかったか?」


また余震だった。


私は歯を磨き、布団へ潜り込む。


動物と人間の違いは何だろうか?


食事し、

睡眠をとり、

日々が過ぎ去って行く。


おそらくは、

人と動物の境界線は、

「考える」

かどうかの違いくらいだろう。


私は家畜だった。

家と職場の往復。

今、その現状に疑問を抱くことなど遠い昔のことで、

考える事に疲れ、それを放棄してしまっている。


寝る時間だった。

働くために。

ただ、寝るだけだ。







別れ

昨日。

病院から猫を引き取り、

猫が元気だった頃、そこで過ごした居間と和室の二間続きの部屋へ猫を横たえた。


フードと水と花を猫の傍らへ供えた。

今日一日は一緒にいたかった。

形ばかりのお通夜だ。


動物病院では、冷静に猫の死を受け止めていたが、

家へ連れ帰ると、涙が止まらなかった。

猫を撫でながら話しかけた。

まだ皮膚も柔らかく、胸が上下していないだけで眼も潤んでいて、

死んでいるように思えなかった。


その日。

私は仕事に出かけ、

また余震があり、

いつもより早く帰宅する事が出来た。


帰宅し猫に触れると、猫はすでに固くなっていて、目の光も消えていた。


翌朝。

私は余震で目覚め、庭に出てスコップを持ち、庭の片隅に猫を埋めるために穴を掘った。



「庭に埋めようと思うのですが、タオルにくるんであげた方が良いですか」

私は医者に尋ねた。

「タオルに包むと土に還らないので、直に埋めてあげてください」

と言われた。


庭に梅の木があった。

もう梅の花は散ってしまっていて、微かな花びらの残滓が枝の先にのこるだけだった。


梅の木から離れた同じ境界沿いに猫を葬った。


犬は、娘の母親の実家の庭に、私が葬った。


子供の頃買っていた小型犬も、

共同墓地の林の斜面に、私が葬った。


もう、ごめんだった。


一人でも、

それでも、しかたない。

それでいい。