日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -307ページ目

馬鹿

この時間が、嫌いだった。

なぜあなただけ、遊んでいる。

そんな言葉が聞こえてきそうだった。



妻は、料理をしている。


風呂も洗った。

雨戸も閉めた。

布団も敷いた。

それだけで、俺のやることは何もなくなった。



仕方なく、ソファーでテレビを見つめていた。

中国産のダイエット食品による健康被害。

嫌でも、興味を引かれた。

被害の原因とされる、薬物の名前を言っているその時、後ろで声が聞こえたような気がした。

弾かれるようにして、後ろへ身を捩り妻を見つめた。


「なぜ人の話を、聞かない訳」


ここで、いつもなら話をする気も失せていた筈だ。

その日は、違っていた。

「TVを見ていて、気がつかなかっただけじゃないか」

「話を聞こうと思っていれば、耳に入るはずでしょ」

そこからは、言い合いになった。

もう飯の時間にテレビなど付けるな。

私は、あんたと違って、この時間しか見ることができない。

洗濯物などを干す都合上、天気予報は見なければならない。

そんな事柄を延々と言っている。


最後に、こう言い放った。

「あんた、本当に馬鹿じゃないの」

「この距離で、声が聞こえないんじゃ、一度頭の中見てもらったほうがいいわ」

心の中で、笑っていた。

そこまで言われて、一緒に生活する義務や責任はないだろう。

家を出ようと思った。

金。

仕事。

娘。

逃げ場所。

頭に浮かんだ。




結局、家を出ることは、なかった。



妻はこれから仕事で、この馬鹿な男が子守をしなくてはならない。

娘がいるから。

そんな理由をつけて、逃げているのか。

それとも、まだ、人間的な感情が残っているということなのか。


あんた、本当に馬鹿じゃないの。


その言葉を、心の中に刻み込んだ。


馬鹿だからわかんねえよ。

今度は、そう言ってしまうかもしれない。


頭の悪い、ガキのように。

反駁

怒鳴る者の気持ちを考えていた。

怒鳴って気持ちが晴れる者。

嫌な気持ちになる者。



そもそも、胸糞が悪いから怒鳴るものだろう。

そうも、思う。

人は、人を傷付けたり、打ち負かしたりすることによって、ある種のエネルギーを得られる。

しかし、それは一時的なもので、他者になにかを与える行為で得られるエネルギーは、無限である。

そんな事を、どこかで読んだことがあった。


俺は何故、反駁しない。


論理的に話を組み立てられず、いつも論破されるからか。

下手な事を言って、更にずたずたに傷付けられるなら、黙り込んだ方がましと思っているのかもしれない。
つまりは、頭の回転が悪いのだ。

ディベート能力の欠如。


妻に猛然と論及し、ぐうの音も出ないくらい徹底的に論破する。


そんな日が、果たして来るのだろうか。

想像しただけでも、痛快である。

気付くと片方の口角だけ上げて、薄笑いを浮かべていた。

機械

朝、妻と顔を合わせ、第一声が俺に対する文句であった。

腹の中を掻き回されるような、溜息。

唸るような、不機嫌な息遣い。

それが寝るまで続いた。



たまらず庭へ出る。

すぐに庭の掃除をしろと、言葉が追ってくる。




トイレに入った。

すかさず、娘の面倒を看ろと怒鳴り声が上がった。


妻は疲れたと何度も呟き、昼飯も食わずに寝室へ消えていった。

俺は手早く飯を作り、それをそっと寝室へ置いた。

結局、妻はそれに、いっさい手を付けなかった。


そして、俺の目の前で飯を作り始めたのだった。



少しずつ、人間的な感情が消えて行く。


泣きもしない。

怒りもしない。

喜びもしない。

それでも、哀しみだけは消えないだろう。


機械になっていく。


そして、廃棄処分される日を、何も感じないまま待ち続けるだけだ。