日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -272ページ目

短編 「憎しみの果てに」 第6話

風が吹いていた。


昼間に暖まった空気が、地上から吹き上がってくるためだろうか。
遠くに黒い稜線が見えた。
麓に広がる、町の灯りが明滅している。
暗いビルの屋上に、人影があった。
フェンスを乗り越え、少し高くなった淵に立っている。
後ろ手にフェンスを掴み、下を覗いていた。
それから一度天を仰ぎ、ゆっくりとこちらの方へ顔を向けてくる。

加奈子だった。

右手を差し出して、小さく手招きしている。

「一緒に来て」

嫌だと思ったが、体は加奈子の方へ引き寄せられていった。
私の手を握り締め、加奈子が笑った。

「真由美。手伝ってよ」

何のことかわからなかった。
何を手伝うの。
言ったが声にならなかった。

「行くわよ」

加奈子が言ったのと同時に、体が浮いた。
浮いたのではない。
落ちている。
手には感触がなかった。
加奈子はすでに、そこにはいなかった。
体がぐるりと回転した。
一瞬、視界の片隅にビルの屋上が映った。

二人の人影。

加奈子の隣に、肩を並べている者。

それは、もう一人のわたしだった。



びくりとして、目が覚めた。
体が震えている。
寒さではなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に、小刻みに震える右手を翳した。
加奈子が握った感触が、生々しく蘇ってきた。



昨日、加奈子の家を訪ねた。
棺の前に、遺影があった。
それは、おかっぱ頭で眼鏡をかけた、以前の加奈子だった。
入学式の写真だということが、すぐにわかった。
大きく引き伸ばされて、粗れた粒子が、眼鏡の奥にある瞳を曖昧なものにしていた。
小さな、窓のようになった部分を開け、お別れをした。
顔全体が包帯で巻かれていて、口だけが覗いていた。
淡いピンク色の紅がさしてあった。
加奈子の母に、本当のことを言ってしまいたかった。
そして、言えるはずもなかった。
突然の加奈子の死について、両親はその理由を見つけられないでいた。
遺書すらなかったという。

最近明るくなった。
加奈子の母が、とつとつと話しはじめた。
あんなにも無関心だった身なりについても、ファッション雑誌などを見て勉強していたらしい。
コンタクトは、小さなころから貯めていた貯金を引き出して買ったのだと言って、加奈子の母は、口元だけで小さく笑った。
その貯金は、学資のために、加奈子自身がこつこつと貯めていたものだったらしい。

加奈子の母を見ていると、胸が引き裂かれるようだった。
私は、溢れ出しそうになる涙を、必死でこらえた。
同時に、胸の奥底に蠢く憎悪が、次第に大きくなっていくような気がして、それを鎮めようとした。
叔母の口癖が頭の中でこだましたからだ。


人を憎んではいけない。
絶対に。


今度ばかりは、そうはいかないと頭の中で反論した。
世の中には、憎しみに値する人間だっているのだ。





一人で下校した。
駅まで100メートルというところで、人影が私を取り囲んだ。
両脇から腕を捕まれ、騒ぐなと耳元で囁いてきた。
強引に、路地裏に引きずり込まれる。
大声を出そうと暴れたとき、目の前が青白く光った。

ナイフだった。

恐怖で足が震えた。
大声など、出る筈もなかった。
引きずられるようにして、雑居ビルのような所まで歩いた。
歩きながら、私を取り囲む者達が誰か、やっとわかった。

田口と横山。
そして、武田だった。

私はそのとき、自分が何故こんな目に遭うのか、瞬時に理解した。
口封じのためだろう。
人の気持ちを弄ぶような賭けのために、加奈子を死に追いやった。
それを知るものは、私だけなのかもしれない。

古いエレベーターで最上階まで行き、そこから階段を上って、屋上へ出た。
ドクンと、心臓が大きな音を立てた。
肌が粟立つ。

私はしばし、ナイフで脅されているという事実も忘れてしまったようだった。



目の前に広がる光景は、昨夜観た夢と同じだった。

ゲームをやる男は駄目男

「本当にがっかりだわ」

妻が言った。


EP3のゲームが欲しいと、つい口にしてしまった。

ゲームをするなど、中学生以下だ。

人生に対しての、向上心というもが、あなたには無いのか。



妻の物言いは執拗だった。



今考えると、ガキのようなことを言ってしまったと思う。

妻が商品券でCDを2枚買った。

だから、俺も許されるだろうと思ったのだった。

そして、商品券の残高はそれを買っても余りあるということも知っていた。

明らかに、子供の発想だった。

お兄ちゃんが買ったから僕も欲しいと、デパートのおもちゃ売り場で駄々をこねるガキとなんら変わらない。

自嘲するしかなかった。



家でゲームをする時間などなかった。

それでも、欲しいと思わせるゲームが時々発売された。

すでに発売されているエピソード3と、年末あたりに発売される予定のスターウォーズバトルフロント2である。

俺は、相当なスターウォーズフリークなのであった。

考えられないことだが、いまだにEP3を観ていなかった。

せめてゲームだけでも。

そう考えてしまったのだろうか。


その日は、もう少しでEP3を見ることが出来た。

妻もその気になっていたが、上映時間を告げると、こう言ったのだった。

2時間半も待つなんて、冗談じゃないと。


ゲームをする人間というのは、人生をまじめに生きていない人間なのだろうか。

そう決め付ける妻はいったいなんなのだろうか。

休日に、カルチャースクールのようなものに通うことも、趣味(遊び)という括りで考えれば、ゲームをする事と同じではないのか。



PS2を掴み上げ、窓から投げ捨てようとした。

そして、あることに気付いた。

DVDなどは、これで観ているのだった。

引き出されたコード類を元に戻しながら、表面に溜まった埃を手で払った。


短編 「憎しみの果てに」 第5話

「ただのお遊びさ」

武田が始めて口を開いた。



短くなったタバコを灰皿で乱暴に消し、加奈子を覗き込むようにして話し始めた。

「田口がお前を口説き落とせるかどうか、賭けないかと言ってきた。俺は面白半分でその話に乗っただけだよ」

加奈子はもう、武田の方を見ようとはしなかった。
灰皿を、ぼんやりと見つめているだけだ。
武田が、笑いながら言った。

「お陰で、ずいぶんと儲けさせて貰ったけどな」

「俺は、大損した」

隣で、横山が返した。
この卑劣な賭けに参加したのは、横山と田口と武田の三人だけだったのだろうか。
ひょっとすると、多くの者が加わっていたのかもしれないと思った。
加奈子の様子を窺うために、教室を覗き込んでいた何人かの生徒の顔を、ふと思い起こした。

「だいたいな、お前みたいな女を武田が本気で好きになるわけねえだろうが」

横山が煽った。
虫歯で穴が開いて、黒く変色した前歯が汚い。

わたしは、田口が何故こんなことを仕向けたのだろうかと考えていた。
わたしを憎んでいるのは知っている。
横山も同じだ。
わたしが憎ければ、わたしを苛めればいい。
少なくとも、加奈子に対してこれほどのことをする理由はないのではないか。

「まったく笑わせてもらったぜ、コンタクトなんかに替えちゃってよ。がり勉の吉田ちゃんが急に色気付いちゃってさ」

そう言いながら横山は笑った。
加奈子の顔が歪んている。
必死に涙を堪えているようだった。

「これ、返すわ」

そう言って、武田は首に巻かれたシルバーのアクセサリーを加奈子の方へ放り投げた。
テーブルの上を滑り、私と加奈子の間に落ちた。
加奈子が堰を切ったように、声を上げて泣き始めた。
顔を覆った両手から、涙が零れ落ちている。
なんと声をかければよいか、わからなかった。
ただ、加奈子、加奈子と名を呼ぶばかりだった。

「やっぱ、俺の好みじゃないわ」

加奈子のことを言ったのか、投げつけてきたアクセサリーのことを言ったのかよくわからなかった。
加奈子は急に立ち上がり、走って店を出て行った。
わたしはもう一度加奈子の名を呼び、後を追おうとした。

「ちょっと待てよ」

横山が立ち上がり、わたしを止めようとしてくる。

怒りがこみ上げてきた。
とっさに、落ちていたアクセサリーを拾い上げ、思い切り投げつけた。
それは横山でなく、武田の額に命中した。

「最低だわ、あんたたち」

大声を上げていた。
二人は一瞬たじろいたようだったが、加奈子を追って店を出たわたしを、追おうとはしなかった。
あたりを見回しても、加奈子は見つからなかった。


帰宅して、加奈子の自宅に2度電話をした。
夕方と夜である。
母親が出て、まだ帰宅していないと答えた。
その夜は一睡も出来なかった。
目を瞑ると、加奈子と武田が肩を寄せ合って、夜の町に消えていく姿が蘇ってきた。
怒りとも憎しみとつかない感情が、胸の奥底で燻っていた。



翌朝登校すると、加奈子はいなかった。
学校を休んだ、という意味ではない。
この世から、いなくなった。
その事実を、どうしても認めることが出来なかった。

加奈子の席を、ぼんやりと見つめた。
菊の花が一輪、置かれている。

嘘だ。

横山あたりが嫌がらせで置いたのだろう。
そんなことを、頭の中で何度か呟いた。