仁義なき夫婦生活
夢を見ていた。
若い女の子が、俺を背中から優しく抱きしめている。
それなのに、母親に抱かれた子供のような心境だった。
泣きたくなるような切なさと、充足感がないまぜになって、俺は女の子のなすがままになっていた。
顔を見ると、肩までの黒髪で、一重瞼の目は細く、まるで柴犬のような顔つきだった。
とてもかわいらしい。
俺はこの子に恋をしているらしい。
そして、どうやらその若い女の子も、俺のことを愛しているらしい。
ぴったりと体を寄せているので、女の子の胸と股間が俺の背中に当たっている。
俺は我慢ならなかった。
もう、間違いを起こしてもかまうもんか。
どうにでもなれ。
踏ん切りがついたところで、俺は目覚めた。
布団から跳ね起きると、そこには悪意の固まりが俺を見据えていた。
「お金が必要らしいけれど、いったいいくら必要なわけ!」
「……」
「口座が必要なら、とっとと起きて銀行でも市役所でも行って、それから戻ってきてよね!」
すぐには起き上がれなかった。
ひどい頭痛で吐き気がした。
なんとか身支度をして、俺は居間へ入った。
「お金これしか持っていないから」
差し出されたのは壱万円札だった。
「銀行と市役所いってから、おつり持って、いったん戻って来てちょうだい!」
悪意の固まりの考えそうなことだった。
どうやっても、仕事までぎりぎりじゃないか。
それでも俺は家を出た。
市役所へ行き、銀行へ行った。
思ったほど時間はかからなかった。
俺はおつりをそっくりそのまま悪意の固まりに返し、それと一緒に、封筒の中から一枚の紙片を取り出した。
それをみて、悪意の固まりは沈黙した。
そして、鬼の形相で言葉を発した。
「何よこれ?アルバイトなんでしょ?」
「バイトだけれど、身元保証人が必要なんだ。しかし、そんなに大それたものじゃないみたいだった。無職の妻でもいいから、ということだから」
次にどんな嫌みが飛び出すのかと、俺は少し楽しみだった。(結果的にサインするに決まっていると思っていたから)
悪意の固まりは、どんな小さな事でも、すんなり気持ちよくOKしたことなんて、今までで一度たりとも無かったのだ。
しかし、口をついて出てきた言葉は、俺の想像を遙かに超えたものだった。
「もしも万が一の事があったら、共倒れじゃない!だめだ!ちょっと考えさせて!」
はあぁぁ~~~~~~~~~~~~あぁ??
もう、相手になんかしていられなかった。
こんなにも、馬鹿馬鹿しいことが、現実にあっていいのか?
夢でもみているんじゃあるまいか?
時には打ちのめされ、血を流し、
まるで排水溝に引っかかった髪の毛のような扱いをされ、
それでも、この醜悪な悪意の固まりのためにせっせと金を稼ぎ出し、
安心して試験勉強に打ち込める環境を提供し、
試験に合格した暁にはコーヒー豆のカスのように、紙フィルターごと三角コーナーへ投げ捨てられるのか?
いくら何でも、そこまでするわけがないだろうと思っていた。
つまりは、俺は大馬鹿タレだった。
どこかで、悪意の固まりにも、仁義というものがあるのではないかと、期待していたのだ。
しかし、はっきりと言ったのだ。
別れる相手の保証人なんかになれないと。
試験が終わるまで、なんとか金を毟り取れればいいのだと。
悪意の固まりの損得勘定だけに翻弄される俺は、虫けら以下だった。
俺はさしずめカマキリだった。
やっとの思いで雌と性交を果たしたと思ったら、雌に首を食いちぎられる。
雌カマキリは夏の終わりに卵を産むことだろう。
雄カマキリは……。
絶頂の末、死ぬだけだ。
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言葉について~2.0
ブログネタ:最近影響を受けた言葉
参加中チャールズ・ブコウスキーの短編より
だから、一銭も持ってねえんだって!
腕の痛みと、頭痛で目が覚めた。
吐き気を伴う頭痛が尋常ではなかった。
肩こりが原因なのか。
しかし、ストレッチをしても痛みは和らぐことはなかった。
幸いその日は休みだった。
しばらくの間、布団の中で、吐き気や痛みと格闘した。
吐き気が収まると、俺は起き上がり頭痛薬を飲んだ。
多分、プラシーボ効果に過ぎないのだろう。
痛みは和らいでいった。
バイトを始めるにあたっての書類が郵送されていた。
初日までに書類を完備し、持ち込めばよかった。
封筒を引き裂いて、中身を見た。
目を通す。
俺の気分は、急降下した。
やたらとそろえる書類が多かった。
自宅から職場までの地図のコピー(10円)
役所で取得しなければならない住民たる証明書(300円くらいか)
銀行口座のコピー(口座開設千円とコピー代10円)
それから。
保証人の署名(いい年のおっさんがバイトを始めるのに保証人はないだろう)
俺の娘の母親から、金をもらう。
それは、糞の中に手を突っ込んで、腕はおろか体中糞だらけになるに等しかった。
しかし、金を手にするには、バイトを始めるには、糞まみれになる以外になかった。
俺の娘の母親がいる、居間に入った。
俺の娘の母親はやたらと不機嫌だった。
気圧され、部屋を出た。
外で呼吸を整え、再度糞の中へ飛び込んだ。
「バイトの書類を調えるのに、コピーやら銀行口座やら、市役所でとらなくちゃならない書類まであって、金が必要なんだ」
「……」
俺の娘の母親は、何も答えなかった。
俺は部屋を後にした。
自室へ戻り、部屋の中を見回した。
部屋の隅に、セラミックファンヒーターを見つけた。
俺はそれをつかむと、家を出た。
買取屋へセラミックファンヒーターを持ち込み、査定を依頼した。
しばらくすると係員が査定内容を告げた。
「こちらの商品は、10年以上前の商品でして、査定はつきません。引取りでしたら承るのですが」
「それなら結構です」
俺はセラミックファンヒーターを引っつかんで、買取屋を出た。
車に乗り込み、家に帰る気も起きずに、俺はブラブラと町を流した。
買い物籠を満載して歩くおばさん。
コーヒーショップでくつろぐ若者。
駄菓子を買い、むさぼり食っているガキども。
そして。
たった十円のコピー代すら持っていない俺。
俺はふと思い立って、財布の中身を覗いた。
一円玉が五個。
あまりにも軽かった。
「書類をそろえないためにバイトが始められない。そんなやつ、この日本にいるのかよ」
俺は叫んでいた。
そして、大声で笑った。
なんて馬鹿馬鹿しいんだ。
笑うしかなかった。
物を叩き付けられ、罵られ。
やっとの思いで、バイトを探したというのに。
それなのに、金は出せないときた。
車の中で、ひとしきり喚き、笑い、嘆くと、どうにもならない馬鹿馬鹿しさは薄らいでいった。
そして、新たな感情が心の中に芽生えた。
それは、殺意だった。
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