
この、草花、恐らくは春の草花でかたどられた人物画は、アルチンボルドの連作「四季」のうちの一点。
彼が仕えた神聖ローマ皇帝フェルディナンド一世(1503-1564、在位1556-1564)の為に制作され、同じハプスブルグ家のスペインを統治するフェリペ二世(フェルデナンド一世の甥。1527-1598、在位1556-1598)のもとに送られたものだという。
今回の展覧会では、春、夏、秋、冬の四季4点と大気、火、大地、水の元素がマドリッドやウイーンから集められている。
「夏は火のように暑く乾燥していて、冬は水のように冷たく湿っている。
大気と春は暑く湿っていて,秋と大地は冷たく乾燥している」
と 四季と元素は互いに関連し合い、同じ特性を共有しているのであり、作品四季それぞれと各元素の絵には左右の対称的関係が予め意図されている。

四季は自然そのものであり、元素は宇宙を構成するものである。
皇帝は領土と言うミクロコスモスを支配することで、宇宙というマクロコスモスを支配する。
その支配は「平和」つまり「調和」がとれ、「繁栄」つまり「四季、自然の恵み」を受ける事によって正当化される。
つまりアルチンボルドの絵はハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝やスペイン王家の支配の正統性を表現したものなのだ。
ジョゼッペ・アルチンボルドは恐らくは1527年生まれ。父はミラノ大聖堂の画家として働いていた。
アルチンボルド家は南ドイツの貴族の系統でイタリアに移住した者の末裔であるが、アルチンボルドの大伯父はミラノの大司教を務めた程だから名家である、と言ってよいだろう。
アルチンボルドが1562年、神聖ローマ皇帝になる前のボヘミア王に乞われてプラハに行ったとき、彼の友人は「稀な才能を持った画家、他の分野に精通し奇抜な絵を描く芸術家としての価値はミラノだけではなくドイツの皇帝まで届いている」と書いている(TASCHENアルチンボルド12P)。
ボヘミア王はすぐ後に神聖ローマ皇帝フェルディナンド一世になり、その後を継いだマクシミリアン二世(1564-76)ルドルフ二世(1576-1612)と三代の皇帝に仕え、1593年7月11日、66歳で腎臓病で死亡した。
彼の作品は絵画だけではなく、恐らくはそれ以上に結婚式や戴冠式の総合プロヂューサーとして評価が高かったらしい。その作品は残念ながら殆ど残っておらず、今回の展示で「ルドルフ二世に献じられた「馬上試合の装飾デザイン集」のみであったことは残念なところである。
先に記したように「奇抜な絵を描く画家としての評判」がハプスブルグ家の皇帝の招請に繋がった。
その理由は彼の絵の「帝国の支配の正統性」のアレゴリーにあっただけではなく、王位や帝国の威信を内外に発揚する戴冠式などのイベントのプロデューサーとしてのものでもあった。
この奇抜な絵を好んだ背景は何なのだろうか?
実は、正直に言ってアルチンボルドの絵にそれ程の美的関心を持てない。
彼の絵の良さがわからないのだ。
そのことが、彼の絵が好まれた「背景」に対する詮索につながっている。
アルチンボルドはルネッサンスからバロックの間、マニエリスムを代表する画家として有名である。
そして有名にしたのは、グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界―マニエリスム美術」(岩波文庫)。
ホッケは、同書で「ルドルフ二世時代のプラーハ」「アルチンボルドとアルチンボルド派」で二章を割き、それに続く「擬人化された風景と二重の顔」以下ではダリやピカソなど後世に与えた影響について論じている。
「フィレンツェを発祥地として、ポントルモの画法に始まる「マニエリスム的」様式が、芸術と文学と音楽の中に、更に哲学や社会的慣習や「主観的な」アヴァンギャルド的」生活習俗の中に展開された。
パルミジアニーノ、晩年のミケランジェロ、アルチンボルド、グレコのような第一級のマニエリストたちが、さらに文学ではシェイクスピアたちが、「客観的な」自然よりはむしろプラトン学説の美学的に俗流化された意味での「イデア」を出発点とする、ひとつの「主観的」芸術への決定的な諸前提を創造した」
(適宜中略)と冒頭にある。
待てよ!フィレンツェのルネッサンスはメディチ家の「プラトンアカデミー」をインキュベーションとして展開されたのではなかったか?と疑問が湧く。
また、「マニエラ=様式」からマニエリスムの概念的枠組み、ありていに言えばレッテルが生まれたのだが、様式はマニエリスムに特有なものではないので、この呼称自体、とても曖昧な概念だ。
マニエリスムに続く「バロック」は「ゆがんだ真珠」から発して、その呼称が転移し拡張して、
誇張された動き
凝った装飾の多用
強烈な光の対比
劇的な効果
緊張・壮大
を特徴とするが、これを見て真っ先に思い浮かべるのはカラヴァッジョだ。
ホッケはマニエリスムの様式を、
古典主義の、シンメトリー、バランス、遠近法(唯一の焦点)、客観的な自然に対比して、
反―古典的表現形式、浮遊、デフォルメ、古典主義の求心に対する遠心とし、
後期ルネッサンスからバロック時代に至るまでの間に多様に表現されたこれらの様式が、ヨーロッパの芸術、哲学の中に繰り返し登場する「常数」、つまりヨーロッパ精神のバックボーンとなった。
とまで拡張している。
では一体、マニエリスムとバロックの違い、境界線はあるのか?
そしてホッケはカラヴァッジョ(1571-1610)を初期マニエリスムの画家としている。
一方アンヌ=ロール・アングールヴァンは「バロックの精神」(文庫クセジュ)において、ジャン・ルーセを引用して「バロックの本質は、その多様な形態にある」と言っている。
つまりマニエリスムとバロックには明確な画定はないのだ。
ルネッサンスはヤーコプ・ブルクハルトの「イタリアルネッサンスの文化」(中公文庫)によって「発見」された、としばしば言われる。
芸術的様式は後世になればなる程多様化し、芸術家個人の想像と創造によって表現されるものであるから、一括りにしようとすればするほどはみ出す部分が多くなり、概念規定の意味が薄れてくる。
画家が「様式」を前提に絵を描いているのではないように、見る方も「マニエリスムだバロックだ」と見る必要はないのだ、と門外漢の気安さで言っておく。
マニエリスム芸術の規定に首を突っ込むと理屈っぽくならざるを得ないが、
アルチンボルドの「庭師」

を反転すると「野菜」になる。
これはこれで面白い絵とは思うのであるが、プラハのハプスブルグ宮廷の中でこの絵を大真面目で鑑賞していた人たちの心にあったものは何であろうか。
それを解くカギは、「魔術の帝国」ルドルフ二世とその世界(平凡社)にありそうだ。
来年早々、2018年1月6日より、渋谷文化村、ザ・ミュージアムで「ルドルフ二世の驚異の世界展」がある。
どのような切り口で展示がなされるか興味津々だ。
盛期ルネッサンスに在った1492年コロンブスは西インド諸島に出発し、1497年バスコ・ダガマは喜望峰を回ってインドに到達した。地中海交易から疎外されたポルトガルとスペインが先鞭をつけ、ハプスブルグ家フェリペのスペインがアフリカや東洋の異国の産物をヨーロッパに流入させた。
アルチンボルドが仕えたプラハのハプスブルグ家には世界の異物を集めた博物館があったという。
彼の絵の中の草花、動植物にはそれらが描き込まれ、それを見つける謎解きの面白さも見る側にあったのかもしれない。
一方足元では宗教改革の嵐が吹き荒れ、ロヨラのイエズス会のカトリック対抗改革も公認されてヨーロッパが分断され、帝国の統一と安定を脅かす事態があった。
1665年ニュートンの万有引力の発見まで50~100年あるが、ポーランドのカトリック司祭コペルニクス(1473-1543)の地動説、「それでも地球は回っている」と異端審問に掛けられたガリレオ・ガリレイ(1564-1642)等によって天文学としての占星術、化学としての錬金術から出発した科学がキリスト教的自然観宇宙観を揺るがし始めた時代でもあった。
自然の秘密を知るものは、自然を支配するものである、という秘教的、魔術的世界観はルドルフ二世を魅了し、アルチンボルドの絵画の中に「不統一の統一」を見て取ったホッケは、その統一を求める心性が揺れ動くルドルフ二世の神聖ローマ帝国の希求と重なった、と見ている。
アルチンボルドの絵の良さを納得できないままに資料を漁食して話は尽きないのであるが、来年は先に挙げたルドルフ二世関連の展示会の他に、「ブリューゲル展ー画家一族150年の系譜」が1月23日より都美術館で開催される。ブリューゲルもまた、ボスーブリューゲルーアルチンボルドと続くハプスブルグ家お気に入りの画家である。
ますます理解が深まるのか、あるいは迷宮に迷い込んで途方に暮れるのか、
どのように成り往くのか、私自身楽しみだ。