Gon のあれこれ -27ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

当初の予定では、今日19日(木)に行く予定であったけれど、この雨続きで唯一晴れの予報である昨日に変更。

 

概ね45店舗が7つのテントに分かれて集結。

このスタイルだと雨でもなんとか決行出来そうだ。

 

狙いはミシェル・フーコーの筑摩書房の文庫本を探す事にあったが、見事に空振り。狙い通りに行った試しはない。

が、時として思わぬタイトルに引き寄せられて、幸せな本との出会いがある時があり、その期待でつい出かけてしまう。

実は先月25日(火)にも新橋SL広場古本市に行ったのだが、さしたる成果もなくブログを書く気が起きなかった。

 

池袋ではトマ・ピケティの分厚い「21世紀の資本」が散見された。

恐らく、話題に誘われて買っては見たものの、読むほどの気が起きなかったか、あるいは忙しくて手に取る暇は無かったか、、、等とあれこれ想像してみる。

 

古本の市場に出る本は、希少本は別として絶版になった本などは、所有者が、高齢化や亡くなったりして出てくるケースがあるだろう。

そういう本がいつの日か別の人に手を取って読まれる、と言う事は著者にとって本望だろう、と思う。

一方(元)流行作家の本などは出版当時に相当売れたが、少し時間が経ってみるとそれ程の価値が無いとわかって古本市場にどっと出るケースが結構あるように思う。

それで思うのは山田風太郎さんの文庫本だ。

この稀有な作風の作家の文庫本は意外と古本市には出てこない。

手に取って読んでみると愛着が湧いて手放すのが惜しくなる、

と言う作家だ。

私にはもう一人藤沢周平さんの本が手放し難いが、愛書家にはそういう作家が必ず一人や二人はいるに違いない。

 

目当てのフーコーは見当たらず、渋沢栄一の文庫本とブルフィンチの「ギリシャ・ローマ神話」(大久保訳角川)を買う。

野上弥生子さんの訳(岩波)がどうも私には童話本のようでしっくりこなかったので買ったのだが訳書の場合は訳者の文体の好みもあるだろうと思う。

例えば同じ岩波文庫の「マラルメ詩集」。

1963年初版の鈴木信太郎訳の

 

「虚し、この泡沫、処女なる詩、

ただ 盃づきを示すのみ。

群居る人魚の、眼路はるか、

躍り乱れて 沈み行くごと」

 

と 2014年初版の渡辺守章訳の

 

「無なり、この泡、処女なる詩句、

努めは ただ 盃を示す、

さながら はるかに 沈む群れは

セイレーンの姿、数多 腹翻しつつ」

 

がある。どちらも声望高いお二人の訳であるが、鈴木訳は「禮」と題し、

渡辺訳は「祝盃」。

渡辺訳の方が分かり易く素直に伝わる。

一方、抽象度が高い鈴木訳はマラルメの詩の雰囲気が出ているかもしれない、と思う。

どちらが「良い」と言うよりは、読む側の「好き」が優先だろうと思う。

 

古本購入後、花粉症の目薬を東口の眼科で処方してもらい、西口の「ふくろ」で、取りとめなく考え事をしながらカツ煮などを肴にビールを飲んで帰宅。

 

 

先週木曜日、上野で用を足した後、王子で下車して飛鳥山の渋沢資料館へ。

王子駅からは都電早稲田行に乗って一駅。そこからは徒歩5分くらい。

山側からモノレールの便がある。こちらは無料らしい。

 

今から150年前の1867年4月、パリで万国博覧会が開催され、徳川将軍慶喜は異母弟明武に参列を命じたが、埼玉県深谷の農業と藍の商売を家業とする家の長男に生まれた渋沢栄一が一橋家の幕臣となって、明武に随行した。

期間中栄一は一行の会計(勘定方)を命ぜられ、結構忙しかったようであるが、それでも明武に随行してスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど産業革命で資本家も労働者も明るい未来に沸き立っていた諸国の軍需工場や銀行などを実見する。

 

1867年第2回パリ万博 はナポレオンの甥、ナポレオン三世が、パリ大改造をオスマンに、命じた時期と重なるが、電動機や発動機など産業機械の展示だけではなく、遊園地やレストランなどの娯楽施設を併設した画期的なものであった。

 

この展覧会への興味は、随分以前に彼の論語講義を講談社の文庫本で読んで、感銘を受け、かつ 改めて説明する必要のないほど、明治維新後の日本財界で、殖産興業の中心人物であっただけではなく、資本家、経営者の貪欲を戒め、論語を倫理的バックボーンとして説き、高等教育機関、特に女子学校の設立に力を注ぎ、孤児院など社会福祉事業の創始者ともなった渋沢栄一が、この随行に何を見、何を感じてその後の活動にどのようなインスピレーションを得たのだろうか、と言うところにあった。

 

そういう関心からすると、展示は言わば「図書館的」な陳列で、物足りなく帰りに受付横の書棚で、栄一の自伝「雨夜譚」や「渋沢栄一、パリへ」などいくつかパラパラとめくった後、

 

 

鹿島茂著のこの本が、

「彼(渋沢栄一)はいかにして『損して得とれ』と言う偉大なる『思想』を『事前的』に体得できたのか」

と言う点を解明しようとする点や、ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などを手掛かりにしている点などが、こちらの関心と重なるところがあったので購入。

 

まだポツリポツリと読んでいる段階だが、

彼が視察後 時と所を得て第一銀行を始め次々と起業出来たのは

1、彼の中に、何かプロトタイプがあって、そのヴァリエーションとしていろいろな事業の起業に生かしていったので矢継ぎ早の起業が出来たのか。

2、あるいは、彼の協業者や部下たちが、既にある素地があって、彼の話を聞いてすぐ翻案出来たのか。

勿論、1と2が相まって、と言う事もあるだろう。

彼の英雄譚としては1が面白いのだろうけれど、江戸時代各藩は藩の財政を豊かにし、領民を豊かにするために殖産に力を注いだのは米沢の上杉鷹山だけではないし、列島の良港に世界各国の軍艦などが寄港して開港を迫った中に、世界の情勢を知る機会が在り、世界の進んだ工業や制度についての情報も得る機会が在ったのだろうと思う。

その中から、例えば商品先物取引の堂島米会所や藍取引等における手形や両替商の介在があり、株仲間制度もあったわけだから金融や株式会社などについて、翻案が容易に出来る素地もあったのではないか、と思われる。

そういえば、冒頭述べたように、栄一の実家は農業と藍の取引を兼業していた、と言う事実がある。

これらについては、鹿島氏の著作だけではなく、暇のある時に関係する本をつまみ食いして考えてみるつもりである。

 

参考:栄一のパリ万博旅行の行程詳細は以下の記念財団の資料にある。

https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1840.html

没後「近代絵画の父」と呼ばれたポール・セザンヌと、生前から「居酒屋」や「ナナ」でパリの文壇にセンセーショナルを呼んだエミール・ゾラの友情と葛藤に満ちた物語。

 

 

 

映画ではセザンヌの絵の革新性やゾラの自然主義小説についてなんら語られていない。

しかも映画は過去にフラッシュバックする。

それについて行くためには背景の知識が必要であり、それは観る側が当然持っている、と言う前提なのだろう。

 

1789年バスチューユの襲撃から始まってマリーアントワネットの断頭台でピークを迎えたフランス革命と、彗星のように現れたナポレオンのクーデターで幕を閉じた18世紀。

帝政と共和制を繰り返しながら、産業革命でブルジョワジーと労働者の新興階級が勃興したセザンヌとゾラの時代19世紀。

そういえばこのブログで触れたパリのパサージュも、オスマンのパリ大改造もパリ万国博もこの世紀であった。

 

絵画ではナポレオンの戴冠式を描いた新古典派のダヴィッドとその後継者アングル。

一方、革命と反革命の中で勃興した新興階級は新しい文化の担い手として個人の感受性や主観に重きを置くとともに国民の国家、民族意識、ナショナリズムが高揚してヴィクトル・ユーゴやバルザックのロマン主義文学やドラクロワの戦場で民衆を導く乳房を露出した自由の女神に代表されるロマン主義絵画が登場した。

 

1839年南仏のプロヴァンスに新興ブルジョワジーの息子に生まれたセザンヌ。一つ年下のゾラが転校してきて奇しくも二人は生涯の友となる。セザンヌによればゾラは頑固で狷介な奴であり、同級生によればセザンヌは極めて優秀だったが物思いにふける多少とっつきの悪い生徒であった.

(「セザンヌ」岩波文庫ガスケ著)

二人が周りから浮き上がった存在同士として友人になるのは必然だったかもしれない。

 

父の指示で法律を学ぶも画家の夢を捨てきれなかったセザンヌ。

小説家を夢見るが受験に失敗したゾラ。

ゾラにも後押しされてパリで画学校に学ぶが、サロンに応募しても落選し、落選展にも落選したセザンヌ。

評論家の端くれにしがみつきながら、「居酒屋」(1879年)、「ナナ」(1879年)で一躍人気作家になったゾラ。

そのゾラの小説「居酒屋」は下層の男に翻弄される居酒屋の女将。

その娘「ナナ」は高級娼婦でその濫費で男を次々と破滅させていく。

その描くところは卑しい者の高貴な魂であり、不純のなかの純粋さ。

所謂自然主義文学である。

 

一方セザンヌは失意の中で故郷に帰り自分の目指す絵画に没頭するが、画家としてのセザンヌを受け入れ無かった父が1886年に死亡して遺産相続で40万フランと言う大金を手にして生活が安定する。

その同じ年にゾラは居酒屋の女将の息子(ナナの異父兄)である画家を描いた「制作」を発表。

セザンヌがこのモデルは自分だと思い込み、その描写が彼を怒らせ、それが二人の不仲の原因とされている。

 

しかしガスケ著「セザンヌ」では、ゾラが「小説」を書いたのであり、「居酒屋」から始まる広大な全体の中に組み込まれたストーリーを書いた事をセザンヌは承知していた。

「制作」(ガスケ著では「作品」となっている)から15年後、1900年頃、

 

ゾラは心からの友情を込めてセザンヌを愛していた。

『(ゾラ)はこのとおりに私(セザンヌ)に言ったのだ。僕は彼の絵がだんだんわかり始めてきた。長い間つかめなかったんだ。率直で信じがたいほど真理にせまる絵なのに、ぼくは、あれを苛立った絵に思っていた』(ガスケ著p131)

とあり、この映画の、「制作」を巡って二人が亀裂した、とするストーリーとは異なるセザンヌ談を載せている。

 

不遇を託ったセザンヌも1895年、ある画商の尽力で開いた個展が成功した。

ゾラは1902年9月21日に亡くなり、セザンヌは1906年10月に死亡。

1907年の「セザンヌ回顧展」にはピカソやマチスが集まって評判となり「近代絵画の父」と言われる評価が始まる。

 

その近代絵画の父と呼ばれるセザンヌの絵

 

何点もあるサント=ヴィクトアール山を描いた中の晩年1897年頃の作品だが、印象派から出発したセザンヌは、印象派の「光を色に置き換える」画法が、結果として対象の形態を曖昧にしたことに批判的で、自らは対象を「球、円筒、円錐で捉える」ことから出発し、この絵のように面を立方体的にとらえて岩の重量感を表現し、かつ左下から時計回りに山の稜線に至る視線を誘導することによって遠近法とは異なる奥行きをキャンバスの中に表現した。

このセザンヌの幾何学的にとらえる視線は、ピカソ等のキュービスムにインスピレーションを与えた。

この「大水浴」は最晩年1906年の作。

この絵は『セザンヌの想像力を長い間引き付けた水浴という主題の偉大な結論と、つねに見なされてきた。この絵は叙事詩的なスケールの大きさ、優美で開放的な空間、アーチ状の樹木による丸天井を持っている。アーチ状の樹木は、その下のヌードによる三角形に対応し、それらを聖別している。またこれは、人物と風景とのあいだに成立した微妙な均衡をも強調している。これらのためにこの作品には、近代絵画の傑作の地位が与えられたのである.』(岩波世界の美術セザンヌp317)

 

かくて映画は原題の「Cezanne et Moi」(英題Cezanne and I」はセザンヌとゾラの友情と葛藤をめぐって展開するのだが、落選展でマネが出品した「草上の昼食」

 

が現実の裸体の女性を描いた、として不道徳を理由にスキャンダルを巻き起こす。意外なことにそれまでの絵画では裸体の女性は神話や物語を描いた絵にのみ登場していたのに、脱衣を左下に描くことで現実の女性であることを示したから、とされる。

この絵は身なりの整った二人の紳士と、女性の裸体を彼らの欲望の対象として赤裸々に示すことでゾラの始めた自然主義文学の匂いを感じる。

同じくマネの絵「オランビア」

は、ティツイアーノの「ウルビーノのヴィーナス」が主題である。

この絵も描かれた女性がそれと分かる娼婦であることで批判を浴びたらしい。 ゾラの「ナナ」も娼婦であり、マネは「ナナ」の絵も描いている。

こうした事からゾラはセザンヌとの友情は別にして、画家としてはむしろマネに同志的結合を感じていたのではないかと思える。

 

セザンヌやゾラの時代、パリには詩人のボードレールやマラルメが、画家ではルノワールやドガ、あるいはゴーギャンやホイッスラーが、カフェに集って飲み、酔っては互いに刺激し合った。

バルザックやヴィクトル・ユーゴーだって少し年上だが同時代人である。

 

資本主義と民主主義が明るい未来を予感させていた時代、

 

ちょっとタイムスリップしてその輪の中に入りたい。

 

 

参考:この時代に関するブログのリンク

19世紀パリ時間旅行

 

パリのパサージュ

 

ロンドン・リスボン・パリ三都周遊旅行 第七日

 

この、草花、恐らくは春の草花でかたどられた人物画は、アルチンボルドの連作「四季」のうちの一点。

彼が仕えた神聖ローマ皇帝フェルディナンド一世(1503-1564、在位1556-1564)の為に制作され、同じハプスブルグ家のスペインを統治するフェリペ二世(フェルデナンド一世の甥。1527-1598、在位1556-1598)のもとに送られたものだという。

今回の展覧会では、春、夏、秋、冬の四季4点と大気、火、大地、水の元素がマドリッドやウイーンから集められている。

「夏は火のように暑く乾燥していて、冬は水のように冷たく湿っている。

大気と春は暑く湿っていて,秋と大地は冷たく乾燥している」

と 四季と元素は互いに関連し合い、同じ特性を共有しているのであり、作品四季それぞれと各元素の絵には左右の対称的関係が予め意図されている。

四季は自然そのものであり、元素は宇宙を構成するものである。

皇帝は領土と言うミクロコスモスを支配することで、宇宙というマクロコスモスを支配する。

その支配は「平和」つまり「調和」がとれ、「繁栄」つまり「四季、自然の恵み」を受ける事によって正当化される。

つまりアルチンボルドの絵はハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝やスペイン王家の支配の正統性を表現したものなのだ。

 

ジョゼッペ・アルチンボルドは恐らくは1527年生まれ。父はミラノ大聖堂の画家として働いていた。

アルチンボルド家は南ドイツの貴族の系統でイタリアに移住した者の末裔であるが、アルチンボルドの大伯父はミラノの大司教を務めた程だから名家である、と言ってよいだろう。

アルチンボルドが1562年、神聖ローマ皇帝になる前のボヘミア王に乞われてプラハに行ったとき、彼の友人は「稀な才能を持った画家、他の分野に精通し奇抜な絵を描く芸術家としての価値はミラノだけではなくドイツの皇帝まで届いている」と書いている(TASCHENアルチンボルド12P)。

ボヘミア王はすぐ後に神聖ローマ皇帝フェルディナンド一世になり、その後を継いだマクシミリアン二世(1564-76)ルドルフ二世(1576-1612)と三代の皇帝に仕え、1593年7月11日、66歳で腎臓病で死亡した。

彼の作品は絵画だけではなく、恐らくはそれ以上に結婚式や戴冠式の総合プロヂューサーとして評価が高かったらしい。その作品は残念ながら殆ど残っておらず、今回の展示で「ルドルフ二世に献じられた「馬上試合の装飾デザイン集」のみであったことは残念なところである。

 

先に記したように「奇抜な絵を描く画家としての評判」がハプスブルグ家の皇帝の招請に繋がった。

その理由は彼の絵の「帝国の支配の正統性」のアレゴリーにあっただけではなく、王位や帝国の威信を内外に発揚する戴冠式などのイベントのプロデューサーとしてのものでもあった。

この奇抜な絵を好んだ背景は何なのだろうか?

実は、正直に言ってアルチンボルドの絵にそれ程の美的関心を持てない。

彼の絵の良さがわからないのだ。

そのことが、彼の絵が好まれた「背景」に対する詮索につながっている。

 

アルチンボルドはルネッサンスからバロックの間、マニエリスムを代表する画家として有名である。

そして有名にしたのは、グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界―マニエリスム美術」(岩波文庫)。

ホッケは、同書で「ルドルフ二世時代のプラーハ」「アルチンボルドとアルチンボルド派」で二章を割き、それに続く「擬人化された風景と二重の顔」以下ではダリやピカソなど後世に与えた影響について論じている。

「フィレンツェを発祥地として、ポントルモの画法に始まる「マニエリスム的」様式が、芸術と文学と音楽の中に、更に哲学や社会的慣習や「主観的な」アヴァンギャルド的」生活習俗の中に展開された。

パルミジアニーノ、晩年のミケランジェロ、アルチンボルド、グレコのような第一級のマニエリストたちが、さらに文学ではシェイクスピアたちが、「客観的な」自然よりはむしろプラトン学説の美学的に俗流化された意味での「イデア」を出発点とする、ひとつの「主観的」芸術への決定的な諸前提を創造した」

(適宜中略)と冒頭にある。

待てよ!フィレンツェのルネッサンスはメディチ家の「プラトンアカデミー」をインキュベーションとして展開されたのではなかったか?と疑問が湧く。

また、「マニエラ=様式」からマニエリスムの概念的枠組み、ありていに言えばレッテルが生まれたのだが、様式はマニエリスムに特有なものではないので、この呼称自体、とても曖昧な概念だ。

マニエリスムに続く「バロック」は「ゆがんだ真珠」から発して、その呼称が転移し拡張して、

誇張された動き

凝った装飾の多用

強烈な光の対比

劇的な効果

緊張・壮大

を特徴とするが、これを見て真っ先に思い浮かべるのはカラヴァッジョだ。

ホッケはマニエリスムの様式を、

古典主義の、シンメトリー、バランス、遠近法(唯一の焦点)、客観的な自然に対比して、

反―古典的表現形式、浮遊、デフォルメ、古典主義の求心に対する遠心とし、

後期ルネッサンスからバロック時代に至るまでの間に多様に表現されたこれらの様式が、ヨーロッパの芸術、哲学の中に繰り返し登場する「常数」、つまりヨーロッパ精神のバックボーンとなった。

とまで拡張している。

では一体、マニエリスムとバロックの違い、境界線はあるのか?

そしてホッケはカラヴァッジョ(1571-1610)を初期マニエリスムの画家としている。

 

一方アンヌ=ロール・アングールヴァンは「バロックの精神」(文庫クセジュ)において、ジャン・ルーセを引用して「バロックの本質は、その多様な形態にある」と言っている。

 

つまりマニエリスムとバロックには明確な画定はないのだ。

ルネッサンスはヤーコプ・ブルクハルトの「イタリアルネッサンスの文化」(中公文庫)によって「発見」された、としばしば言われる。

芸術的様式は後世になればなる程多様化し、芸術家個人の想像と創造によって表現されるものであるから、一括りにしようとすればするほどはみ出す部分が多くなり、概念規定の意味が薄れてくる。

画家が「様式」を前提に絵を描いているのではないように、見る方も「マニエリスムだバロックだ」と見る必要はないのだ、と門外漢の気安さで言っておく。

 

マニエリスム芸術の規定に首を突っ込むと理屈っぽくならざるを得ないが、

アルチンボルドの「庭師」

を反転すると「野菜」になる。

これはこれで面白い絵とは思うのであるが、プラハのハプスブルグ宮廷の中でこの絵を大真面目で鑑賞していた人たちの心にあったものは何であろうか。

それを解くカギは、「魔術の帝国」ルドルフ二世とその世界(平凡社)にありそうだ。

来年早々、2018年1月6日より、渋谷文化村、ザ・ミュージアムで「ルドルフ二世の驚異の世界展」がある。

どのような切り口で展示がなされるか興味津々だ。

盛期ルネッサンスに在った1492年コロンブスは西インド諸島に出発し、1497年バスコ・ダガマは喜望峰を回ってインドに到達した。地中海交易から疎外されたポルトガルとスペインが先鞭をつけ、ハプスブルグ家フェリペのスペインがアフリカや東洋の異国の産物をヨーロッパに流入させた。

アルチンボルドが仕えたプラハのハプスブルグ家には世界の異物を集めた博物館があったという。

彼の絵の中の草花、動植物にはそれらが描き込まれ、それを見つける謎解きの面白さも見る側にあったのかもしれない。

一方足元では宗教改革の嵐が吹き荒れ、ロヨラのイエズス会のカトリック対抗改革も公認されてヨーロッパが分断され、帝国の統一と安定を脅かす事態があった。

 1665年ニュートンの万有引力の発見まで50~100年あるが、ポーランドのカトリック司祭コペルニクス(1473-1543)の地動説、「それでも地球は回っている」と異端審問に掛けられたガリレオ・ガリレイ(1564-1642)等によって天文学としての占星術、化学としての錬金術から出発した科学がキリスト教的自然観宇宙観を揺るがし始めた時代でもあった。

自然の秘密を知るものは、自然を支配するものである、という秘教的、魔術的世界観はルドルフ二世を魅了し、アルチンボルドの絵画の中に「不統一の統一」を見て取ったホッケは、その統一を求める心性が揺れ動くルドルフ二世の神聖ローマ帝国の希求と重なった、と見ている。

 

アルチンボルドの絵の良さを納得できないままに資料を漁食して話は尽きないのであるが、来年は先に挙げたルドルフ二世関連の展示会の他に、「ブリューゲル展ー画家一族150年の系譜」が1月23日より都美術館で開催される。ブリューゲルもまた、ボスーブリューゲルーアルチンボルドと続くハプスブルグ家お気に入りの画家である。

ますます理解が深まるのか、あるいは迷宮に迷い込んで途方に暮れるのか、

どのように成り往くのか、私自身楽しみだ。

 

 

今年の三月下旬、7歳下の唯一の弟を亡くし、去る九月十日掛川まで上の娘の運転で墓参りに行く。

日曜日朝8時半新橋で拾ってもらい東名で約3時間半の道程。

弟の自宅で弟の連れ合い(義妹)と隣町に住む次女と娘、私には姪とその長女5歳、それに弟が可愛がっていた柴犬7歳が迎えてくれる。

もう10年近くも前に、葬儀は家族葬で、かつ無宗教で行うなど遺言を書き、今年一月には富士山を望む高台の霊園に墓を建てた。

明確に死を意識して覚悟し、家族に遺志を伝えるのは残された者には一条の光明だろう。

弟は法政の建築を出て設計事務所に勤めた後、日産販社のショールームや店舗の設計監理をしていたが、日産が経営不振に陥った時、割増の退職金をもらって掛川に自宅を購入して事務所を構えた。

弟を最も誇らしく思ったのは、設計事務所の収入が無い時、警備員などをして自分もしっかり働いた事。

弟の妻は看護師さんで収入はそれなりに有った筈だが、妻の収入に一方的に依存せず、夫としての責任を果たし、二人の娘も彼女たちの望む方向に進んで親としての責任も十分に果たしたと思う。

プライドとは学歴や資産を誇る事ではない。

自分の出来る事を精一杯、人として親としての責任を果たすことだ。

昼には寿司屋から取り寄せたとてもおいしい鮨を頂いた後、霊園に向かう。

晴れて風も清々しくとても良い陽気だ。

記念に弟の墓の前で、我々夫婦と娘の写真を撮った際、姪の娘と手をつないで指が絡まった時、えも言われぬ感慨に襲われた。

 

3時過ぎに辞して近くのねむの木学園に向かう。

学園の見学は事前予約が必要、との事で叶わなかったが、「ねむの木子供美術館」で宮城まりこさんや子供たちの絵を鑑賞する。

建物の佇まいが静謐で素晴らしい。

 

長方形のキャンバス一杯の花畑、

この写真は実物の下3分の1程。

作者の心の中にお花が満ち溢れているのが感じられる。

よく見ると下の方に人が二人。一人は作者だろうが、もう一人は作者の心が通う、同じように心にお花が満ち溢れている人に違いない。

参考:ねむの木学園 (素敵なカレンダーの通販がある)

見ているこちらも心が温まって余韻が汐のように満ちてくる。

他にも「お母さん月、ぼく月」などの素晴らしい作品がある。

 

泊りは「旅籠屋」牧之原店。

チェックイン後夕食に出かけるが、昼お寿司をおいしくてたくさん頂いたので、娘はうなぎ、と言うが ご飯ものは入りそうにもないので、自家製のそばを含めてメニュー豊富な家族連れなどで賑わっている店に入り夕食。

旅籠屋は、娘は時に利用しているらしいが私たちは初めてだ。

ダブルベッドが二つにエクストラが一つ。

エクストラも含めてフランスベッドの質の良いものを使っている。

TOTOのトイレとバス・洗面が二分されており、バスタブも広くて子供と一緒に悠々と入れる大きさだ。

室内のWiFiもサクサク使える。

翌朝、5時半過ぎにウオーキングに出掛ける。

近くの川沿いの自転車道を白鷺や鴨を見ながら歩き、ダイソーの駐車場を借りてウオームアップ、傅氏85式や五行拳の慢練をし、コンビニでサラダやサンドイッチ、スープなどを買って部屋に戻る。

旅籠屋ではコーヒー、オレンジジュース、クロワッサンなどを朝食に提供している。熱いお湯や電子レンジもあるから、上手く使えばそこそこの朝飯が食べれる。

娘と妻が散歩に行っている間タブレットで新聞や持参の文庫本を読んで過ごし、後 三人でベッドで少し横になって10時半過ぎにチェックアウト。

 

焼津の魚センターに寄って昼食を取り、途中駿河湾沼津や海老名のドライブインで小休止とみやげを買い、新橋で降してもらって電車で帰宅。

駅に同じ市内の下の娘が迎えに来てくれて車で帰宅。

楽しい一泊旅行であった。

これも弟の功徳、と言いたいところだが、仏教の葬儀を嫌った弟だから「恵み」と言っておこう。

 

 

 

 

エミリ・ディッキンソンの名前が明確な輪郭を持ったのは、サイモンとガーファンクルのこの「The Dangling Conversation (邦題 夢の中の世界)」から。

 

気だるい光の影が カーテンを通して床をなぞる、、

お互いに見知らぬ人同士のように寝そべって

 

あなたはエミリ・ディッキンソンを読み

僕はロバートフロスト読んでいる

 

二人の間に行き交うすれ違いの会話、、、

そして偽の、知ったかぶりのため息

 

二人はそれぞれの本に栞をはさむ

その読んだ厚みが、僕らが失った時間の証

 

リズムを欠いたぎこちない詩のように

とぎれとぎれの時間、すれ違いの会話

 

うわべだけのため息

それぞれの人生の岐路

 

愛の邂逅は、儚く

一瞬の亀裂で、互いの実存へと引き戻す

その儚さを「夢の中の世界」、、、と意訳したんでしょうか。

詩は夢の中とは程遠い二人の危機ですが。

 

まあ私の訳も飛躍ですが、、、、

 

エミリ・ディッキンソンは1830年、北東部ニューイングランドの田舎町の生まれ。父親が弁護士、議員でもあった名士の家に生まれる。兄と妹の三人兄妹。

英国からの入植地で17世紀以来のピューリタニズムの伝統の中で育つ。

17歳の時アメリカ最初の女子専門学校に学ぶが、

地獄の恐ろしさを説くと同時に内面の感覚的な「回心」の体験の告白を要求する「信仰復興運動」のさ中、原罪という観念、従ってまたキリストの磔刑による罪の贖い、義とされる事に納得できず、

自らの魂の叫びに忠実にあろうとして退学し自宅に帰る。

礼拝に参加したものの正式な教会員には終にならず、次第に足も遠のいた。家族と特定の友人以外の交わりを持たず、詩作を唯一の伴侶として選ぶ。

地元の有力紙に詩を発表するが、選者の朱筆ー句読点や分詞などーに嫌気して生涯10篇のみが公にされた。

時は奴隷解放を理由に起きた南北戦争(1861-65)の時代、男性中心社会で、女性の参政権もなく、女流詩人は希少、かつ下位と見なされる存在であった。

腎臓を病んで1886年55歳で生涯を終えるが、死後妹のラヴィニアによって原稿が発見され、1890年最初の詩集が刊行され再版もされる。

しかしその詩が文学界に注目され始めたのは1910年代、本格的には30年代以降であった。

彼女の葬儀には愛唱したエミリ・ブロンテの詩「私の魂は恐れを知らない」が朗読された。

エミリ・ブロンテの詩について (芦澤久江)

より引用させていただく。

「私の魂は怯懦ではない

世の嵐に悩む領域で 震え戦く者でもない

わたしには 天の栄光が輝くのが 見える

信仰も 同じく恐怖から 私を護って輝く

 

おおわが胸の内の神

全能にして 永遠に在ます神

不死のいのちであるこのわたしが

あなたの内に力を得るとき

私の内に 安らい給ういのちの神

(NO191)

(以上岩波文庫「ディッキンソン詩集」、思潮社「ディッキンソン詩集」より編集)

 

 

題名の「静かなる情熱」とは矛盾語法だが、詩作には生前わずかに10篇ほど発表されたのみ、しかし書き溜めた詩は1700余。詩作には静かなる情熱を燃やしたものの、エミリの自由な魂に掣肘を加える様々な拘束、厳格なピュリタニズムや結婚や家庭での女性の在り方についての規範との葛藤が、時に怒りっぽく、例えば不倫の兄に対する厳しい非難や交際を求めてくる男性への取り付く島もない拒絶などの言動に現れる。

 

退学させられたエミリを父親は静かに家に迎える。

職業柄、地域社会でのプレッシャーもあった筈だが相当な人物だ。

時に厳格に子供たちに対するが、心身ともに病弱な妻に対する優しさが家族の絆を安定したものにしている。

恐らくエミリの性格から結婚生活には向かない、と判断したのだろう、彼女に対してあまり社交的な事を要求した形跡がない。

 

エミリは信教の自由を求めて移住してきたニューイングランドの、厳格なプロテスタントの社会で、女子学校での信仰告白の強制に屈せず、原罪に対する根本的な懐疑を表明する。

しかし神の存在を否定した訳ではない。

イエスキリストの復活と三位一体はどうであっただろう。

そこが信じられない私には重要なポイントだが、映画では語られていない。

 

特定の友人以外は親兄妹、あるいは兄嫁との狭いサークルで生活したが、逆に社交的な生活を送っていたなら、詩作に静かなる情熱を燃やす内面的なニーズは異なったものになったであろう。

自分が他人とかなり異なった孤独な存在である、と言う自意識と、自己内部に湧き出るいろいろな想念との彫琢ー自己欺瞞や自己満足を排しながらーを通して、波に洗われる石が玉になるように磨き上げられた言葉が書き留められたに違いない。

 

魂は自分の社会を選ぶーーー

それからーー扉を閉ざすーー

お偉い多数派にはーーもう姿を見せぬーー

 

私は知っているーー魂が大勢の中からーー

一人を選びーー

それからーー石のようにーー

関心の弁を閉じるのをーー

(303:1862中略岩波文庫より)

 

恋愛感情はどうだろう。

これは難問だ。

雄弁な説教家の牧師ワズワース夫妻を自宅に読んで茶を飲み、二人で散歩するが、そこにエミリの恋愛感情を読み取れるかどうかは曖昧にされている。

後世、ワズワースを含めて幾人か、その中には女性の参政権や黒人の地位向上に理解を示す  やはりうんと年上のベラルな批評家トマス・ウエントワース・ヒギンソンとの交流もあり、彼女がまた「結婚」(詩631番)や「愛」を匂わすような詩をいくつか書いている事もそれらの憶測を呼んでいる原因だ。

自由な魂は想像の世界も自由に飛翔する。

よって「夢の中の世界」の出来事、としよう。

 

最後にテレンス・デイビス監督はイギリス生まれの71歳。

「遠い声、静かな暮らし」や「ネオン・バイブル」などの作品で著名らしいが、人間の内面的な葛藤ーそれは宗教や因習との衝突を含むがーを描くことをテーマにしているらしく、興味をそそられるが、レンタルでは見当たらなかった。

 

 

 

 

旅行中、猫の姿は全くと言ってよいほど見かけなかったし、犬も二度見ただけである。

釜山ではチャガルチ市場に出かけたし、ソウルでは明洞や南大門の繁華街や路地商店街にも出かけた。日本ではお寺も猫の多い場所だがそこでも見かけなかった。

そこで帰国後いろいろと調べてみると根深い迷信があるらしい。

猫に対して間違った接し方をすると、7代にわたって縁起が悪くなる、または、復讐されるという迷信がまだ残っています。いまだに、飼っていた猫が死んだ後、復讐されるのではないか心配する人を周りで見かけることがあるほどです。

http://mottokorea.com/mottoKoreaW/QnA_list.do?bbsBasketType=R&seq=23354

韓国の今を伝える「もっとコリア」より

 

一方犬は、慶州のシティツアーの昼時、青山食堂の裏庭でシェパードを見たし、ソウルからの「扶余世界文化遺産一日ツアー」の途中寄った百済文化村(テーマパーク)の広い前庭に土砂降りの雨の中きつね色の犬がトボトボと歩いているのを見かけた、しかしこの二匹だけである。

韓国は伝統的な犬食文化が今も残っており、国際的なイベント、オリンピックやワールドカップがあると欧米の動物愛護団体から非難される。

来年の平昌オリンピックではどうなるか。

この辺は犬や猫をペットとしてのみ飼育する国との違いであって、一方的に非難するのは余りにも独善的だ。

中国も犬食文化、日本も戦後の食糧難の時代は犬食されている。

 

猫は迷信が関係しているらしいが、韓国のキリスト教の特徴として、そのシャーマニズム的性格が言われる。

迷信深さはシャーマニズムの土台だから、韓国人は案外、不安が強く他人の扇動や教唆に動かされやすいのかも知れない。

もっとも日本人も迷信深さでは引けを取らない。

血液型性格判断や占いブームは記憶に新しいところだ。

 

韓国のプロテスタント教会は、教団や「地域コミュニティに根差した宗派、というより牧師のカリスマ性で信者の数が、したがってその盛衰があるらしい。

それは一方では聖書に基づかない、カリスマ的人物の「お告げ」、まあ福音と言ってもよいが、それを布教し刷り込んでいくとカルトに限りなく近くなってしまう。

これを、「韓国の信者はシャーマンが神と人間の仲介者の役割を果たす巫俗信仰に慣れているために、牧師を祭司と見る傾向が強い」、という。

霊感商法や合同結婚式で騒がせた統一教会は韓国出自で安倍晋三とも深い関係がある教団だが、韓国ではキリスト教団が警戒し監視活動をしているという。(以上韓国とキリスト教から引用)

 

宗教といえば、インドに源を発するヒンズー教は、南アジアから東南アジアに広がったが、ソウルの国立中央博物館で、豊穣の神ミトナの像があった。

その説明書きに「官能的な愛が魂の美しさを最もよく表す」とあり、なるほどこういう理解の仕方があるのか、と感心した。

ルッキーノ・ヴィスコンティの傑作「山猫」で、サリーナ公爵が

「血なまぐさい事件の数々も、我らが身をゆだねている甘い怠惰な時の流れも、すべて、実は官能的な死への欲求なのだ」

https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12289435466.html

ZELDA さんのブログ「シネマの万華鏡」より

と語る場面があるが、エロスとタナトス(死への衝動)を表裏一体のものとしてとらえる時、死もまた官能的なものである、と言えるだろう。

しかし「官能的な死」が「魂の美しさを表す」か否かは公爵の美意識の内に、生き方の内にあり、孤高で貴族的な公爵の魂はまぎれもなく美しくあるだろう。

 

「官能的な死」については、サルヴァドール・ダリに同名の絵がある。

 

 

 

 

 


私は選挙区が近い事だけではなく以前、月例の勉強会に出席していた事もあって、枝野議員を支持している。

が、同時に今回の民進党代表選が「保守系の前原」「リベラルの枝野」という外野席の高みの見物に惑わされる事なく、自公の利益誘導型政治とは別次元の、「国民的視野で、どのような政治を目指すか」と、安倍政権の広告代理店的手法、つまり、売れたものが道義的にも善であるかのような欺瞞に満ちたネオリベラル的手法に対抗して、政治の「真面目さ」「誠実さ」を、つまり「政治に対する信頼感」を取り戻す視点に立った代表選であって欲しい、と切望する。

その意味で学ぶ事の多い井出先生のブログを転載する。

韓国は時差もなく、気候も梅雨時で周囲の服装にも違和感がなく、ハングル文字を除けば「異国情緒」はあまり感じない。

 

釜山は何となく大阪の匂いがする。

中高年女性のちょっと派手目の、金ラメ入りの服を見ていると益々そう感じる。

 

千ベロ、と銘打ったが千円でべろんべろんに酔っぱらうには酒手が安いことが絶対だが、ビールの中瓶が4千ウオン(約400円、以下千ウオン百円換算)で、ホテルは別にして街中の食堂では何処も400円。もともとべろんべろんに酔うまで飲まないが、7~8本は軽く行けるだろう。

とすれば、とても千ベロ、とはいかない。

それに日本語や英語のメニューがあるところは限られていて旅行者には「穴場」を探すのは無理。

もちろんB級グルメ本持参で行ったのだがハングルを解さないと目当ての場所に行くのは相当難しい。

 

食事や衣類など物価は日本とそう変わらない。

アウトドアのブランド品は日本だと夏物はセールが終わっているが、むしろ高いくらいだ。

しかし公共交通機関、タクシー、地下鉄、新幹線、みな相当安い。

唯一の例外は明洞から乗った空港行の席の広いリムジンで1500円。

そう言えばタクシーも高級クラスがある。

地下鉄の車両も駅のホームも広い。

これは地上の道路が広いことに依るだろう。

感心したのは若者が席を譲る事。

優先席にどっかと座ってスマホをいじり、高齢者や妊婦、子供連れが来ても見向きもしない「美しい国」の若者とは大違いだ。

普通席の前に立って席を譲られたことが実に三回もあった。

郊外に出る電車は比較的空いていて楽に座れる。

 

韓国のキリスト教信者比率は約日本の10倍。

宗教を信仰している人は全体の53%。

最も多いのは仏教徒で22%。次いでプロテスタントが18%、カトリックが11%であるから3割近くがキリスト教信者である。

実際釜山でもソウルでも教会の尖塔を多く見かけた。

特徴的なのは釜山は仏教徒が多く、ソウルはプロテスタントが多いこと。

「韓国とキリスト教」(中公新書浅見他)によれば、かくもキリスト教がこの地に浸透した理由は、

①韓国の創世神話の「ハナニム」はシャーマニズムの最高神で、キリスト教の「主」に近い。

②韓国最後の王朝、500年続いた李朝は儒教、特に朱子学を国学としたが、理性(理性というよりは道理に近い、というのが私の解釈だが)を前面に打ち出し、儒教的「理」を継承したものを「理のキリスト教。感性を全面的に打ち出し、シャーマニズムや仏教を吸収したものを「気のキリスト教」と呼び、両者が合い離れずの関係でキリスト教の発展原因になった。

③韓国には「恨ハン」という概念がある。小倉紀蔵によれば、「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所への『あこがれ』とそれへの接近が挫折させられている『無念』『悲しみ』がセットになった感情であるという。「恨」は日本語の「うらみ」に通じるところはあるが少し違う。「恨み」は相手に復讐することで晴らすものだが、「恨」は「人生の長い旅路において、人間はどうしようもない運命に翻弄され、苛まれ、苦しむ」ので、「いつの日か結ばれた心の結び目を解くことによって解消される」ものである。

これはこのブログでも、映画「ローマ法王になる日まで」で教皇フランシスコが「結び目を解くマリア」に邂逅する場面があるが、まさにピタリと符合する。

④日本の植民地支配に対抗するために、天道教とキリスト教が朝鮮民族の精神的支柱であった。プロテスタントは民衆の中で広く受け入れられたわけではなく、運動を主導した知識人たちが主流であった。

それが、解放。独立となった時、米国からの宣教師が布教に乗り出したことと相まってキリスト教の「威信」を高め浸透していった事もあるだろう。

(上掲書p134~153を参考にした)

 

日本のプロテスタント教会は「国家神道」にも「植民地支配」にも妥協し正当化したが、戦後その姿勢は誤りであった、と韓国のプロテスタント教会に謝罪している。

 

恨で思い出したのが「演歌」。

慶州の石窟庵のバス停近くで、昼食休憩になった時、青山、という食堂でチゲを頂いたのだが、その時テレビで日本の演歌そっくりの歌番組を放映していた。勿論歌詞はわからないのだが、メロディで感じるものはあり、共通の心情が流れているんだろう、と強く感じた。

 

今日はフィットネスで汗を流した後、ホテルのフロントで、参観可能なプロテスタント教会の日曜礼拝に参加して、午後仁川空港へ、と大まかな予定を立てていたのだが、6時半に地下一階のフィットネス・スパは真っ暗闇。フロントで聞くと日曜日は休み。

日曜こそ宿泊客がフィットネスのニーズは高い、と思っていたのでびっくりするが、受付前の立て看板には確かにそう書いてある。この思い込みは間違っているとは思えないが。

仕方なく出発の準備をし、行きたいと思っていた明洞の永楽教会に、幸いなるかな、外国人席が設けられている、とググってわかったので9時半からの礼拝に出かける。

 

行きがけにベルデスクで日本語のわかる彼にレイトチェックアウトを頼む。

14時まで無料で使える、と言うので是非、と依頼する。

 

永楽教会の場所をベルで確認して9時過ぎには到着。

続々と人が集まってくる。

英語で外国人席があると聞いた旨言うが、英語を解せる人がいない。

で連れで来てくれた人に言うと、その席まで案内してくれる。

そこで日本語のわかるご婦人から日本語の礼拝次第を受け取り席に着くが、日本語の聖書・讃美歌、それにイヤホンガイドが据え付けられ、英語・日本語・ロシア語の3チャンネルがある。

 

説教が始まるが、「キリスト信仰の確信を基に世の中に堂々と立ち向かって勝利する」という、とても世俗的な内容と、「北朝鮮の人たちに憐れみを」と祈る、この2点が印象的であった。

通訳は女性の同時通訳。

 

讃美歌は。当たり前だが皆韓国語で歌い、日本語の讃美歌を見て唱和するのはとても難しい。

のでアーメンだけ唱和。

 

礼拝は一時間ほどで終わり、教会の中を案内してくださる、と言うので喜んでお願いする。

礼拝堂の収容は3000人。二階席がある。

日曜礼拝は昼5回、夜一回。

永楽教会の信徒数は50万人。

韓国内でも歴史と伝統がある有数のプロテスタント教会だ。

永楽教会の創立者は韓景職師(1902-2000)。

現在の北朝鮮に生まれ、信徒となって米国に留学。帰ってきて故郷の近くに教会を作るが、日本帝国主義朝鮮併合時代は辞職させられるなどしたが、終戦後は共産主義者から圧迫され、ソウルに移住して新たな教会を始める。それが永楽教会。

戦後はカトリック教会や仏教徒と共同で復興の精神的支柱となる活動をして声望を高め、同時に教会が発展拡大する。

戦時中は孤児院を作り、戦後は寡婦が増えると母子園を作り、身寄りのない老人のためには敬老園を作る。

自分とは言えば身一つの清貧な生活を送り、自身の名義で保有した不動産もなく預金通帳一つなかった(「韓国とキリスト教」浅見雅一,安廷苑著)。

こうした彼の事績と遺品(まさに靴と帽子のみ)と彼の執務室が記念館にある。

この記念館韓牧師の経歴を拝見して、説教の中で「苦しんでいる北朝鮮の人々に憐みを」と祈ったのは、教会の来歴のせいもあるのだろう。あるいはこうした考えが文新大統領の「対話路線」支持、にも繋がるのだろう。

どんな理由にせよ戦争は悲惨だ。多くの戦死者、孤児、寡婦、難民をもたらし、その惨禍は3世代以上に悪影響を及ぼす。 知恵を搾り出すのが進化の頂点にある人類の責務だ。

図書の中に日本語の本を探すが20点以上ある。

日帝時代に日本語を学んで相当なレベルであった、とのこと。

案内していただいたのち、事務室でコーヒーを頂く。

その席に上品なご婦人が居て、その方が同時通訳。

 

11時ごろお礼を言って(なにしろ礼拝後記念品もいただいた)辞し、ホテルに帰ってしばし休憩。

昼食後、ここから数分の空港リムジンのバス停から仁川に向かう予定だ。

すでにウエッブチェックインを済ませてある。

昼食は昨夜と同じ中華、「黄山 火鍋」で取る。

黄色は五行色の中心にあって帝位を示すから、随分と大きな名前を付けたものだ。

止めとけ、といわれた辛い麺を注文するが、口の中が火で焼かれたように熱い。

深での器に水を入れて、その中で洗って、牛肉や野菜、麺を食べるが、それを3個使ったところでギブアップ。

 

インチョン空港行きのバス停はホテルから4~5分の距離だが、ルート6015のデラックスバス使用がすぐ来る。15000ウオン。紙幣をここで綺麗さっぱり使い切る。

途中、日曜日にも拘らず渋滞があって、尿意を我慢するのに苦労する。

昼間2本もビールを飲んだ咎が来る。

空港では持参のドルで買い物。

イカの塩辛が10ドルもする。何でこんなに高いのか?と思うが同時にどんな味がするのか興味も湧く。

成田着は20時過ぎ。帰宅は23時、就寝は0時半。

よってこのブログは、ホテルで書いたものを31日朝書き足してアップする次第。