Gon のあれこれ -28ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

今日は早朝から百済の古都扶余への一日ツアー。

7時50分明洞発で朝食堂は7時オープン。

食後ある程度胃が落ち着いてから出発するのが常だがその時間はない。

35分ごろ集合場所に到着して待つあいだ、日本人女性の二人連れや老夫婦が集まってくる。

7時50分過ぎにマイクロバスがやってきて乗車、全部で9名。韓国人女性と白人女性の二人連れ以外は皆日本人である。 が同行のガイドは英語しか話せぬ韓国女性。

 

百済は5~7世紀に新羅(慶州)高句麗と共に半島の三国時代を築き、聖明王が538年、日本に仏像と経典を届けた。

これが日本が仏教に接した初めである。

インドから中国を経てきた仏教は、いわゆる大乗仏教で釈迦のみならず大日や弥勒やこもごも数多の仏が居るが、原始仏教、上座部仏教は伝わらなかった。

日本では聖徳太子と蘇我馬子が組んで積極的に導入するが、このプロセスは権力闘争でもあって後の政変につながっていく。

そして唐・新羅に攻められた百済が日本に援軍を求め、これに応じた日本が扶余の白村江で663年公開土王に惨敗し、これが壬申の乱へとつながる。

敗れた百済の王子以下貴族や工人を含む700名以上が日本に亡命、帰化した。

しかし新羅や高句麗の影響が強まった日本での居心地は必ずしも良くはなく、恐らくは奈良の外れ滋賀に移住した。

 

前置きはこのぐらいにして、バスは高速を車線の広いところでは優先路線を走るが、土曜日とあってソウルに向かう車線よりも込んでいる。

二時間近く走った後サービスエリアで休憩。

大きな施設で人もごった返している。10時少し前だが飯を食っている家族連れや団体客の多さに驚く。朝飯抜きで出てきた、と言うことか。

扶余ではまず百済王朝人の庭園、宮南池へ。

相当に広大な蓮池であるが、アマチュアカメラマンの多いこと。

カップルで、男女の一人と大概は老人の一眼に望遠をつけた本格的ないでたち。

撮影した写真はどうするのだろう。 発表の場でもあるのだろうか。

同時に写真をとるべき場所に、二人ブランコなどをわざわざ配置して居るのを見ると笑ってしまう。

男女のカップルで女性が場所やカメラの位置を指図してポーズをとる。

どこかで見かけた風景だが、実に韓国女性はポーズ写真好きだ。

造花の花で遊歩道やアーチを飾ってあることにも少し違和感を感じるが、感性が違うのだろう。

 

次は目当ての世界遺産定林寺。

この五重の石塔は世界でも、と言っても仏教伝搬の東洋世界だが初めてらしい。

すべて石組みでやや風化してしまっているが、保存策が必要だろう。

寺址に博物館があって、熊本から来たボランティアの女性のガイドがある。

百済滅亡後、百済本紀はあるものの、寺の記述はなく資料が乏しくて再現に苦労しているらしい。

また移住した百済人が滋賀の蒲生で石塔寺を立てて故郷を偲んだことも興味深く伺った。

 

昼食は韓国レストラン、と言っても大衆的なところだが、チョイスできる、問うことで冷麺を頂く。

ビールも自腹でいただくが若い女性カップルもビール、他はコーラ、ジュースだ。

 

その後韓国の伝統的なオペラを鑑賞ーさっぱりわからないので半分居眠りをしながら見るが、韓国の人たちの熱狂はすさまじい。主演の美男美女にファンもいるのだろう。

次は最後の目的地百済文化団地へ。

百済王朝の復元した王宮やその一部にあった仏寺を、日本語ガイドさん(韓国人)の説明で聞く。

桓武天皇の母親が百済からの渡来人であったことなどは知らないらしい。

西側に当時の集落を再現したところがあったが、土砂降りのにわか雨の襲来でゆっくり見て回れなかったのが残念。

 

新羅の慶州でも、昌慶宮でも感じたのだが、宮廷の建設には「風水」の影響があったように感じる。

風水は道教源流だから、仏教や朱子学は馴染まないが、あるいはそのせいで言及されないのかもしれないが、どこに何を配置するかについて、その影響を感じるのだが。

 

明洞帰着は午後7時。

翌日帰国の準備をしているともう8時過ぎだ。

遠出する時間も気力もなく、近くの「困ったときは」の中華料理屋で夕食。

スタイルの良いウエイトレスが、私は中国人ですが、あなたは何人?と中国語で聞いてくるが、リーペンレンと答える。漢字で筆談をしたせいか。

 

と言う次第であっという間に10時近くになり、就寝。

 

 

毎日よく歩く所為か、食欲もあり、寝つきが早い。

今朝はソウルのホテルパシフィックのフィットネスでスタートする。

事前のホテル情報ではサウナを含めて男性専用とあった。

前夜の確認では7時からであったのでジャストインタイムで行くが、すでにオープンしている。掲示を見れば6時半からではないか。

すでに4~5人居るがスパに入りに来る地元の人もいるようだ。

小一時間ウオーキングや筋トレをするが太極拳などの套路をするスペースはない。

仕方なくシャワーを浴びようとするがスパにはサウナや温水プール、ジャグジー、木製の風呂がある。実は後で知ったのだが宿泊客でも1000円弱の利用料が取られる。

 

さっぱりとした後、食券をフロントでもらって朝食堂へ。

質的には釜山のパシフィックハーバーと変わらない。

 

今日の予定は、二村で、国立中央博物館と国立ハングル博物館を訪れる事。

久野氏の「仏像の来た道」によれば、同博物館で仏像の変遷を見る事あができる、とのこと。 しかし1985年出版なので現状はどうだろうか、との一抹の不安もある。

 

地下鉄は時計回りで途中乗り換えて行くが、乗換駅で突然韓・英表記のみとなる。

やむなく中年の二人連れのご婦人に聞いて確認。

駅から多少歩くが途中までは雨に濡れずに行ける。とても大きな建物だ。

内部は大理石をふんだんに使っている。

半島の先史時代から李朝まで順次観覧する構成だが、実は逆に、つまりだんだんと時間を遡っていくように見た。

先に述べたように釜山で「国立金海博物館を見ているので、違和感なく観覧ができる。

カウンターで日本語音声ガイドを借りて回るが、半島と列島との関係は深い。

指呼の間にあれば、しかも大陸と列島の間にあってその交流の中継する位置にあってみれば当然だ。高麗後期に圃陰や牧陰ら儒学者が「セイリガク」に多大な貢献をした、とある。

このセイリガクは朱子学の性理学で、森羅万象の性(本質)は理であり、性即理である。

その性の物象化が、自然や人の生に現れたものが「気」である。理は「(本)体」、気はその「用」である。と言うのが私の朱子学理解だが、太極拳では套路を,体 推手を用とする。

朱子は12世紀の人だが早くも半島ではまつり(政)ごとの根幹になっている。

高麗時代は仏教の時代、と先入観があったのでやや認識を改めた。

 

音声ガイドの所為で3時間強経過して午後二時半になる。

昼飯を食べてからハングル博物館へ、と思うが駅周辺には何もない。

博物館の反対側に出ると小ぶりな商店街があり、中華料理屋で水餃子にビールを昼食とする。

 

ハングル博物館は学齢前の子供を連れたお母さん達や私のような外国人で結構込んでいる。

ここでも音声ガイドを借りたが、あまり内容が無い。

こういう博物館の構成、というかコンセプトを決めるには、非ハングルの観点から作った方がもっと面白いものになるのではないか。あまりにも自国のプライドに偏りすぎている気がする。

 

帰りはソウル駅経由で明洞に直行して、ホテルで一休み。

夕食は南大門の市場に出かける。

ずいぶんシャッターが降りていて、数年後には雰囲気が変わってしまうだろう。

太刀魚通りも見つけられず(休場?)、点在する韓国料理屋もその衛生状態に今一納得できなかったので、結局はホテル周辺で探す。

 

金曜日の夜の所為か結構客が入っている。

一方、韓料理屋は邦貨3000円以上のメニュー限定だし、グリルと称する鉄板焼きの店は、そのメニューを頼まないと一品料理は注文できない仕組みだ。

ずいぶんと売り手市場だな、とあまりいい気分ではないが焼肉にビールで夕食とする。

明日はKONESTという、観光の総合サイトにあった「扶余世界文化遺産一日ツアー」で朝7時50分集合だ。朝食堂が7時オープンで朝飯をどうするか悩ましい。

ともかく朝早いので早く就寝する。

 

 

今日はソウルへの移動日であるがホテル発が9時頃なのでフィットネスは6時開始。ウオーキングマシンはGALA製でファンがついていて心地よい。

筋トレマシンは米国のHOLST製。

ひととおり使用して後いつものウオームアップ。韓国人のカップルが来場。

今日は崔氏56式と五行拳の慢練。床がフローリングで滑りにくく足がふらつく。結局体重移動に伴う軸がきちっと出来ていないからなのであるが、それに気づいてからは少し改善する。

ホテルのダイニングで朝食後チェックアウトして出発。

フロントの男子スタッフに、新幹線のレール、車両運行サービス会社の分離経営をしているのではないか、と確認するがあいまいな答え。

となりの女子スタッフがその通りです、と言う。

レストランでもなんとなく女性がリードしている風で、男はマッチョコンプレックスだが女性が案外強いのかもしれない。まあ推測の域を出ないが。

その運行会社はKTXとSRTだが両社の合同の運行表が無いのが不便だ。

 

地下鉄もそうだが新幹線は広軌で一等車は1プラス2席で日本のグリーン車よりゆとりがあり、リクライニングも座席が前に滑る仕組みなので席を倒して後ろの人に迷惑をかけることが無い。

ソウルまで二時間強。料金は特急券込みで9000円弱。

韓国は地下鉄、タクシーともに公共交通機関の料金が安い。

移動が増えればGDPも増加する。賢明なやり方だ。

ソウル駅まで3800ウオン。あまり近間で気の毒な気がしたのでチップに1200ウオン。運転手は却って恐縮していたが、足しても日本では初乗り運賃程度。

 

ソウル駅到着後ホテルへタクシーで。

チェックインは14時で、二時間余りある。ベルにスーツケースを預け、フロントで現地ツアーの連絡依頼をする。

日本語ガイドのツアーは相当に値段が高くなる。しかも最低運行人数は2名で、一名で申し込むと、二名分の料金を取るケース、つまり他に予約者が居ない、と言うことでもあるが、慶州、ソウル市内、扶余(百済)などへいくツアーは軒並み催行中止である。まあ催行側の悪循環でもあるが。

結局ソウル市内は自分で行くこととして、扶余行きのツアーをホテルチェックイン後部屋でネットを通じて申し込みをした後、4時ごろに世界遺産昌徳宮に地下鉄を利用して出かける。

同宮は徳川よりやや古く始まって500年近く続いた長命の李王朝の宮殿である

李朝は朱子学を国学とした王朝で、新羅や高麗は仏教であるから、かなり異質で、それが建物のあり方に出ている。

朱子学と言えば、王宗岳(生年など不詳)の書いた太極拳論は朱子学が根本にある。

韓国の国旗は「太極旗」で、その四隅に易の乾坤などを配している。

自然の理、人倫の理を究明して政治に生かす、一種の哲人政治。

建物の配置や建築にそれを生かそうとする分、隙のない緊張感が漂う。

 

入門とは違う出口に出て方向感に誤りが生じ、結果90度違う方向に向かう。

すれ違った若い女性の二人連れに地下鉄の駅を聞くと、スマホで検索して教えてくれる。旅行にスマホとWifiの持ち歩きが必要になった時代を痛感。

帰りの地下鉄で二度も席を譲られた。いかにも旅行者らしい身なりか、くたびれた様子からか、、、しかし若い人に譲られるのは一面気持ちがいい。

 

ホテル帰着後、いろいろ探したが結局ホテル近くの韓料理屋で豚の腸詰めが入った鍋にご飯を入れて食べる。結構旨い。

おなかがくちくなって眠くなり、書きかけになったブログを翌朝、朝食後に書き足してアップする次第。

 

 

 

今日は日本史でお馴染みの新石器時代からの半島と列島の交流、5~6世紀の「任那日本府」の資料がある、と言うことで、大成洞古墳博物館と国立金海博物館へ。

 

月曜、火曜と朝早くから行動してきたので、今日はゆっくりとしたスケジュールにする。

フィットネスは7時過ぎから。一時間強で今日は五行拳の慢練までこなす。

部屋に帰ってシャワーを浴び、朝食堂へ。

ここは朝食込ではないので係の人に申告してビュッフェ台へ。一人約1900円。

高いか安いかは、その人がいつもの朝飯以上のリッチ感が得られるかどうかだろう。

生野菜やセリアル、ハム、卵、ジュース、ブレッド、果物、ケーキ類のバリエーションや質(果汁度とか)、ご飯があるかどうか要求は多彩だ。ホテル側はビュッフェで提供速度やサービスの簡素化でメリットを感じているのだろうけど、顧客満足を視点に据えて考えると簡単にメリットがあるとは言えないだろう。原価率一辺倒では往かないので結局結構高い値段設定にならざるを得ない。

その点ではあまりお客の満足を得ているとは言えないように感じた。

韓国人客が多い、それもカップルや子供連れ多いのはこちらも夏休みには入っている所為もあるのだろう。

 

ホテル発は10前だが、途中銀行で両替、コンビニで交通カードに料金をチャージするなどして地下鉄乗車。乗り換え二回で一時間強かかって大成洞博物館に到着。

二回目の乗り換え後は無人のモノレール。眠気を我慢して通過駅を確認する。

 

ウエッブ上のガイドには日本語ガイドがいる、との事だが案の定 居ない。

中国語ガイドさんが申し訳なさそうに謝るが、彼女の所為では無しなので反ってもやもやする。

展示の説明はハングル、英語、中国語、日本語の順にある。

任那日本府に関しては、朝鮮併合を強行した帝国日本政府はその正統性を求めて必死になって日本府の証拠を探したようだが、結果として逆効果になったようだ。

つまり金官加耶の方が鉄器生産が早く、2世紀には楽浪、帯方、倭などに輸出していたこと。古墳の副葬品や殉葬などは北方の文化の影響と思われる、などの理由から「日本府」は日本書紀の自らを正当付けるための脚色であったとする。

 

金海国立博物館でも日本語ガイドは居なかった。

展示を見て感じるのは、鉄がもたらした生産革命、戦争革命。

石器ー青銅に比べて農具としての、あるいは調理道具としての使用からもたらされた変化はドラスティックなものであったであろう。

武器としても防具としても相当な進歩が鉄器生産によってもたらされたことが展示からもわかる。

鍛冶屋じゃないか、といって軽視するのは無知無学の証拠である。

鉄器生産にかかわる工人こそ、身分の高さと一種のオーラを纏った存在であっただろう。

それは王や皇帝の出自にも鍛冶屋である、と記すケースもいくつかあることで知ることができる。

金官加耶はAC400年の高句麗の伽耶出兵で消失するが、それまでは鉄の生産で最先端を行き、それを輸出するなかで貿易のノウハウを培い、後には中国から日本などへの輸出の中継基地として栄えた。

 

国立博物館を見終わったのは一時頃。

近くに食堂らしきものも見当たらず、一時間以上かけて海雲台まで行ってみる事にする。

それは沖から金海や釜山の海岸線を見たかったこともあるし、晴れていたので対馬は見えないだろうか、というのもあった。

 

到着後海水浴場に出てみると大変な人だかりである。

やや風があって遊覧船の出ている様子はない。

また残念なことに対馬も見えない。

そこで割に流行っている韓国食堂でビール付きのポークスープご飯付きで昼食。

 

ホテルには4時過ぎに帰って、明日のソウル移動に備えて荷物の仕分けをしたのち、西面に地下鉄で出かける。

目当ての店は見当たらない。

市内観光などでもウエッブ上の情報が当てにならないと知ったので、これは残念な点である。一方今日感心したこともある。地下鉄の優先席には若者は座らない。

どっかと座ってスマホをいじり、知らんふりする日本の若者は多いが、今日一日3時間近く乗ったがそんな者は一人も居なかった。

 

 

 

 

 

 

部屋の冷房が効きすぎて、夜中に何度か起きて身体がすっきりしない朝6時半、折角フィットネスの身支度をしてきたのに、、、と貧乏人根性で営業時間をチェック。

なんと24時間営業ではないか!

少しばかり感激して持参の短パンをはいて出かける。

ドアは半開きで真っ暗だが自分で電気空調をつけてランニングマシンから始める。

床はフローリングでランニングマシン5台、バイク2台、筋トレは10種くらいあってなかなかの充実ぶり。

一通り終えて傅氏26式でもやろうか、と思っているところに新入りが来る。

サンダル履きだがなかなかガタイがよくて英語で挨拶してくる。

 

今日は慶州シティツアーに乗るために釜山発8時40分の新幹線KTX乗車。

昨夜のおにぎりを日本茶で流し込んで8時10分過ぎにホテルを後にする。

乗車時間は30分ほどだが、ツアーの出発は10時半。

接続が悪いがやむを得ない。

駅で待っていると途中からバケツをひっくり返したような雨だ。

先週はソウル近郊の仁川でゲリラ豪雨禍があったから気を付けるように、との外務省の安全情報もあったので、いざという時の事も少し考えておく。

 

このシティツアーは韓国語のみのガイドで、車内での案内は何を言っているかさっぱりだが、次の観光地の日本語ビデオを流してくれるなど気を使ってくれるのが嬉しい。

大王陵、天馬塚、芬皇寺、食事休憩、世界遺産の石窟、仏国寺と内容豊富だが、「図説韓国の歴史(河出新社)」や「仏像の来た道(NHKブックス)」などで予習はしたものの準備不足で消化不良である。

特に小林恵子氏の著作は中大兄(天智)は百済系の王、大海人は高句麗系の王子、、何しろ読んで頭が一度ひっくり返ったので,この記憶自体怪しいが、それを再構成する暇もない状態であるから、今一度、バスの車内で前述の資料を参照しつつ間に合わせながらの綱渡りである。

 

石窟庵の仏像については、釈迦仏か阿弥陀仏かの論争があったようであるが、日本語ガイドさんに確かめると、釈迦であるとの答えであったが100%確定は出来ていないらしい。

釈迦説の根拠は十大弟子が釈迦の周囲に彫られていること。

釈迦の背後には十一面観音像があって、その写像が掲示されているが、なかなかに美しい。仏門に入って修行を重ねたか、在家の多額の寄進者のみが特権的にそれを拝めるのだろう。

 

同じ世界遺産の仏国寺は長い間荒れ寺であったが70年代に復元されたらしい。

正面向かって左の釈迦塔は世界最古と言われるらしいが、とても美しい形。

途中でボランティアの日本語ガイドさんに会って話をする。

彼女自身、來世を信じる仏教徒で、現世で功徳を積むと死後報われる、と信じているらしい。そういう人たちが多い、と言うことは悪くない社会だ。

 

慶州の主な史跡などを巡って感じるのは新羅時代の文化文明の高さ。

天馬塚の翼型金冠の美しさにそれを最も感じたのだが、7~8世紀の東アジアで最先端の位置にあったことを実感した。

 

帰途新幹線の時刻表をガイドさんに示して、6時台に間に合うかどうか聞いたのだが、脇にいた運転手が大丈夫だろう、と言う。

少し急いでくれて5時半前に新慶州駅に着き36分発に乗車して釜山に18時過ぎに着く。

途中慰山の駅周辺にホテルや新しいマンション群が建設されている。

ここに何があるのかは知らないが、釜山も結構大きなクレーンが立っていて活気を感じる。

 

ホテルで一休みをした後、駅からの帰り道、新しくて明るくて女性客も多かった店に出かける。写真のメニューで指し示すが、それはとても辛いから、と言っててんぷらの盛り合わせを勧められる。どうみても2~3人前だがビール二本で油気を中和させつつ食べるが三分の一くらいで、もう十分。

かといって物足りなさは残るので、ホテルのフィットネスから見た中国料理店に行く。

メニューは韓国語でさっぱりわからなかったが、壁に貼ってある写真入りの中国語メニューを読んでウエイトレスに確認。北京に個人レッスンを受けるために学んだ漢語の知識が役に立つ。ビア、と言っても通じなかったが、ピーチョウと言えば伝わった。

エビチャーハンに木耳のような甘タレをかけて食べる。

 

今朝は少し寝不足だったためか、とても眠く、このブログも書きかけて、いま26日の午前5時過ぎに書き足している。

 

追記:バスガイドさんは韓国語のみだが、世界遺産の石窟庵や仏国寺にはボランティアの日本語ガイドさんが駐在している。

朝5時前に起きて恒例の3W(Walking,WarmUp,Wushu)で今日は崔式56の套路と五行拳の慢練をこなし少し早めに帰宅して7時から朝食。

千ベロ、と銘打つからには贅沢は慎んで、と思って少し早めに出て日暮里から特急に乗車。  余裕で座れる。確かにスカイライナーに比べて時間は掛かるが、WEBチェックインを済ませた身には、出発の10分早発で15分ぐらいの遅着は大した問題ではない。

クレジットカードラウンジでコーヒーを飲んで搭乗。

釜山の海岸線を見たいと思って右の窓側で目を凝らすが如何せんランドマーク、例えばバルセロナのサグラダファミリアのようなものが予めインプットされていないと、どこがどこやらわからず仕舞いである。

しかし滑走路にアプローチするときの景色は違和感が全くない。

青々した水田や畑と、ハウス栽培のかまぼこ屋根。

着陸後タクシーでホテルへ。高速を使って邦貨2。000円くらいだから安い。

チェックイン後フロントの係に慶州のツアーの手配依頼をするが、自分でやってくれ、とのこと。現地エージェントに英語で手配。出発時間がウエッブ上とまるで違う。

韓国はまだ梅雨前線が北上せず、釜山もソウルも梅雨時のようだ。

土砂降りが止んだ後、セブンイレブンでCASH BEEを購入してついでに両替を頼むが、できない、とのこと。

ウエッブやガイドブックの情報は当てにならない。

慶州のシティツアーの出発時間、釜山ー新慶州間のKTXの時刻、、、

みな違っている。ホテルでKTXの時刻のコピーをもらうが、どうも当てにならないので釜山駅まで出かけて確認。ついでに席を予約する。

 

さて晩飯は、千ベロ、と考えてチャガルチ市場のホルモン、と定めて地下鉄で移動。

どうも決めかねて、日本語の歓迎文字を張り出しているところに入る。

ホルモン一式、邦貨約4000円。

ビール小瓶日本で締めて48000ウオン。

千ベロとは程遠い数字だ。

今日の反省は日本語表記に引き寄せられないこと。

釜山では、殆どがハングルの表記のみ。英語の併記もない。

大概の店では価格表示をしていない。

そんなことでつい入ってしまったが、明日は何とか頑張りたいな、と思ったところで睡魔が襲う。

今年五月に釜山・ソウルのひとり旅を計画したのであるが、大統領選に重なるなどして延期、エルミタージュを見にロシア旅行に変更したいきさつは、釜山・ソウルからサンクトペテルブルグ・モスクワへ でその次第を書いた。

ちょっとした経緯から連れ合いが上の娘と高知旅行をすることになったので、数日続けて晩飯を外食するのも気が進まず、かつて準備を始めた韓国旅行を決行すると決める。

 

通常旅する前にはテーマに沿った下調べをそれなりに整えてから発ちたい、と思っているのであるが、開催が始まったアルチンボルト展に関連してハプスブルグ家やルドルフ二世の事を調べ始めたのを放り出して、この旅行の準備を再開する。

少し準備不足は否めない。

 

「千ベロ」と銘打ったが、千ベロとは、千円でべろんべろんに酔える店の事。

つまりは路地裏の酒肴の旨い店で夕飯を食いたい、との思いである。

そうは言ってもハングルを解せ無い身であるから無謀と言えば無謀だが、頼みは鄭銀淑さんの「韓国ほろ酔い横丁」や「釜山の人情食堂」などの本が手掛かりである。

 

韓国史に関しては6~7世紀の韓半島三国時代に日本列島との、確定が難しく未だ議論がある問題、例えば任那日本府の実在性をめぐる論争は、日本側の資料が「日本書紀」であるが、それ自体の客観的資料性が疑問があることなどから、しかも日韓のナショナリズムの色彩も帯びて尚ややこしい論争が続いている。

それは置いといて、韓半島の南部と北九州とは一衣帯水、縄文時代から交流があったことは双方の貝塚の出土品から確かめられている。

かつて今上天皇が「続日本紀」を引き合いに出して、わが皇室即ち桓武天皇(737-806年)の生母が百済武寧王の子孫であり「ゆかり」を述べられたが、歴史修正主義者や日本会議派素人歴史家が何でこれにいきり立つのかが私にはわからない。

 

近年DNAの分析から日本人のルーツを探る手法が定着したが、我々は東アジアの吹き溜まりに位置して、中国南部、韓半島あるいはモンゴル高原の端っこのバイカル湖にルーツを持つ民族などと共通のDNAを持った人々の混血であることに何の不思議はない。

私などはこのことに少なからぬ誇り、というのは大げさだが「満足」さえ抱いている。

 

「準備編」といって始めたが、半島との交流の長くて深い関係を一瞥せずにはスタートラインに立てないような気がする。

もう一つ常日頃から感じるのは、韓半島の人たちと、海を隔てた我々日本列島民の意識の違いである。

 

自国の人口の25倍以上の強大な中国と、かつては共産圏の超大国ロシアという二つの全体主義国家に隣接し、古くはモンゴル平原からの騎馬民族の侵略にさらされた韓半島の人たちの意識と、神風によって「蒙古襲来」の難を逃れて他国の侵略を受けずに済んできた列島民たる我々とは、自ずから違うものがあるだろうと想像する。

 

もう一つはキリスト教である。

世界的にも有名な殉教の歴史を持つが、信者は国民の1%と言われる日本。一方の韓国は人口の3割で最大の信者数である。

日本以上に儒教国であった韓国が、戦後これほどキリスト教徒が占めるに至った理由は何であろうか、ということも知りたい事の一つだ。

 

さて準備であるが、航空券は大韓航空をJTBのサイトより購入。

万一の時の連絡などの日本語対応を考えるとJTB経由は当然の選択。

料金は勿論同じで不利はない。

ホテルはいつもながらの Booking.com

Wifi無料はもちろん、フィットネスクラブがあるホテルから、交通アクセスを考えて選択。釜山・ソウル各三泊の予定。

 

今回新しく買ったギアはショルダーバッグ。

エルミタージュでリュックが持ち込み禁止で、同行者のショルダーを拝見してなかなか使い勝手が良さそうであったのと、夏は背負うのは暑苦しいので好日山荘でパタゴニアの軽量の、折り畳みもできる物を購入。

街中で使うにはもっとそれらしいものはあったのだが、貧乏人の身なりに相応しいデザインのものを選択した。

 

付け足しだが、数日前から腰が痛い。

前回のロシア旅行では風邪と副鼻腔炎で咳と痰に悩まされ、処方された薬持参であったし、ロンドン・リスボン・パリ三都旅行の前には尿路結石で薬を飲みながらであった。その折いつか再発する、と言われていたので腰痛はちょっとしたトラウマがある。

まあ今回は毎朝の3W(Walking,Warm-up,Wushu)やジム通いにもさしたる影響がないので貼り薬で対応する。

 

ということで出発は24日の月曜日である。

 

 

 

 

先ず最初に遭遇した絵はバウツ(orボウツ)のキリストの頭部。

その説明には

宗教改革の胎動がヨーロッパに現れ始めた1470年頃の作品。ディーリク・バウツ(1410/1420-1475)はボスより二回り年上で、ファン・エイク兄弟とボスを繋ぐ世代の巨匠の一人です。髪の毛、眉毛、ひげ、まつげなどの細密な表現、そして薄い油絵具を何度も塗り重ねて描いた胸元の縁飾りの輝きは、初期ネーデルラント油彩画の伝統を受け継いでいます。

とあった。

この絵には既視感があって、帰宅後David Hockney の Secret Knowledge をチェック。彼の代表作「最後の晩餐」

のキリストと同じ顔である。

ホックニーは油彩画の革新者ファン・エイク(~1441)あたりから、レンズやカメラオブスクラなどの光学器を使用した、と述べているが、その痕跡を探るためにVixen 単眼鏡6×16を持参して細部を見るのであるが、頭髪の細やかな描写などから光学器を使用したらしいことがわかる。

バウツはこの絵のモデルをキリストだけではなく他の使徒にも使い回しした形跡があり、またホックニーはこの絵を一種のコラージュである、と述べている。

 

この展覧会の魅力は、残存する絵画が25点余のヒエロニムス・ボス(orボッシュ1450-1516)の絵が2点ある事。

彼の絵の多くはプラド美術館で見たけれど今回の展覧会の「放浪者(or放蕩息子)」

は様々な着眼点(例えば娼家の軒下で小便をする男)があって見るものを楽しませる上では「快楽の園」などの絵と共通なものがある。

もう一点の「聖クリストフォロス」

は幼子イエスを背負ったクリストフォロスの絵だが

大男が子供を背中に負い、大きな木の枝にすがるようにしてようやく池を渡っています。赤い服が風になびき、いかにも歩くのが困難そうです。巨人の名はレプロブス。背中の子供は実はキリストです。キリストは、世界を救済する神であるがゆえに世界と同じくらい重いのです。それ以降巨人はクリストフォロス(キリストを背負った者)と呼ばれ、中世末期の時代に旅人の無事を守る守護聖人としてたいへん人気がありました。ボスは守護聖人をリアルに描く一方で、飛ぶ魚、花瓶の家のこびと、吊るされた熊、蜂の巣を取る男、そして廃墟のドラゴンなど、不可思議なモチーフも沢山描きこんでいます。

左奥の遠景は不自然な肉欲に耽ったが故に焼け落ち神に滅ぼされたソドムとゴモラの街が描かれていると何処かで読んだ記憶があるが今は思い出せない。

 

ボスの代表作「快楽の園」は元より「放浪者」も「聖クリストファロス」も多種多様な要素が書き込まれていて、いわば判じものないし判じ絵を謎解きする面白さがあるのだろう。

それがボスの絵の人気の源泉であったと思われるが、フェリペ二世も彼の絵の愛好者であった。

そのフェリペ二世は母親ポルトガル王女イサベルの領地ネーデルランド(オランダ)を支配することになるが、ボスの後の世代のブリューゲルの時代にはカルヴァン等のプロテスタントが浸透、敬虔なカトリック教徒でもあったフェリペ二世はオランダのプロテスタントを徹底的に弾圧する。

それに反発して1568年独立戦争が起こり、80年戦争の後1648年オランダはついに独立を勝ち取った。

この間1609年平戸にオランダ商館を開設、1641年には長崎出島に移転しているから、そのあくなき商売熱には驚かされる。

さすがは「プロテスタンティズムと資本主義の精神」というところか。

 

ボスの死後10年くらい後に生まれたブリューゲル(1525-1569)はアントワープで後に妻となる娘の父クックに学ぶが、当時ボスの絵の人気は高く、ボス風の絵は庶民にも手に入りやすい版画を含めてよく売れたらしい。 クックの下でブリューゲルもまたボス風の絵を描いた。

 

1551年から54年にかけてイタリア旅行をした後、1563年マリア・クックと結婚してブリュッセルに住むが、そうするとウイーンの美術史美術館にある「バベルの塔」はそのころの作と言う事になる。

バベルの塔は創世記にある物語であるが、左下には神に反抗的であった都市バベルの支配者ニムロデ王が描かれている。

塔もまた大きな岩山を核に、岩山を彫ったり材料を加えて部屋を作ったりしている。

 

一方今回やって来たボイマンス美術館の塔は5年後の作だが

王の姿も岩山の姿もなく、、より高く、かつ完成形に近づいているようにも見える。

この年1568年は、その前年フェリペ二世の総督がブリュッセルに入城しプロテスタントに激しい弾圧を加え、それに抗してプロテスタントが反乱を起こした80年戦争が始まった年である。

ブリューゲルはカトリック教徒であったという説(「ブリューゲルの世界 森洋子著新潮社)も、プロテスタントの再洗礼派であったとの説もあるし、ロッテルダム生まれの神学者にして1510年代のヨーロッパの一大ベストセラー「痴愚神礼賛」を書いたエラスムス(1466-1532)の書に親しんでいたとも言われる。

「痴愚神礼賛」は人間社会の風刺に満ち、当時は反カトリック的と見なされたが、ブリューゲルの寓意画にその影響の痕跡を見る事は出来ないのであろうか。

ブリューゲルは死の床でデッサン数点を焼くように妻に指示した。それは余りにも辛辣な風刺を含んでいたのがその理由とされる。

残された妻子に危害が及ぶことを恐れたからと言われる(TASCHEN ピーテル・ブリューゲル)。

 

ところで、会場の拡大パネルによってバベルの塔の建設現場で働く人たちが多数書き込まれていることがわかる。

60 cm × 75 cm の小ぶりな絵に、塔の大きさを表現するために人物を小さく描く。これはブリューゲルが拡大鏡を使って描いたのだろう。

 

ブリューゲルの絵は40点中12点がウイーンの美術史美術館の所蔵である。総督エスターライヒとその兄、神聖ローマ帝国ルドルフ二世はハプスブルグ家であってみればその事に不思議はない。

美術史美術館には1999年9月16日木曜日に行って、ルーベンスやベラスケスと共にブリューゲルのバベルの塔や冬の狩人などを見た記録がある。しかし17-8年前の事であり今はむしろ「冬の狩人」の方を鮮明に思い出すことが出来る。

 

2019年にはブリューゲル没後450年を迎える。

ウイーンの美術史美術館やブリュッセルや今回の展示品を所蔵するロッテルダムのボイマンス美術館などで特別展が行われる予定、とのことで今から楽しみである。

 

 

 

 

昨年10月90歳で急逝したアンジェイ・ワイダ監督の遺作。

 

 

ワイダ監督の言葉

私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。どのような答えを出すべきか、私たちは既に知っている。そのことを忘れてはならないのです。

アンジェイ・ワイダ 2016年、初夏

 

監督の故郷ポーランドの生んだアヴァンギャルド(前衛)の画家ヴワディスワ・スツシェミンスキ(1893-1952)が、ソヴィエト連邦のスターリンの文化政策の転換によって始まった表現活動の抑圧によって 画家として、あるいは自ら設立に加わったウッチ芸術大学の教師の仕事を奪われ、彼を慕う学生の支援も空しく餓死寸前となり病に倒れて死に至る4年間を描いた作品である。

「残像」とは1949年のこの画家の連作「太陽の残像」から採られたと思われるが、同時に監督の「言葉」にあるように、当時の弾圧の「残像」が今蘇りつつある危機感の表れでもあるだろう。

 

言論の弾圧、表現の自由の抑圧は、共産主義体制下だけの問題ではない。

時の政府が、司法・立法・行政の三権分立を破壊し、司法も監督下に収めてしまえば容易に独裁政権になる。

それが極右政党「法と正義」の勝利によって今ポーランドで起こりつつあることである。

反リベラルが跋扈するポーランドの脅威

主としてシリア難民の欧州流入によって煽られたナショナリズムは旧共産圏のハンガリーから中欧のオーストリア、更にはフランスなどに波及してEUを揺るがす事態となった。

三権分立の破壊は今日本でも起こりつつある事態である。

裁判官や司法官僚を含む行政府の人事を安倍官邸が握ることによっておかしな判例が出てきている。

 

 

最近の森友学園や加計の問題は「忖度」する行政の姿を露わにしたが、裁判官も含めてサラリーマン官僚は自分の出世や天下りポストの事を考えて権力に逆らう事が出来ない。

加計学園の顧問弁護士だった者(加計理事長の同窓)をなんと最高裁判事に任命したのである。

安倍首相の親友が経営する加計学園の関係者を最高裁判事に任命! 司法までオトモダチで支配

 

言論の自由、表現の自由もまたこの映画にあるように権力が直接言論や表現内容を規制することで奪われる。

 

権力には必ずその手先に進んでなることで自分の保身や利益、あるいは支配欲を満たそうとするものが群がる。

 

映画「ハンナ・アーレント」で言う「悪の陳腐さ」である。
 
最近では、盗聴だけでなくSNSの監視やクレジットカード情報、携帯のGPS機能の情報を大量かつ高速で照合するハード・ソフトの開発で容易にプライバシーが奪われ、暗黙のあるいは明示的に「監視」することで、政府に対する批判を封じていく。これが映画「シチズン・フォー」で警告されている事である。

実際に、加計学園の問題で安倍ー菅官邸に異を唱えた元文部事務次官の前川氏に尾行を張り付け、そのプライバシーを暴くことで前川氏の発言の信憑性を貶めようとした。これは空想ではない現実に今起こりつつあることだ。仮に前川氏に何かの私的問題があっても彼の告発はいささかも損なわれるものではない事を幾重にも銘記すべきだと思う。

 

東欧ポーランドの1950年代の共産主義政権下の言論の自由の抑圧、という、いわば身近とは言えないテーマを取り上げて、現代に警鐘を鳴らしたアンジェイ・ワイダ監督の遺志を伝えたくて、かくのごとく映画そのものから少し離れて書き記した次第。

 

岩波ホールで11時から鑑賞した後、東京外語大学名誉教授の関口時正氏の講演が午後1時半からあった。(次回は7月10日)

余り身近とは言えない国の身近とは言えない画家の映画、と言う事で画家の作品やイメージ論・絵画論等が知りたくて聴講した。

A4で3枚にそれらが掲載され理解がとても膨らんだ。

席上関口氏は、同じ北方アヴァンギャルドのカンディンスキーやシャガール等と同じくフランスなどに逃れていれば命も助かり評価も高まったのに、と嘆いておられたが、スツシェミンスキーがポーランドにとどまったのは、教育者として彼の学生たちに対する愛情と責任からではなかったかと私はその理由を理解した。

 

アンジェイ・ワイダ監督は1926年ポーランド東北部の生まれ。

1953年ウッチ映画大学を卒業とあるが関口氏の言ではスツシェミンスキーとの出会いはなかったらしい。

「地下水道」や「ワレサ連帯の男」は観たが、「灰とダイヤモンド」は観る機会がなかなかない。

 

ポーランドと言えば真っ先に思い浮かぶ人物は、ヨハネ・パウロⅡ世。

現象学の枢機卿と言われ、教皇になってからワレサのポーランド民主化運動の精神的支柱にもなった彼はワイダ監督とほぼ同時代人の1920年ポーランド南部のクラクフの生まれである。

哲学者のレヴィナスの評伝に、ヨハネ・パウロⅡ世がユダヤ教のレヴィナスやプロテスタントのリオ・タール、あるいはフランス大統領マクロンの哲学の師ポール・リクール等を集めて彼らの議論を楽しんだ、とある。

改めて取り上げたい魅力的な人物だ。

2013年、生前退位したベネディクト13世の後任を決めるべく開かれたコンクラーベ(法王選挙)に故国アルゼンティンから投票のためにヴァチカンに来たホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿。

映画はその彼の回想のシーンから始まる。

 

予めお断りしておくが、これは映画評ではなく、人口の1%程度と言われる日本のキリスト教信者の数からみて、私を含む信徒でないものがこの映画を鑑賞するにあたって必要と思われる情報を提供するつもりである。

 

1936年、ブエノス・アイレスでイタリア系移民の中産階級の家に生まれたベルゴリオは、父親の教育方針から子供の時から働きながら学ぶように躾けられる。 そして子供ながら事務的な能力はなかなかにあったらしい。

 

神は永いこと待っていてくださった。

幼さな児の手を引を引くように、、、、

と召命の体験があって1958年イエズス会に入会。神学院で哲学と神学を学ぶ。

イエズス会は言うまでもなく霊操のロヨラと来日の宣教師フランシスコ・ザビエル達が、ルターの宗教改革に危機感を抱いたカトリックの内部改革を目指して設立した会であり、瞑想と祈りによって霊魂を鍛え神の意志をつかみ取って、イエスキリストの様に生きる道を求める厳しい信仰の会派である。

 

1972年神学院での指導力を買われてイエズス会の管区長に抜擢される。

1986年博士号取得のためドイツのイエズス会系神学院に留学。そこで「結び目をとくマリア」に出会って癒しを受け、

帰国後サルバドーレ学院院長。

1992年教皇ヨハネ・パウロⅡ世の命によりブエノスアイレスに引き戻され補佐司教。

1998年ブエノスアイレス大司教

2001年教皇ヨハネ・パウロⅡ世により聖ロベルト・ベラルミーノ教会枢機卿。

2013年76歳で教皇に就任。

 

このように経歴を挙げるといかにも順調に教皇への階段を上ったように見えるが、アルゼンチンの歴史を重ね合わせると、その道のりは険しいものであった。

以下、評伝「教皇フランシスコ」マリオ・エスコバル著(新教出版社)を参考にしながら足跡を辿る。

 

アルゼンチンや西の隣国チリ、東の隣国ブラジルを吹き荒れた、クーデターと軍政とミルトン・フリードマンの新自由主義経済の失政による一般大衆の疲弊、貧困。労働者や知識人たちに対する弾圧。

アメリカ大陸の盟主米国の軍政支持という、人道を民主主義を唱えながらの二枚舌外交。

 

第二次世界大戦で日・独・伊の枢軸国に対するスタンスをめぐって軍事クーデターの中から登場したペロン。労働者寄りの政策を推進したペロンは国民的人気を得るが、米国の内政干渉で幽閉され、大衆の支持で解放され1946年大統領に就任。

1954年には離婚を認める法を制定してカトリックと敵対、翌年にはヴァチカンから破門され、かつ軍事クーデターで追放される。

しかし、ペロンの支持者ペロニスタと軍人や富裕層、テクノクラート等との対立は深まりペロニスタの大弾圧が始まる。

1966年(ペルゴリオ30歳神学校在学中)オンガニーア将軍のクーデター。「アルゼンチン革命」を唱えて積極的な外資導入で工業中心の経済成長を図るがペロニスタの抵抗運動は止まず、69年(ベルゴリオ司祭に叙階される)コルドバ大学の学生運動から始まった暴動が国内諸都市に波及、軍隊が出動。

キューバ革命やチェ・ゲバラの影響からゲリラ組織が起こる。

1970年(この頃ベルゴリオはブエノスアイレスの神学院などで教鞭をとる)オンガニーアは失脚て弾圧に終止符を打つが国内の合意形成に失敗し、大統領選挙を経て1973年ペロンが復権。

そのペロンも78歳と高齢で翌74年心臓発作で死亡。76年にはまた軍事クーデターでヒデラ将軍が大統領に就任。フリードマン流の新自由主義経済運営で反って国内産業は衰退、インフレは激しくペソの切り下げで経済破綻する。この時「自由主義」に名を借りて「共産主義撲滅」を掲げ反乱分子と見做したものを誘拐。 捜索していた家族や人権擁護団体あるいは教会関係者なども誘拐され秘密収容所に収容、拷問され未だ安否のわからない市民の数は3万人とも言われている。

1982年(この頃ベルゴリオは神学院の院長)サッチャーのイギリスとフォークランド紛争(アルゼンチン側はマルビーナス戦争)で敗北。軍の威信は失墜し反軍感情が高まる。

1983年には民生移管選挙。

1984年ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世の仲介によりチリの悪名高いピノチェト政権と平和条約を結ぶ。

民政移管後も過去のクーデターの再発による負の遺産が重くのしかかり順調に再建とはならない。

1989年労働者の支持を得て大統領になったメネムは民営化やペソのドルペッグでインフレを終息させたものの赤字や対外債務は増大、2001年にはデフォールト(債務不履行)宣言。

2003年にキルチネルが大統領に就任して政治経済がようやく安定に向かい、2006年には対外債務を完済。

しかしながらリーマンショックなどの国際金融危機には脆弱さが露呈し、まだまだ盤石とはいかないのがアルゼンチンの現況である。

 

映画の中で神学院時代のベルグリオが「解放の神学」のキリスト教左派と見做される場面がある。

神学には門外漢で明確な概念を持っていないが、信者を含む社会の圧倒的な貧困を前にして、キリスト者として如何にふるまうべきか、教会は如何にあるべきかを考える時、「カエサルのものはカエサルに」と政治権力と距離を置くだけで果たして聖職者の良心は疚しさを感じないのだろうか、という教会指導者としての態度決定を迫る問題である。

「解放の神学」とは1960年代、カトリック教会の現代化をテーマに開催されたマラソン会議(第二ヴァチカン公会議)以後、中南米の神父たちから起こった神学的立場で、社会正義、貧困や人道的立場の追及を教会外でも実践しようとした。そして神父たちの中には階級的視点を持つ者もいて警戒されヨハネ・パウロⅡ世以降の教皇たちは否定的立場である。

 

イエス・キリストの貧しいもの弱い者の立ち場に立った布教を「改革者イエス」としてとらえる時、教会や司祭たちの行動はより社会の中に入り込み彼らと行動を共にすることになるだろう。

それらを「人道的立場」とどのように一線を画すことが出来るのか。

 

ヨハネ・パウロⅡ世もベネディクト13世も「解放の神学」に立つ司祭を受容していないが、公的な否認もしていないらしい。

映画の中でのベルゴリオは生命の危険にさらされた「解放の神学」の司祭を助けているが、思想的に明確な立場を表明していない。

しかし、評伝「教皇フランシスコ」では、『彼は貧しい人々を重視するが、「解放の神学」とは一線を画している。貧困との闘いは隣人との間に築く各自の責任感に向けるべきであり、生産システムを変える方向ではないと考えるからだ』(184P)とやや意味不明、つまり各自の責任感とは何か、寄付か寄進か、自己責任かよくわからない記述だ。また生産システムを変える方向は「解放の神学」でも一部の聖職者や信者では無かったのか、、等々疑問が湧くのであるが、深い知識を有していないのでこの辺で止める。

 

この「解放の神学」に心を寄せているのではないか、というのがキリスト教右派からのベルゴリオに対する疑念であるが、 一方左派からの疑念は、軍事政権下の弾圧、わけても1970年後半、ヒデラ将軍の軍政にどのように振るまったのか、という問題である。

時の軍事政権に「反乱分子」と疑われた者が男女を問わず拉致、監禁、拷問され行方不明になって、その数は3万人とも言われる事は先述した。

時のアルゼンチン・カトリック教会上層部は、軍部を支持して事態を黙認、各収容所では、専属の神父が(拉致・監禁・拷問などの)任務に就く者たちに慰めを与えていたと言われる(同書44P)。

ベルゴリオは軍に追われた青年たちをかくまったり、拉致被害者を解放すべく軍の礼拝堂でビデラ将軍に直談判して何人かを開放してもらったり、自分と背格好が同じぐらいの青年に自分の身分証明書を渡し亡命させたりしている(45P)

行方不明の子を探す母親たちは77年に結集して行動を起こすが、組織に入り込んだスパイによって麻酔を打たれて拉致され軍用機の中から外に放り投げられてしまう。

その中にはベルグリオが修道会に入る前、化学研究所で働いていた時の上司で、彼の修道会入りを支援してくれた女性もいた。

この挫折感が彼を苦しめるが、博士号を取るためドイツの神学校に学んだいた時、「結び目を解くマリア」に出会ってその癒しを受ける。

 

2001年64歳で枢機卿に叙階されたベルゴリオは公的機関で委員を務めたり、行事の総書記を務めたりして能力も人柄も知られるようになり、ベネディクト16世が選ばれた2005年のコンクラーベでは次点、2013年のコンクラーベでは76歳、と高齢なこともあって下馬評には上っていなかったが,第266代教皇に選出されフランシスコを名乗る。

 

「恥ずかしがり屋で遠慮がち、口数が少なく自己アピールも皆無だ。だがまさにそれらが彼の最大の長所の一つと見なされている。質素で堅実な生きかたが強烈な精神性と相まって、徐々に彼を教皇の座へと近づけていっている」

これはあるバチカン専門記者がベルゴリオが枢機卿に叙階されて間もない2002年に書いたものである(3P)。慧眼の記者がいるものだと感心するが、コンクラーベに投票権を持つ同僚枢機卿も彼の人間性に、今のバチカンが抱える問題を解決する可能性を見たのだろう。

枢機卿になる程の人たちは概ね哲学や神学の博士号を持ち、人格的にも優れていると目されている。

そういう人たちの互選という制度もなかなかに良いものだと思う。

 

この世界で紛争や貧困や人権抑圧は依然として後を絶たない。

民主的な選挙で無知無能な指導者が選ばれることも多々あって、

それが新しい災厄を生み出すこともある。

その中で精神的な支柱として教皇が果たすべき役割も間違いなくある。

教皇フランシスコがその使命を果たすよう、彼の為に祈れずには居られない。

 

追記1:若き日の教皇フランシスコを演じた ロドリゴ・デ・ラ・セルナ(1976年生まれ)は、革命家ヘ・ゲバラの縁戚。

  1928年アルゼンチンのブエノスアイレスの裕福な家に生まれ、医師免許取得後、亡命中のカストロ兄弟に出会い、キューバ革命をカストロと共に成し遂げ、ボリビアに潜伏中39歳で銃殺されたチェ・ゲバラの本名はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。

同姓だが、なんとチェ・ゲバラのはとこに当たることを、ゲバラが医学生のころ友人と二人でバイクに乗って南アメリカを旅行した時の二人の旅日記を基に映画化した「モーターサイクル・ダイアリーズ」で監督を務めたウオールター・サレス監督が述べている。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」Production Note

 

追記2:文中引用した「教皇フランシスコ」 (新教出版社)