気になっていたのは、「標本は死体に過ぎないではないか」と言うことである。
勿論、一つの標本を見ると、その時に一緒に行った友だち、その時の出来事とか、その蝶をとらえようとして追いかけた時の事とか色々な思い出が甦り、自分にとってはそこにさまざまな思い出が詰まっていると言うことはある。しかし、力強くはばたいていた躍動感はそこにはない。生き物を趣味とする以上、生きていること、動くことにこそ意味がある。
そんなことを考えてのことではないだろうが、一緒に蝶を始めた同級生の何人かは殆ど採集を止め、飼育に凝るようになっていた。
以前、クワガタの雑誌に、あるオオクワガタの飼育名人が「クワガタの本来の姿は、幼虫ではないか」と言うようなことを書いていた。これはクワガタ以上に蝶に当てはまるように思う。
蝶の個体数を考える時、私たちは1頭の雌が200個産卵し、死亡率が99%であれば翌年2頭成虫になり、個体数は変わらないと言うように考える。この考えの中では1齢幼虫で死んだ個体も、終齢幼虫で死んだ個体も、共に成虫になれなかった個体として同じように扱われている。実はそうではなく、どこまで生きられたかはその個体にとっては重要な問題であり、本来幼虫の形で行き続けたい個体が、種の限界としての終齢まで生きてしまい、もうこの形では生きられなくなかったとき、やむを得ず成虫へと姿を変え、更に歩むことを子孫に託すのではあるまいか。
例えば、10年近く暗い地中にいて、やっと地上に出てきたのに、すぐに死んでしまってセミはかわいそうと考える人は多い。しかし、それは成虫中心の考え方だ。幼虫中心で考えると、セミの成虫は、こんなところはまっぴらだ。地中の方がずっと楽しかった。出来れば地中に戻りたい。でも、それはもう出来ないから、地中に戻るのは子孫に任せ、こんな地上なんかとは早くおさらばしたいと考えているかも知れない。
因みに、どのくらいの数の個体が成虫になれたかはそれほど大きな問題ではなく、最初に紹介した計算は実に下らないものである。途中の死亡原因のいくつかは密度依存的なので、成虫、産卵数が少なければ通常死亡率は低くなる。そのため、前年に絶滅したのか?と心配するほど少なかったのに、翌年は沢山飛んでいると言うことが普通に起こる。個体群生態学の基礎の基礎の議論を持ち出して恐縮だが、蝶が典型的なr戦略者である所以である。

飼育を通じ、そういう蝶の生き方を見つめると言う楽しみ方もある。この感覚が今の私の感覚に近く、飼育と一言で言っても、飼育条件、餌の選択、交配、産卵等々結構奥が深いのだが、それはここでは書かないことにする。明日は、他にも色々な楽しみ方があることを紹介し、その後本題に入っていく。