チョウセンアカシジミの卵を木に貼り付けてからすでに2週間を越えた。流石にこれは遅すぎる。多分無精卵だったのであろう。チョウセンアカシジミ談義をここで締めくくり、飼育経過に関する話題は来年にしたい。知人には「来年もくれ」と言ってある。来年孵化する卵が得られれば、飼育の話題は来年になる。
さて、大陸産と国内産の関係の話題は終えているので、最後に国内での分布拡大の話題。
チョウセンアカシジミが国内で分布を広げた時点での国内の地形の詳細は分からない。あるいは現在の山地のような場所にトネリコが繁茂する湿地があったかも知れない。そもそも山がなかった、あるいは何らかの方法で山を乗り越え、「東に進んで陸中海岸に達した個体群は明るくなり、南に進んだ個体群は徐々に黒化した」と言うしくみを考えたくなるのは自然な成り行きである。しかし、私は「それは見せかけで、ただの偶然、大した意味はない」と考えている。
トネリコの用途は?と聞かれたら多くの人はバットと答えるだろう。しかし、それは明治以降の話だ。
トネリコの樹種としての特性は、ほぼ一定の太さで真っ直ぐに伸びる樹形を作りやすいことだ。
近年まで、ハンノキやトネリコが稲架木、すなわち稲を乾燥させる際に用いる棒のような用途で使われていたことはよく知られている。金属の棒のようなものを容易に作れない時代には真っ直ぐな棒の形になり、硬球との衝突にも耐えられる丈夫な材に何らかの経済的価値があったと考えて不思議はない。
黒曜石の流通は縄文時代からあったのだ。トネリコは種子から発芽させて育てるのが非常に容易である。秋田県周辺などにトネリコの苗木を育てる業者(部族?)のようなものが存在し、各地にそれを出荷していた可能性はないだろうか?その場合、出荷された苗木の幹にチョウセンアカシジミの卵塊が付いていたとして、それに気づき、取り払うことが完全に出来ただろうか?多分、卵塊が付いたまま出荷されたと思う。
つまり、チョウセンアカシジミは苗木と共に意図しない放蝶によって国内で分布を広げたのではないか、その結果おかしな分布になったのではないかと言うのが私の考えである。
別に南下しながら黒化したとか、東に進んだものは明るくなったと言うことではない。たまたま黒い、あるいは明るい斑紋の遺伝子を持つ卵がその地域に運ばれ、そこで定着しただけではないだろうか。徐々に暗くなったように見えるのは、ただの偶然、山を超えられたのも自然に分布を広げたのではなく、たまたま人間が卵の付いたトネリコをそこを超えて運んだだけ、斑紋の違いに進化的な意味はないと考える。米沢盆地とか陸中では、偶然による運搬と定着が一度しか起こらなかったために、斑紋は均一なのだろう。
昔の採集地案内に、「小国周辺のチョウセンアカシジミには明るいものから暗いものまでバリエーションがある」と書いてあった記憶がある。多分小国周辺ではこのような意図しない人為的な放蝶が複数回起こり、暗くなる個体と明るくなる個体が混じったのだろう。それは上で存在を仮定した「苗木業者」の周辺に両方のタイプがいたことを示している。
大陸や横手盆地産に両方のタイプがあったとしたら、大陸起源説は補強される。それらの斑紋が均一であったとしても大陸起源説が否定される訳ではないが、陸中起源説や「南下と共に黒化」と言う考え方も考慮する必要が出てくる。
それではチョウセンアカシジミに関する話題は、本年はこれにて終了。多分次回以降はギフチョウの孵化などの話題を経て、伊豆半島のミヤマカラスアゲハの累代飼育の話題へと移る。