大河ドラマ『光る君へ』。

 

今回放送された第12話から次回までの間は、公式サイトによると4年の歳月が過ぎ去るそうで。

 

第13話は「永祚2年(990年)」からスタートとなるわけですな。

 

 

寛和2年(986年)から永祚2年(990年)の4年の間に起こる出来事の関心事といえば、いくつかありますが。

 

ここでは前関白太政大臣「藤原頼忠」の薨御を取りあげてみたいと思います。

 

 

永延3年(989年)6月26日、薨御。享年66。

最終官位は「従一位・太政大臣」。「廉義公」と謚されました。

 


藤原頼忠@橋爪淳さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

(余談ですけど、「永祚」と「永延」、字面がよく似た元号が続くのがややこしいですよね…。この2つはワタクシもよく見間違えます^^;)

 

放送前、ワタクシ的な藤原頼忠のイメージは、やはり「よそ人関白」

 

頼忠は天皇家に娘を入内させたのですが、ついに皇子を得ることはできず、天皇の外戚になれませんでした

 

政治上の理由で「関白」となり、朝堂のトップには立ったものの、実権を握っているのは外戚である「九条流」の人々…。

 

「よそ人」の虚しい最高権力者。父の実頼も「揚名関白(名ばかりの関白)」と称して境遇を嘆いておりましたが、頼忠も同じですね。

 

 

『光る君へ』では、「声の小さい関白様」(笑)

 

「発言力の弱い関白」を「声が小さい」としたのは、中々にいいキャラクター造形だったと思います。それでいて、時々すごく声が大きくなるのも、イケオジな橋爪さんが演じているのと相まって、可愛らしくて好きでした(笑)

 

「光る君へ」藤原頼忠の声が小さい理由 橋爪淳、解釈明かす ⇒ (外部リンク)

 

そして頼忠と言えば、四納言の1人・藤原公任の父。

 

第12話では、「親子2人きりで話すシーン」がありました。

 

 

彼らが親子だとは、分かっちゃいたけれど「そういえば、そうだったなぁ!」と思われた方も多いのではなかろうか。

 

次回は4年も経つとは思わず、「おお、急に親子のシーン!」とサプライズされたような気分で見ておりましたが、これが頼忠のラストシーンだったわけですね…。

 

 

なお、このシーンで頼忠が「道兼を重視せよ」と公任に言ったことについては、また触れることもあるかと思うので、その時に機会を譲って、ここでは頼忠本人のことについて。

 

 

頼忠は、小野宮流藤原氏の祖・実頼(さねより)の次男。

 

延長2年(924年)、祖父の忠平(『百人一首』の「貞信公」…アンコを小倉と呼ぶ元ネタになったあの人)が左大臣に昇った年に生まれました。

 

この時、紫式部の曾祖父・定方(さだかた)は右大臣になっています(『百人一首』の「三条右大臣」ですね)

 

同い年の人物に、四納言の1人・藤原行成の父方祖父である伊尹(これただ。兼家の同母兄。『百人一首』の「謙徳公」)がいます(ついでに言うと、行成の母方祖父である源保光も同い年)。道長の舅である源雅信は4歳年上にあたります(頼忠の方が年下。ちなみに雅信は母が時平の娘なので、頼忠とは母方の従兄弟同士です)

 

頼忠は本来ならば藤原氏本流を担っていた嫡流「小野宮流」の生まれでした。

 

兼家たち「九条流」は、実頼の異母弟・師輔の家系。師輔の娘・安子が村上天皇の皇子(冷泉天皇と円融天皇)を産んだため、そちらに本流が移ってしまいましたが…。

 

母は、大伯父である時平の娘。同母兄に敦敏(あつとし。918年生まれ。佐理の父)、同母弟に斉敏(ただとし。928年生まれ。実資の父)、同母妹に村上天皇の女御となった述子(のぶこ)がいます。

 

 

次男だったためか、頼忠は母方の伯父(ということは時平の子)である保忠(やすただ)の養子となりました。

 

しかし、保忠は承平6年(936年)に47歳で死去。この急死には「道真公の怨霊」が関わっていると噂された…というのは、以前にも語った通り。

 

近衛右大将だった保忠が、お経の中の「宮毘羅大将(くびらたいしょう)」を「くびれ大将」と空耳して、自分をくびる呪文と勘違いし恐怖のあまり悶絶死した…というお話の御方です(エントリーNo.16)

 

四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html

 

頼忠この時12歳。道真の怨霊を目の当たりにしたと、言えるかどうか…?(詳しくは前述のリンク先でw)

 

天慶9年(946年)、村上天皇が即位すると、同母妹の述子が入内。通称「四条御息所」。

 

村上天皇の子を身ごもり、実頼たち小野宮流の期待が高まるのですが、天暦元年10月5日(947年)、「東三条第」において出産中に亡くなっています。

 

もし皇子を出産していたら、その後の歴史は随分と違ったのでしょうが…。

他に娘がいなかった実頼は、天皇の外戚になることを諦めざるを得なくなりました。

 

その年の11月17日、同母兄の敦敏が流行した疫病にかかり死去したため、頼忠が嫡男となりました。

 

 

天徳元年(957年)、頼忠が33歳の時、弟の斉敏に次男・実資(さねすけ)が誕生。

 

実頼は実資を養子として迎えると、非常に鍾愛して「実」の字を与え、家領の多くを相続させて小野宮流を継承させたと言われます。

 

……嫡男は頼忠では?と思ってしまうのですが、実頼が頼忠がいるのに実資を養子に迎え、さらに実資を継承者とした事情は、ワタクシはよく分かりません。養父・保忠の財産を相続していたことから、別の家を立てたと見做されたのか、そんなあたりですかね…?

 

頼忠は、天暦10年(956年)に権左中弁となると、以降は弁官(太政官の政治官僚)として村上朝に出仕。応和3年(963年)「参議」に昇って公卿に列します。

 

康保4年(967年)、冷泉天皇が即位した時にはすでに外祖父の師輔が亡くなっていたため(960年没)、父の実頼が関白に就任。頼忠は「関白の嫡男」として「従三位・中納言」に叙任されました。

 

安和2年(969年)に起きた「安和の変」の時、実頼と頼忠の父子が何かに関与していたのかどうかは不明。為平親王と守平親王、どっちを皇太子にしようが「よそ者」の実頼・頼忠には関係ないので(笑)、あんまり関与はしていないのではないかな…?

 

というか、源高明は師輔と幾重にも姻戚関係を結んだ、ほぼ「九条流のミウチ」の人なので、「ミウチで解決してください…」という立場だったのではないかな…と、思います。

 

コウメイの罠(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html

 

「安和の変」を経て円融天皇が即位した翌年、天禄元年(970年)に父・実頼が亡くなると、「摂政」の座は「九条流」の伊尹に回り、頼忠は「権力欲の鬼」である師輔の子たち「九条流」との複雑な政局に身を投じていくことになります。

 

といっても、述子の死によって後宮対策を諦めた実頼は、師輔たちとの協調路線を敷いたため、「小野宮流」と「九条流」の全面対決があったわけではありません。ただ、「九条流」の内ゲバがヒドかったのです(笑)

 

同い年の従兄弟である頼忠に対して、伊尹は尊重する想いを抱いていたのか、伊尹政権では頼忠は順調に出世。「正三位・右大臣」まで昇ったところで、天禄3年(972年)、伊尹は孫の師貞親王(=花山天皇)の即位を見ないまま、急死してしまいます。

 

円融朝の世に突然空いてしまった「摂政関白」の座。候補者には頼忠も名が挙がったのですが、「亡き母后の遺志」を持ち出した、伊尹の弟・兼通のものとなりました。

 

この兼通、弟の兼家とは険悪な仲

「安和の変」でのゴタゴタが尾を引いていたのです(詳しくは前述のリンク先でw)

 

関白となった兼通は、顔も見たくない兼家を疎遠にして、代わりに頼忠を相棒としました

 

相性が良かったのか、左大臣・源兼明を差し置いて、右大臣の頼忠を「一上」に任命するほど(ちなみに頼忠にとって兼明は、正室・厳子女王の伯父)

 

それだけでは足りなかったのか、貞元2年(977年)、「兼明を皇族復帰させて左大臣から追い出す」というウルトラCを発動させて、頼忠を「左大臣」に引き上げます。

 

花山朝「陣の定」群像語り(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12841402045.html

 

しかし、同じ貞元2年(977年)、兼通は重い病となり薨御。

 

死の間際、「兼家にだけは権勢は渡すまい…」と執念を燃やし、無理を押して参内し、頼忠に「関白」の座を譲りました

 

 

…というところから、『光る君へ』の第1話に繋がっていきます。

『光る君へ』までに、頼忠にはこんな人生があったわけですねー。

 

「関白」にはなったものの、天皇と外戚関係のない頼忠は、娘の遵子(のぶこ)を円融天皇に入内。円融天皇が譲位すると、諟子(ただこ)を花山天皇に入内させましたが、どちらも子を得ることはなく、父・実頼の頃からの課題だった「小野宮流」の後宮対策は失敗で終わってしまいました…というのは、『光る君へ』でも描かれた通り。

 

 

永延3年、頼忠が亡くなって「太政大臣」の席が空くと、兼家は即座に「太政大臣」にあがり、長男の道隆を「権大納言」から「内大臣」に引き上げました。

 

まるで、「関白を追われたクセに『太政大臣』の位に恋々としていた頼忠が邪魔だった」とでも言いたげな様。

 

ここから、ワタクシは「兼家と頼忠は仲が悪かったのかなぁ」と思っていたのですが、『光る君へ』では一緒に食事を取ったり、「関白様、しっかりなされませ!」と激を飛ばされたりしていて、こういう交流シーンがあったのも、なんだか好きでした。

 

これがもう見れなくなるのは、登場人物が世を去って退場するのが歴史ドラマの宿命とはいえ、残念至極ですね…。

 

 

 

ところで、平安時代後期に成立した『大鏡』という歴史書があります。

 

文徳天皇から後一条天皇までの「帝紀」とともに、太政大臣(たまにそれ以外)となった藤原氏たちの「列伝」が収められています。

 

その中に「藤原頼忠の伝」も収録されているのですが、ここには2つの「謎」があるのです。

 

 

その1つ目は、冒頭に書かれた「とある奇妙な一言」

確認のために、重要部分を引用して紹介してみると。

 

このおとどは 小野宮実頼のおとどの二郎なり 御母 時平ときひらの大臣の御女 敦敏あつとし少将の御同腹おなじはらなり 大臣の位にて十九年 関白にて九年 此の生極めさせ給へる人ぞかし 三条よりは北 西洞院より東に住みたまひしかば 三条殿と申す

一条院くらゐにつかせたまひしかば よそ人にて 関白退かせ給ひにき ただ おほきおほいどのと申して 四条の宮にこそは 一つに住ませたまひしか

 

「此の生極めさせ給へる人(一生の栄華を極めなさった人)」

 

村上朝・冷泉朝において父とともに叔父の系統の風下に置かれ、円融朝・花山朝を経ても外戚になれずに「揚名関白」と揶揄され、「一条朝」において外祖父となった兼家に「関白の位」を奪われた頼忠が、「一生の栄華を極めなさった人」…??

 

確かに「大臣」にあること19年、昇った「関白」を9年も務め上げたことは、「栄華を極めた」と呼ぶに相応しいのかもしれない…けれども。

 

なお、頼忠に先立つ歴代の摂政・関白は、以下の6人。

 

  1. 良房(大臣25年、摂政関白15年)
  2. 基経(大臣20年、摂政関白16年)
  3. 忠平(大臣36年、摂政20年)
  4. 実頼(大臣27年、関白4年)
  5. 伊尹(大臣摂政3年)
  6. 兼通(大臣関白6年)

 

良房は、恒貞親王、惟嵩親王ら皇位に最も近かった皇子たちを実力で退け、外孫の清和天皇を皇位に就けた"藤原史上最強の男"

 

基経は、若き陽成天皇を退位させて老いた光孝天皇を戴かせ、「阿衡の紛議」で宇多天皇を悩ませた"豪腕強権キングメーカー"

 

忠平は、外戚として醍醐・朱雀・村上朝を主導し、後世藤原の子孫たちが「懐かしい」と振り返る「延喜・天暦の治」を称えられた"三丁目の夕日番長"

 

明らかに頼忠より輝かしい経歴をもつ先祖たちにさえ、頼忠以外に「此の生極めさせ給へる人」と書かれた人はいません。

 

しかし、「よそ人にて 関白退かせ給ひにき」と続いている記述と重ねあわせると、「一生の栄華を極めた」という外面と、「よそ者だから関白を退いた」という内実を対比させている意図があるようにも見えます。

 

 

そして2つ目は、「三舟の才」

 

「三舟の才(さんしゅうのさい)」は、頼忠の嫡男・公任の優れた多才さを語るエピソード。

 


藤原公任@町田啓太さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

有名なお話ですが、なんと実は「頼忠伝」の最後の節で語られているのです(公任は大臣に上がっていないので、個別に伝を作れないから、ここに配置されたのかもしれません)

 

こちらも念のため、引用してみると…

 

ひととせ 入道殿の大井川おほいがは逍遥せうえうせさせたまひしに作文さくもんふね管絃くわんげんの船・和歌の船とわかたせたまひて その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに この大納言のまゐりたまへるを 入道殿「かの大納言 いづれの船にか乗らるべき」とのたまはすれば 「和歌の船に乗りはべらむ」とのたまひて よみたまへるぞかし

 

をぐら山あらしの風のさむければもみぢのにしききぬ人ぞなき

 

申しうけ給へるかひありてあそばしたりな

御みづからも のたまふなるは 「作文のにぞ乗るべかりける さてかばかりの詩をつくりたらましかば 名のあがらむこともまさりなまし 口惜しかりけるわざかな さても 殿の『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ われながら心おごりせられし」とのたまふなる

一事ひとことのすぐるだにあるに かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは いにしへも侍らぬことなり

 

「入道殿(道長)」が「大井川遊覧」を開催した時、「作文(漢詩)の船」「和歌の船」「管弦の船」の三船を用意したのですが、公任はどれにおいても第一人者としての才を持っていたので、道長が「公任はどの船を選ぶかなぁ(かの大納言 いづれの船にか乗らるべき)」と問いかけます。

 

すると、公任は「和歌の船に乗りましょう」と言って、見事な和歌を詠みあげ、称賛されました。

 

しかし、後で公任が語ったことによると、「漢詩の船を選べばよかったな…そうすれば、もっと名声が上がっただろうに」と口惜しがり、「でも、道長に『どれに乗る?』と聞かれたのは、誇らしいことだったよ」ともおっしゃっていた…という逸話が描かれています。

 

この逸話、実は史実的に疑問を持たれていて。

 

この話を引用している『十訓抄』や『東斎随筆』には「円融院の時代に大井河逍遥があって、その時に三舟に乗ったとも言われている」と捕捉がついていることから、本当は、寛和2年10月13日(986年)「円融院大井川御幸」の際の出来事ではないかと言われています。

 

もしそうだとしたら、この御幸の主催者は藤原兼家。なぜ、道長が天下人になる前の出来事を、わざわざ時代を改変して道長の時代の話に作り替えたのか?

 

あるいは、本当に道長の時代の話だったとしても、道長が入道となった(出家した)のは寛仁3年(1019年)。いくら公任の話とは言え、頼忠の没後30年以上経ったときの話を「頼忠伝」に挿し込んでいるのは、何故なんだろうか。

 

そこには、『大鏡』著者の「とある意図」が秘められている…という説があります。

 

 

「三舟の才」で、なんとも解せないのは、公任が「和歌の船」を選んだこと

 

当時は漢文の素養が政治能力の1つとされていたので、「漢詩の船」で称賛されたら、かなり名声が上がったはず。

 

公任自身も作文のにぞ乗るべかりける さてかばかりの詩をつくりたらましかば 名のあがらむこともまさりなまし 口惜しかりけるわざかな(漢詩の船を選べばよかったな…そうすれば、もっと名声が上がっただろうに)」と口惜しそうにしているのだから、それは分かっていたハズなのです。

 

それに加えて、道長は作文(漢詩)が大好き。

 

四納言の1人・斉信と作文に熱中するあまり1晩明かすこともあったほど(実資は、作文好きな道長に近づくために付き合ったとして「恪勤の上達部」「親昵の卿相」と痛烈に罵倒しています…)

 

幼馴染の公任なら道長の趣味趣向は熟知していたはずで、「漢詩を選んでいたら、道長の覚えもめでたかっただろうに…」という意味も含まれていそうです。

 

ならば、何故に公任は「漢詩の船」を選ばなかったのだろう。

 

 

それは、公任は自分に向けられた道長の「探り」を鋭く察知して、わざと漢詩の船に乗らなかった…という解釈。

 

この話の元ネタになった「円融院の大井川遊覧」で公任が「和歌の船」に乗った時、「管弦の船」には源時中が、「漢詩の船」には源相方が乗って、見事に芸を披露しました。

 

相方は公任と共に褒賞を賜り、時中は円融院の仰せとして兼家から「参議」任官の沙汰があったと伝わっています。

 

源時中と源相方って誰…?というと、時中は左大臣・雅信の嫡男(倫子の兄であり、道長の義兄)。相方は雅信の弟・重信の子

 

どちらも道長の「ミウチ」であり、一条天皇が即位したことで摂政となった兼家の「ミウチ」でした。

 

兼家は「円融院の大井川御幸」という「ハレの場」を利用して、ミウチに昇進と褒賞の栄誉を与えたのでした。

 

公任は道長の、というよりその後ろにある兼家の意図を察知して、わざと「目立たない船」を選んだというわけ。

 

「『ハレの場』は権力者一族とその眷属が謳歌するのが相応しい…」

「権力闘争から零れた者が、己の才能を披露して名声を独占するのは、宜しくない…」

 

道長の「分を弁えるかどうか」を見極める問いかけを看破して、その場の栄誉を摂政の一族に譲ることによって謹みと恭順の意を表した。

 

「頼忠伝」の最後が「三舟の才」の逸話で飾られているのは、表向きは「公任の多彩な才能の誉れ記事」に見せかけて、本当は外戚になれなかったことで「権力を失った一族」の自覚を表わしている…というのです。

 

まるで「此の生極めさせ給へる人」と外面を輝かせながら「よそ人にて 関白退かせ給ひにき」と内実の虚しさを伝える、冒頭の対比の如き構図を、分からせるためにあるかのように…。

 

 

以上の解釈を否定しない上で、ワタクシは公任の「もうひとつの台詞」も気になっています。

 

さても 殿の『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ われながら心おごりせられし(でも、道長に『どれに乗る?』と聞かれたのは、誇らしいことだったよ)」

 

上の解釈に依れば、「どれに乗る?」は公任を試す、道長の「お前は俺たちに従うのか?それとも、そのまま没落していく境遇に甘んじるか?」という選択を迫るものだったはず。

 

それが「われながら心おごりせられし(誇らしかった)」って…?と考えると。

 

道長の「どれに乗る?」は、本当は「気を付けろ。父上の機嫌を損ねるようなことはしないでくれ。ここは堪えてくれ。お前の才能は俺が一番分かっている」という真意を含んでいたのではなかろうか。

 

その気遣い、その友情を感じ取り、危機を回避できたからこそ。

そして、「自分の才は道長はよく知ってくれている」と感じ取れたからこそ。

 

公任は「誇らしかった」と思ったのではなかろうか。

 

 

現在の「公任」と聞いて抱くイメージは、「多才の人」が大きいです。

 

それは、公任が「ハレの場」の栄誉を兼家のミウチに譲った時、道長が「さてもいづれにかとおもふ」と声をかけてくれたことによって、その存在が強く印象付けられた「三舟の才」にこそ、あるような気がします。

 

これを後になって、周囲に語った…という記述から見ると、公任のしたたかな計算が働いた自分語りだった可能性もありながら。

 

本来なら嫡流であるはずの「小野宮流」が本流から下りた自覚と無情の意味を込められた、頼忠伝の「三舟の才」。

 

でも、そこには道長と公任の友情と固い絆が描かれていると、ワタクシは考えているのですが、どうでしょうかねー。

 

 

それと同時に、何も政治や権力だけが名声ではない…芸能の才で後世名を残すことだって貴公子の取れる道であり、時代の寵愛を失った者の取るべき姿だ、という公任の矜持も、感じられるような気がします。

 

 

…なんだか、頼忠の人物考だったはずなのに、いつの間にか公任語りになってしまった(汗)

 

公任は道長より長生きするので、こうしてまとめた語りをするチャンスがあるかどうか…とも思っていたところ、ちょうどいい機会だったから…ということで…。

 

(本線から脱線して本題から話が離れていくのはいつものこと…ともw)

 

 

 

以下、余談。

 

 

「三舟の才」の「円融院大井川御幸」で公任が詠んだ和歌は、『拾遺和歌集』にも収められています。

 

朝まだき あらしの風の さむければ
もみぢの錦きぬ人ぞなき


藤原公任/拾遺集 秋 210

 

早朝、嵐山は「嵐の山」だけに風は寒く、寒さのあまり木々も錦のような紅葉を着込み、人々にも衣(きぬ)を着ぬ人はいない…のような意味(『大鏡』とは初句が違って「をぐら山」ではなく「朝まだき」になっています)

 

『拾遺和歌集』は、花山院が勅を下し、公任が撰者となって編んだと言われています(本当はもうちょっと複雑なのですが、ここでは解説を割愛w)

 

この和歌、本当は「大井川御幸」で詠んだ和歌とは言葉が変わっていて、公任のオリジナルは、このように詠んでおりました。

 

朝まだき あらしの風の さむければ
散るもみぢ葉の きぬ人ぞなき

 

早朝、嵐山は「嵐の山」だけに風は寒く、強い風に紅葉が散って人に降りかかり、まるで着衣のよう。だからこの場に、衣(きぬ)を着ぬ人はいない。

 

原歌の方が機知と技巧が凝らされていて、申しうけ給へるかひありてあそばしたりな(自分で申し出ただけあって、すぐれた和歌をお詠みになった)」に相応しいかんじがあります。

 

これが、『拾遺集』に収録された際に変えられたのは、花山院の手によるのだそう。

 

ただ、花山院は公任に「このように変えても良いか?」と打診した際、公任は「元の歌のままにしておいて頂きたい…」とお断りを入れたと言われています。

 

なぜ、花山院は「散るもみぢ葉の」を「もみぢの錦」に変えたかったのか?

なぜ、公任は「散るもみぢ葉の」の方が良かったのか?

 

それは……お近くの和歌に詳しい人に聞いてみてください(笑)

 

(花山院と公任が、こうやってやり取りしているのが楽しかったので、ついでにご紹介したまででして…失礼イタシマシタ)

 

(しかし、公任はお断りしたのに、どうして変えられた形で『拾遺和歌集』に収められているんですかね…?)

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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