平安時代を漁ろうとする時の最大の悩み。

 

それは「藤原氏」なのではなかろうか。

 

来年の大河ドラマ『光る君へ』の主役・紫式部は、父が藤原為時であることからも分かるように、藤原氏の出自(勧修寺流)

 

夫となった藤原宣孝も、藤原氏(勧修寺流)。

 

紫式部が仕える彰子と父の道長も藤原氏。

 

「四納言」と呼ばれる道長の腹心四天王のうち3人は藤原氏。

(藤原公任・藤原斉信・源俊賢・藤原行成)

 

どこからどこまでも藤原氏(^^;

 

2012年大河ドラマ『平清盛』が「平氏と源氏と藤原氏ばっかりで分かりにくい」と言われたのと同様(あるいはそれ以上)に、誰が誰だか人間関係が分かりにくくなりそうなこと請け合いです。

 

それを紹介する系図ブログでもやってみようかな…なんて思ったりもしたのですが。

 

藤原氏って「長男以外」が本流になっていくことが意外と多いな…と、以前から思っていまして。

 

支流の紹介がてら、これを整理してみると面白いかもしれないと思ったので、今回はそんなネタシリーズをやってみよう…という試みです。

 

 

後に「藤原摂関家」を輩出する藤原氏本流は、藤原北家の一氏族。

 

藤原北家の系図は、以前にもやっております。今回は、それをやや深掘りしてみよう…というかんじで。

 

系図で見てみよう(藤原北家/藤原摂関家)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11239438872.html

 

藤原北家は、藤原不比等の次男・房前(ふささき)が祖。藤原鎌足の孫に当たる世代です。

 

 

そうそう。藤原氏繁栄の礎を築いた不比等も、実は鎌足の次男。

 

長男は中臣真人(なかとみ の まひと)。出家して定恵(じょうえ)」と名乗りました。

 

長男なのに出家している、その理由は謎

熱心な崇仏派だった蘇我氏にだって、長男で出家した人はいません。そもそも、中臣氏は神祇に関わる廃仏派だったわけですからね。

 

ただ、定恵は遣唐使として渡唐しています。

 

遣唐使は当時の最先端の知識と技術に触れられるエリートコース。

僧侶になった方が優先的に渡唐できたから、出家してみた…とか、そういうことだったのかもしれません。

 

白雉4年(653年)に唐へ留学すると、神泰法師(玄奘三蔵の弟子)に師事。

12年後の665年9月に帰国を果たしますが、同年12月に身罷ってしまいました。

 

定恵が長生きしていたら、不比等の出る幕はなかったんだろうか。

それとも、結局は「壬申の乱」(672年)で不比等とともに没落して、それまでの人生となったのか。

 

しかし、史実通り持統天皇に見出された不比等と、一緒に復活を果たし、ここから分かれた今とは違う藤原氏の歴史もあったのかもしれません(でも出家しているから、どのみち子孫はいなかったのかな)

 

 

話を戻して、不比等の子は、長男は武智麻呂(むちまろ)、三男は宇合(うまかい)、四男は麻呂(まろ)

「藤原四子」という、奈良時代の名物有力者キャラクターズです(ここでは「藤原四兄弟」で通しますね)

 

…というあたりは以前にも触れましたが、だからって省略するのも芸がないので、もう一度触れて行きます(笑)

 

系図で見てみよう(藤原氏/藤原四兄弟)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11241637655.html

 

房前は、長兄の武智麻呂(680年生まれ)とは、わずか1歳差(681年生まれ)

房前は政治力に優れていて、そのために兄と昇進の年が並んだ…と言われています。

(武智麻呂が病気療養のために1年、政界から離れていたことがあって、それで追いついたとも←1歳差ですしね)

 

ちなみに宇合は694年生まれ、麻呂は695年生まれ。弟とは随分と年が離れています。

 

父・不比等亡き後、朝堂のトップになった長屋王を「長屋王の変」(729年)で自害させて、「藤原四兄弟政権」を樹立し、天下を獲りました。

 

しかし、天平9年(737年)、流行り病の天然痘によって四兄弟はわずか5ヶ月の間に立て続けに薨去

 

お互いに病を見舞ったことで感染したのだろう…と言われ、ここから「仲のいい藤原四兄弟」の関係が想像されます。

 

…と、言われているのですが。

 

それぞれが亡くなった日付を見てみると…

  • 武智麻呂:天平9年 7月25日 没
  • 房前:天平9年 4月17日 没
  • 宇合:天平9年 8月5日 没
  • 麻呂:天平9年 7月13日 没

麻呂(7月13日)→武智麻呂(7月25日)→宇合(8月5日)は「立て続けに」という感じがしますが、一番最初に亡くなった房前(4月17日)からは、結構時間が経っているかんじがします。

 

ここから、

 

房前の見舞いには誰も行ってないのでは
房前だけ他の三兄弟と距離があったのでは

 

とも言われているみたい。

 

721年の元明上皇が亡くなる直前、一介の参議に過ぎなかった房前が、右大臣・長屋王とともに死の床に呼ばれて後事を託されて、さらに祖父の鎌足以来となる「内臣」に任じられ、「聖武天皇の補佐」を期待されています。

 

藤原四兄弟といえば「長屋王の変の首謀者」と言われているのに、房前は長屋王に近くないか…?

というわけで、「藤原氏主導の政権を作りたかった三兄弟」「右大臣・長屋王の政権に参加している房前」という対立構図があったのでは…という説があります。

 

本当のところはどうだったのだろう。

ともあれ、亡くなった日の離れ具合は、兄の政治的立場を凌駕していたことと加えて、ちょっと気になりますねー。

 

 

房前の子の世代、摂関家の祖は真楯(またて)」

 

こちらは房前の三男で、長兄に鳥養(とりかい)、次兄に永手(ながて)がおりました。

 

鳥養は早くに亡くなったようで、藤原北家は永手が嫡子となっていました。

 

時は、藤原南家の棟梁・仲麻呂(武智麻呂の次男)の時代。

 

仲麻呂といえば「中国かぶれ」で有名で、政治官僚の名前を「唐名(中国風)」にしたことにも表れています。

 

真楯は、最初は八束(やつか)」という名でしたが、仲麻呂から唐名の「真楯」を賜って改名しました(ここでは、八束時代も「真楯」で通しますね)

 

一方、永手は唐名には改めなかったと言います。

 

ここから、「仲麻呂とは距離を取っていた永手」「仲麻呂に近しい真楯」という構図が見える…というと、ちょっと違うみたい。

 

「藤原四兄弟政権」と「藤原仲麻呂政権」の間には「橘諸兄政権」があるのですが、ここでは永手の昇進は停滞し、真楯は兄の永手を越える昇進を果たしています。

 

これが仲麻呂政権になると、仲麻呂に政治力を怖れられた(妬まれた?)真楯の出世は停滞。替わって兄の永手が抜擢されて真楯を越える昇進を果たしています。

 

「藤原氏政権樹立」を目指す仲麻呂が提携していたのは、永手の方だったのです。

 

しかし、橘諸兄政権の打倒が叶うと、仲麻呂は「恵美押勝(えみし の おしかつ)」の名を賜り、藤原氏全体ではなく「藤原氏恵美家」の独裁を願うようになります。

 

独裁者になっていく仲麻呂に永手は反発。名を唐名に改めなかったのは、このためと言われます。一方、昇進が停滞していた真楯は、改名に同意して仲麻呂の警戒を解こうとしていたわけです。

 

つまり、永手は仲麻呂に反発しており、真楯は政界を泳ぐために仲麻呂に近づいただけで本心では微妙だった…ということ。

 

兄弟はどちらも、「藤原仲麻呂の乱」には孝謙上皇サイドとして参加。仲麻呂の討伐に成功し、以降の時代にも実力者の家として残る選択を果たしました。

 

 

仲麻呂亡き後、怪僧・道鏡の時代が称徳天皇の崩御とともに終わり、白壁王(=49代・光仁天皇)、山部親王(=50代・桓武天皇)の即位で平安時代へと移ろっていく頃、真楯はすでに故人となっていました。

 

永手は左大臣となって政権を運営。藤原北家は、真楯の異母弟にあたる魚名(うおな)が実力者となっていました。

 

魚名が見た夢(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html

 

真楯の子では、藤原氏本流の祖は三男の内麻呂(うちまろ)」

 

長兄は真永(まなが)、次兄は永継(ながつぐ)。

正六位上と正五位下という、どちらも微妙な官位までしか昇っておらず、生没年も消息も不明。卑母所生の凡人だったということなんでしょうか…。

 

藤原北家の首魁・永手が亡くなった後、時代は藤原式家(宇合の子の家)の天下。外戚として式家の良継、田麻呂、百川らがバリバリ政治を動かしていました。

 

なんぜ、桓武天皇は渡来系氏族出身の母から生まれ、後ろ盾が弱かったのですが、藤原式家(宇合の家。特に百川)の尽力によって即位することができた天皇。

 

桓武天皇は式家に感謝してもしきれません。式家の娘2人を後宮に入れ、結果的には平城天皇(安殿親王)、神野親王(嵯峨天皇)、大伴親王(淳和天皇)と、天皇になる皇子を3人もうけています。

 

しかし、良継が777年、百川が779年と、桓武天皇の即位時(781年)には式家の実力者はこの世を去って、式家は一旦、衰退。

藤原北家を牽引していた魚名が左大臣となり、トップに躍り出ます。

 

ところが、桓武天皇の即位の翌年(782年)、魚名は突然左遷されて失脚。

 

理由は不明ながら、「天皇親政」を目指し「藤原式家」と提携する桓武天皇に「藤原北家、邪魔」と思われたとも見られ、同じく藤原北家の家依(いえより・永手の息子)も冷や飯を食わされた挙句に早死にしてしまいました(785年)。

 

家依の弟・雄依(おより)は、母が藤原式家の人だった関係もあって(良継の娘)順調に昇進するのですが、「藤原種継暗殺事件」(785年)に巻き込まれて失脚。永手の系統は政治史から姿を消すことになってしまいます。

 

その時、内麻呂は何をしていたのか…?

 

内麻呂は天応元年(781年)、従五位下に叙されて、官歴スタート。

延暦13年(794年)、39歳にして参議となり、政界デビューを果たします。

 

781年は、桓武天皇が即位した年。

794年は、平安京遷都があった年。

 

内麻呂が桓武天皇の側近的な立場にあったことが、なんとなく伺えますねー。

 

「藤原種継暗殺事件」が起きた延暦4年(785年)。

内麻呂の元妻で、桓武天皇の女孺(めのわらわ=雑事担当の下級女官)を務めていた百済永継(くだら の ながつぐ)が、桓武天皇の皇子を生みました

 

下級女官をしていたくらいですから、百済永継の身分は高くありません。生まれた皇子は「親王」の身分にはなれず、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下。良岑安世(よしみね の やすよ)と名乗ります。

 

彼は百人一首12番歌の詠み人・僧正遍昭(良岑宗貞)の父に当たる人物。このあたりは以前にも触れましたねー。

 

系図で見てみよう(桓武天皇御後)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12784649757.html

 

百済永継が桓武天皇の皇子を生んだ経緯は、詳しくは存じないのですが、もしかしたら「家臣(内麻呂)の妻に手をつけた挙句に子供ができちゃった」なのではなかろうか。

というのも、内麻呂はその後、急速に昇進を重ねて行くから。「ごめんな内麻呂…昇進させるから堪忍したって(汗)」という桓武帝の声が聞こえてきそうだったり…(笑)

 

(もしくは、桓武天皇は生母・高野新笠が渡来系氏族の出自で、渡来系と関わりが強かったので、それに接近することを狙って、内麻呂も渡来系の百済永継を嫁にしたのかもしれない?このへんは想像の域を出ないですが…ううむ)

 

ともあれ、藤原北家の権力が永手や魚名の系統から内麻呂の系統に移って、平安時代の藤原氏の本流になっていく原点が、桓武帝・内麻呂の関係に見えてくるわけですねー。

 

 

というわけで、不比等→房前→真楯→内麻呂ときたところで、今回はここまで。

 

次回は平安時代前期から中盤へと進んで行…けたらいいな。オタノシミニー。

 

 

 

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