ここでは、以前に同様の内容をいくつか書きましたが、それをまとめておくことにします。
1 ノストラダムス自身、詩の内容について、「それが起こってからか、それが起こる直前に解読される」と言っています。
そこで、一番気になる「それが起こる直前に解読される」という内容についてですが、おそらく、世界的にノストラダムスのことが知られるようになるようですから、その知られるきっかけは「預言の内容が当たった」ということになろうかと思います。そして、解読するのは日本人である(1巻48番)ということですから、日本人が書いたものが世界的に広がるためには、少し期間が必要だろうということです。
具体的に言うと、実際にその出来事が起きたときに「日本人でノストラダムスを解読していた人が、この状況を言い当てていた」というところからノストラダムスの話が広がるというのが、一番、あり得るケースではないかと考えています。
となると、ノストラダムスは「直前」と言っていますが、そのことが起きる前にある程度知られていて、そのことが起きたときに話題になるという流れを考えた時、実際に解読できている時期と言うのは「そのことが起きる数年前」くらいということになりますね。
また「それが起こってから(解読される)」という部分についてですが、ハッキリ言うと、現時点では何のことを言っているか、全く分からないという詩が多く存在します。これは、文字通り、そのときになってみないと分からない詩ということでしょう。
ただ、中には、部分的に「こういう内容ではないか」と解釈できる詩も存在します。具体的に言うと、一つの詩は4行で書かれていますが、1・2行目は意味が分かるけれども、3・4行目はハッキリしたことが分からないとか、1行だけは、意味が分かるけれども残りの3行はチンプンカンプンで、その残りの3行の部分は、そのことが起きてみないと分からない、というケースですね。
ただし、そういった詩でも、分かっている部分だけを抜き出し、他の詩の内容とつなぎ合わせていくと、預言の全体像が見えてくるものがあります。逆に言うと、この全体像が見えて「次にこういう事が起こる」ということが言えないと、一つや二つ、預言が当たったように見えていても、以前にもあった「解釈の仕方で何とでもなる」という風潮に流され、ノストラダムスの預言が否定されてしまうことになりかねません。ですから、預言詩の中に、解読のヒントがちりばめられているといった仕掛けがしてあるだろうと思っています。
特に、それが「肝心な部分を補うキーワードの解読のヒント」であった場合、その詩は非常に大きな役割を持っていると言えるでしょう。
2 「予言」と「預言」の違いについて
「予言」とは、簡単に言うと「未来の予測」。
ですから、「予言」とは「未来の内容だけ」なのです。
それに対して「預言」とは「神様から預かった言葉」。特にノストラダムスの詩は「神様から見せられた映像を4行詩にしたもの」なんです。そこで考えなければならないことは、「神様が見せてくれた映像は、すべて未来のものか?」ということ。要するに、すべて「予言」になっているのか、ということです。ただ、そこは、疑問符がつく。
というのは、実は、ノストラダムスの書簡である「アンリ2世への手紙」の中に、過去のキリスト教の変遷について、かなりの長文で語っているところが出てくるんです。それもまるで自分で見てきたかのように語っているんです。ですから、個人的には、ノストラダムスは、神に「過去の映像も見せられていたのではないか」と考えているんです。ちなみに、ここでいう過去とは、「ノストラダムスが預言書を書いた1550年代より以前の内容」のことです。
そして、個人的には、預言詩の中にも「過去の内容について書かれているものが多数存在する」考えています。というのは、ノストラダムスの預言をすべて未来のこととして解読すると、どこかに齟齬が生じる。特に顕著なのは、1巻49番の内容ですね。これは、過去のものとして解読しないと文法的にも全く意味が通じない。さらに、詩の中には、同じ固有名詞を使いながら、「過去のこと」と「未来のこと」という別の内容を表すような手法をとっているの詩もあるのではないかと考えています。そうして、解読する人を惑わせ、実際に物事が起きるまで、解読しずらい内容にしているのではないかということです。というのは、今までにも「一つの単語をすべて同じ意味」と解釈をして、結果、うまくいかなかったというケースが散見されるからです。
そこから、そのことに気付いて、過去と未来を分離して解読を行うという行為によって、正しい解読に行きつく者が日本に現れるということなのだろうと思っています。それが「日本人が解読する」という真の意味だと捉えています。