速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(三)第一高等中学校 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 ところで医学部には本科予科のほかに別課と製薬課(課ママ)があり、みな修業年限が異なる。予科は十四歳から入学可能で年限は五年、さらに本科五年の長丁場である。慶応二年生まれの玉井は入学時十六歳ですぐ十七歳であるから諸書に言うほど若かったわけではなさそうである。予科の入試科目は「日本外史」、算術として「分数小数比例」、ドイツ語「作文反訳」、書き取り「ドイツ文」となっている。玉井は入学前に準備として独協大学の前身と言われる学校(厳密には違うらしいが)に通っていた。


 初年次の科目中「習字」「綴字」「読方」「作文」「文法」などはおそらくドイツ語で、他に「和漢学」「分数」「地理学」などがある。本科の教授の半数以上はドイツ人で、講義の多くがドイツ語で行われたであろうから、その準備としての語学課程であろう。ちなみに別課は十八歳から入学可能で、年に二回募集され半年ごとに進級する。基礎科目が省かれ、講義は日本語、修業年限は四年である。各学期の期間も若干短く、学士号は得られない。
 

 医科に関しては以上で措いて、少し下った『第一高等中学校一覧 自明治十九年至明治二十年』を見ると、ここに玉井喜作が現われる。明治十九年は予備門を改組して第一高等中学校が発足した年である。当時の高等中学の学年構成は予科三年、本科二年だが、本科の法科第一年(独)に玉井が居る。同じクラスには医学部予科の同窓?の土屋達太郎もいる。共に年次で言えば医学部予科五年分を終えて法科の本科に入ったことに相当する。
 

 たとえ予備門分黌を卒業しなかったにせよ、法科本科に在籍していたことは動かせない。ここに名があることが、法科の予科あるいは予備門卒業に准ずるとみなされていた証左であろう。似た例として共に独文学者となった菅虎雄と藤代禎輔がいる。菅は玉井と同じく明治十四年に医学部預科に入学、藤代は少し遅れて編入し共に明治十八年十一月に予備門の医科を卒業している。そして玉井と同じく十九年の第一高等中学校文科一年の名簿に名がある。つまり玉井との違いは、法文の別はともかく、予備門の卒業者名簿登載の有無にある。卒業あるいは学位は明治期にあっても重要であったとは思うが、少なくとも編入転科に関しては現代よりも柔軟に対応していたことになろうか。
 

 それ以前以後がどうなっていたかは不明である。残っている予備門本黌の一覧はその前二年分がなく、三年前のもの(尾崎らが最下級に入学した年)は有るが、勿論ここに玉井は見えない。また次年度以降数年分の『第一高等中学校一覧』も国会図書館には欠けている。
 

 ところで、この名簿を見ると隣のクラスである法科第一年(英)二之組に硯友社の三名、すなわち川上亮、石橋助三郎、尾崎徳太郎(席次順)の名がある。明治十九年秋、つまりこの学期の開始と時期を同じくして我楽多文庫の活版非売品の頒布が始まっていた。他にも見たような名が名簿のそこここに見受けられる。