本能寺の変 歴史の真相を霊視 その1 歴史の霊視について?本間きよし編
本能寺の変について、平成9年の8月の楽天ブログで
過去記事として書いた事がありましたが
私は歴史のことはまったく詳しくはなく、
本能寺の変についてのブログ読者の方々からの
「本能寺の変の首謀者は誰?その真相は?」という質問で
思わず、霊視的に「本能寺の変」とイメージを当ててしまった時に
豊臣秀吉の名前が頭に浮かび、
「あれ、石田光成じゃあ、なかったっけ?」
とネットで調べだしたのが、きっかけでした。
私はいつも霊視するときにする事は
文章の中の霊的なエネルギーのメッセージの有り無しに
妻との霊界通信と同じイメージで焦点を当て、
その焦点がブレないようにキープし、メッセージから伝って来る
イメージを私の感覚として通訳しています。
「私がもっと語源力が豊かだったら。」
私がいつも霊視的な通訳時に考えるところです。
それでは、過去ブログを参考に、私がどんな感じで
私が全く詳しくない苦手な歴史について
霊視したのかについて書きたいと思います。
(本能寺の変の説明より)
天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣・丹羽
長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。
同年3月11日、北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。
上杉家は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の
進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
同年5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。
そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚く
もてなした。
家康接待が続くなか信長は、備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の
依頼を受けた。「毛利氏が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」との
ことであった。
信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記』
などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた
信長は小姓の森成利(森蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。
信長は5月29日、中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(在京)に逗留して
いた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に
本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への
忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたと
いわれる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に
奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、居間に戻った信長は
自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。享年49(満48歳没)。
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったため、密かに脱出し別の
場所で自害した説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという
説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。
弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向に
ついては不明となっている。
平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったと
される堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えて
いた可能性が指摘されおり、現在も調査が続いている。
→この説明文から簡単に
本能寺の変の真相は織田信長が明智光秀に徳川家康の接待役を
命じたが、接待内容に不満を覚えた信長が森蘭丸に光秀の頭を
はたかせた事で織田信長に恨みを抱いて、秀吉の援護のために
出兵した兵士1万3千人で本能寺に宿を取って居た信長(160人)を
襲撃したという話のようです。
ここで私の霊視センサーが一番反応したのが、
明智光秀にとって一番の屈辱は?
そして、織田信長のおごりと失敗。
明智光秀にはひがみに近いイメージ。
そして、織田信長にはその力に恐怖感を持ちながら
反抗心的な第3者の存在に繋がるイメージです。
そのイメージを私はキープしながら、一枚一枚歴史的な霊界ページを
めくって行きました。
まず、明智光秀のイメージからですが(過去ブログからその1より)
1番最初に考えておきたいのは、頭をはたかれたから天下人信長を
簡単に敵に回す事が出来るかと言う事です。
明智光秀のイメージに入って行きますと、とても真面目で、
殿からの命令は絶対のイメージがあります。
そして、部下に対しては一本筋が通っているイメージで、
織田信長の言葉なくしての行動や判断は絶対に行わないくらいの
忠誠心が伝わってきます。
そのため、頭をはたかれた以外の信長に対する恨みは
あるのかに関しては
信長はいろいろなことで自分勝手な行動をするようなイメージな
方であるようです。
部下の中でかなり実力のある方々にもそんな自分勝手な
嫌なイメージを与えていたようですが、戦に勝利するなど
その行いの結果をちゃんと残しており活躍した武将には
褒美もケチることはなく与え、飴とムチを上手く使い分けて
いたイメージです。
明智光秀のイメージから信長を見てみますと、天才で心ある
人物に見えていたイメージです。
(これは絶対にゆるぎないイメージです。)
そして、家族の中で大事な方を信長に送れるほど
忠誠心を誓っているイメージです。
たぶんですが、信長に死ねと言われたら何も反感も持たずに
自決出来るくらいの覚悟を持っての忠誠のイメージを伝えてきます。
では、こんなイメージの方が何故、一万三千もの兵士を連れて
たった100人の護衛しか付いていない本能寺に向かって
しまったのでしょうか?
もしも、織田信長を打倒したとして、その後の事は考え
なかったのでしょうか?
織田信長を頂点とする兵の数は、その何倍も居たと思います。
特に、秀吉や家康といった歴代の武将が敵になる可能性は
大にあったと思います。
しかも、明智光秀が率いた一万三千の兵は織田信長の
正規軍だという話です。
誰が、明智光秀の命令を聞くのでしょうか?
ましてや、兵を騙す事が出来たとしても、織田信長の暗殺が
知れた時にはすべての兵をその時点で敵に回してしまうものと
思います。
こんなリスクしかない事は、知将明智光秀が予測できない
訳がなかったと思います。
頭をはたかれたくらいの腹いせに、織田信長を襲撃しようと、
天下の知将明智光秀が考えるでしょうか?
とてもおかしい話だと思いませんか?
では、誰か違う武将との裏での繋がりや、指示があったのでは?
についてですが
そんな計画的な時間をかけるほどの時はなかったイメージです。
本能寺に向かう明智光秀のイメージは一刻も早く向かわねばという
イメージだけが伝わってきます。
(過去ブログの追記として)
明智光秀は過去に一度だけ織田信長を心より
憎み、鬼となったそうです。
しかし、
「我が人生表にあらず、裏にもあらず。天の示すがままに
我が生涯の道なき道をただひたすら行くのみぞ。
我が身は武士の鬼として、その身が形崩れし時
我が魂は我れが望みし何処へ。」
すぐにでも武士を辞め仏の道にその身を置こうと何度も考えたが
一族、そして家臣の将としての責任を身のちぎれる思いで
天に委ねる事を天命として誓ったようです。
織田信長による比叡山の焼き討ちは仏の世界を重んじる明智光秀に
とっては地獄絵図にほかならなかったイメージです。

にほんブログ村 にほんブログ村 癒し・ヒーリング