2、明智光秀という武将 歴史に隠された真相を霊視 人間同士の殺戮の世がいつまで続く? 山崎の戦い
(山崎の戦いへの決断)
明知光秀は、本能寺の変で信長が殺されたと言う事は、絶対に信じることが出来ませんでした。信長こそが下刻の地の天下人と、天から生を受けた人物だと信じていたからです。比叡山の焼き討ちなどという信長の問題があると思われる行動も、それまでの下刻の時代の殺傷や殺戮行為を浄化するための天の意思と光秀は信じていたようです。それほど、罪もない人間が何十何百万人と死に行く時代で、人間同士の意味のない血で血を拭う争いに、矛盾を感じていたイメージです。そして、それを変えられるのも信長という天下人ただ一人だと光秀は思っていたようです。(光秀のイメージに深く入ってみますとは自分に信じ込ませていたと言うほうが正しいのでしょうか?比叡山の修復やその援助をその後、信長に隠れてなのか?行っているイメージを伝えてきます。これが後の伝説に繋がるイメージです。)ですから光秀は、本能寺の変で自分がはめられた事を知った時も、信長の無念を晴らす事を強く意識したようですが、自分の智将としての至らなさが織田信長の死と繋がって、1万以上もの兵の危険を作ってしまった現状を、自分が責任を負うことで消す事が出来るなら、自分の身を(武士としての魂を)差し出す覚悟もあったイメージです。そのすべてを天の意向に任せようと強い意志を思っているイメージです。しかし、さすがは信長精鋭の光秀率いる正規軍です、信長や光秀に対する恩義忠誠を優先したようです。ただ問題であったのは、その他の援軍となるであろうはずの者達がことごとく裏切った事です。内部にもかく乱させる者や裏切り者が多数いたようです。(秀吉の作戦として光秀孤立作戦と、内部スパイ工作の影響で最初から戦にはならなかったのではないかと思います。)
結局、山崎の戦いの時には光秀軍は1万6千、秀吉軍が約4万とも言われて居ますが、光秀軍の実践戦闘力として実際は、1万も居なかったのではないかというイメージが伝わって来ます。歴史書によりますと、1582年6月13日の午後4時に山崎の戦いが行われて2時間後の、午後6時には秀吉が圧倒的に勝利したと言う事です。(光秀軍は後退して城に籠城したと言われていますが、戦いはこの時点で終わって いたようです。)私は戦国時代の戦については全く良くは解りませんが、双方が数万人もの兵を率いる戦いでしかもその大将が、当時の百戦錬磨として名高い織田信長直属の正規軍でもある、明智光秀率いる全国屈指の軍なのです。2時間というまるでスポーツ観戦?のような時間帯で決着が着く戦いってあるのでしょうか?そして、光秀の軍の百戦練磨の鉄砲隊はいったいどうしたのでしょうか?戦場の形状が鉄砲隊には難しく、布陣をちゃんと組めなかったからまったく機能しなかったのでしょうか?秀吉の作戦では天王山というの頂上を手にしたものが勝利するような作戦があったようですが、たかだか山の頂上や天王山と言う名前の山を手にしたくらいで戦は勝つものなのでしょうか?光秀はそんな戦い方しかできなくて、織田信長の謀反者となる道を選んだのでしょうか?本能寺の変の時の織田信長直属の正規軍を率いての織田信長討伐的な光秀の謀反?もそうでしたが山崎の戦いでの歴史書に書かれ伝えられている内容は素人の私には疑問だらけです。
ここで、山崎の戦いの真相のヒントとし
光秀さんのイメージで「我はゆくなり。我が道がそこにある限り、わが心(天下人=信長)武将としての恩の義にかけて、ゆるぎない心を持ってこそ、その光の向こうに天は来たり。」というイメージを光秀は伝えてきます。私は光秀さんの言っている事は良くは解りませんが、私なりにイメージを通じて通訳したいと思います。
「私の信じているものそれは、信長を位置する天下人。」
「私の一生は、我が道の武将としてその恩義をまっとうすること。」
「その心が私の一生(死)を持って、永遠の未来の時に続くもの」
たぶんですが、光秀は戦国という時代で、自分自身の一生を誰よりも真意に受け止めていたのではないかと思います。このイメージで山崎の戦いにのぞみ、最後までゆるぎないイメージでいたようです。(光秀は智将でもあり、高僧的な哲学論者であったのではないかと勝手に思います。)あくまでも私の霊視的なフィクションイメージでは、この山崎の戦いもまた秀吉の都合のいいようにその伝記が後世に伝わったものではないかとイメージを通じてそう感じます。
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