超スピリチュアル体験記 ~奇跡への階段~ -64ページ目

4、明智光秀は天海?説の真相を霊視  徳川家康の天下人としての開眼の瞬間




(明智光秀は天海大僧正?)

いよいよ今回のテーマであります、天海伝説です。天海は私の霊視的なイメージでは実は明智光秀ではなかったのです。ではいったい誰だったのでしょうか?明智光秀と関係のある人物だったのでしょうか?それとも本当は光秀とはまったく関係のない人物だったのでしょうか?


霊視的なイメージでこの真相に入る上でのキーワードが実はあります。


1、徳川家康が本能寺の変の時に堺から伊賀を通って周りからかなり守られている時のイメージです。


2、第一に3代将軍徳川家光の乳母である春日局の天界と初めて対面した時の

 「お久しゅうございます」という言葉です。

3、天海が高齢(108歳?)で亡くなっている事です。


この3つのイメージが光秀の思い、そして天海という人物の始まりに繋がって行くイメージです。

ではこれらにあげた3つのキーワードより天海伝説の真相に霊視的に入って行きたいと思います。


本能寺の変当時の徳川家康の置かれた状況は歴史的には命からがら大阪の堺より自分の城である岡崎城(愛知県岡崎)へ帰って来たとあります。その後すぐに兵を招集し、家康は明智光秀討伐のためにすぐに進軍をしていると伝えらています。しかし進軍時の家康のイメージに入って行きますと、信長暗殺者でもあり、家康の命まで狙おうとした憎っくき光秀を討伐するためにというイメージはまったくなく、逆に光秀を守るために援軍として西に軍を向けているイメージです。しかし進軍途中、山崎の戦いで光秀が敗れた事を聞いて本当にショックを受け、それでも西に向かおうとしていたようですが無駄である事を周りから説得され、なくなく自分の城に戻られているようで、岡崎城に戻ってからの家康は光秀の喪中に入っているイメージです。そこで、家康はとても落ち込んでいるイメージですが、家康がそんな状況の中で自分の出来ることとして、家康自身が前を向くために心に決意したのが、私(家康)自身が天下人になろうであろう偉大な豊臣秀吉への人生を掛けた反抗(成敗)でした。


家康のイメージは気が少し弱いイメージで、行動するには石橋をしっかり叩かないと行動出来ないタイプのイメージです。家康の気持ちの弱さでは、飛ぶ鳥の勢いを持つ実力者豊臣秀吉と対抗心を持とうとか、天下を自分の手で取ろう等と言う発想も行動も絶対に出来なかった事だと私は家康のその当時のイメージを通じてそう思います。しかしなのです、霊視的なイメージを通じて伝わって来ます家康の凄さ、家康の本当の力は、誰よりも優しく、人の心、そして人の温情を誰よりも大切にする方なのです。信長が暗殺された事は天の意志として、戦国を生き抜く武将としてその瞬間をしっかり受け止めて、どんな状況に追い詰められても絶対に曲がらない武将としての光秀に対して、心より尊敬の義を呈し、我が命の危険よりも家康に対する礼儀を優先してくれた事に対して(本能寺の変で堺より大事な家臣の護衛をつけて命を助けてくれたこと)恩を持って、弱っちい我が肝っ玉の小さき幼き気持ちのままの感情を捨て、そんな小さき運命なら、そのまま天にお任せして、自分の人生を光秀の恩(心)掛けてもいいという武将としての恩義を決意したようです。(これが天下人としての心の始まりです。家康は自分の子供心の感情で抑えていた天下人としての実力に開眼したのです。)そのため、その後家康は力がそれほどないのに秀吉に対して戦いを何度か挑んでいるイメージです。(それほど、光秀は歴史的な素晴らしい方だった事をその当時の武将のイメージで伝えてきます。)


天海に繋がるイメージとして、家康が天下人としてその魂(心)が開眼する前、本能寺の変直後に家康と運命的な出会いとなったある人物が実は居るのです。本能寺の変の直後に家康は大阪の堺より伊賀を通って岡崎に逃げ返っております。伊賀は家康にとって安全な場所であったのでしょうか?ここに大きな霊視的なヒントがあるようです。

ここで一番重要なポイントが

光秀は家康の守るためにあえて伊賀を通るルートを考えたようです。そのため光秀は、家康が伊賀を安全に通り抜けられるようにある使者(若者)を送り伊賀の実力のある方々に家康が伊賀を通ること、そして、大事な殿の客のためその身を丁重に警護してもらいたい内容を書いた手紙を、先回りして渡しているイメージがあります。その手紙を届けた人物が実は天界に繋がるイメージです。ここで、その伊賀に送られた使者としての人物は家康と伊賀で出会い光秀についていろいろと語り合い、家康との身分や年の差も関係なく、一人の人として心で意気投合しているイメージです。(短い時間ですが)そして、その若者は光秀の元へと戻って行きますが、光秀に対してとても嬉しそうに家康との出会いや、家康のお人柄などの印象を時間も忘れるほど楽しく話しているのを見て光秀はある事を決意したようです。その決意した事とは、我が命(光秀)亡きあとの仏の供養です。


光秀のその時のイメージは

自分が意図しないとは言え、比叡山の焼き打ちなど沢山の悪業となる罪を作って来ました。その罪を自分の命ある生涯において少しでも償おうと、地域の復興のための努力をして来ましたが、天の意向はそんな自分を許しては下さらなかったようです。天はまた新たなる天下人を作り上げて、戦乱の地へと導くつもりであるようです。光秀いわく、「それほど私が犯した罪は大きかったのでしょう。」その何の疑いもない透き通った若者のすがすがしい表情を見て、光秀は自分の最後を決めたようです。そして、その夜に白装束の姿の光秀が一つの手紙を書いて居ます。そこに書かれている文面の最後に、天海という名前があるイメージです。


実は天海と言う名前は、光秀の僧侶としての名前。光秀がある寺院(比叡山)に援助しながら信仰心を持って出向いていた頃の、ある高僧が光秀に付けた名前であるイメージです。天海の意味は、光秀が霊界に行ったときに天にある荒波を行き進む事で自分の生涯の業を清らかにする事とイメージは伝えてきます。それほど、戦国時代は光秀にとっては自分の力ではどうしようも出来ないくらい悲しい世界であったようです。光秀が自分の死を決めて書いた手紙は、山崎の戦いの3日前にその若者の手渡され、その若者にある願いが伝えられました。こんな民衆が飢えで次から次へと亡くなったり、人が人の手によって尊い命を奪いあう時代は絶対にあってはならない。私はこの戦いで自分の一生を全うするであろう。しかし、仏の道を開けなかったことは無念。私の命を掛けた願いを受けてはくれないか。その若者に、自分の未来の希望を書いた手紙を自分の命のタスキとして手渡しています。

その若者は光秀の願いを聞いて、場所もわきまえずに大粒の涙をこぼしその場に泣き崩れています。
そして、その若者を見た光秀も、こんな老いぼれに泣き悲しんでくれる事に感謝せずにはおれませんでした。

光秀は堪えし心を持って目に涙を浮かべながら若者に向かって

「天の導きたる(平和)時が来たら月夜の晩に大きな平野が見える場所で一緒に酒を酌み交わそうぞ。」光秀はその若者に会せてくれた天の導きに心より感謝し、そして我が人生の尊さに感謝されているイメージです。(光秀にもう迷いはなかったようです。)


若者はその日の夕方に自分を生んでくれた母への感謝の手紙と、父にだけ別れを告げて、自分の武士としての人生と、光秀の最後の時を悲しみ、そして惜しみつつ、光秀の示した場所に、我が人生の後ろを振り向くことなく武士としての死人の心を持って向かったようです。


長文で、フィクション霊視ですがついて来てくださいね。


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