超スピリチュアル体験記 ~奇跡への階段~ -67ページ目

1、<本能寺の変> 真相を霊視  明智光秀は生きていた 残された歴史書は勝者の有利な広告書?




本能寺の変の歴史の真相について私の霊視的なイメージで書かせてもらいましたが、「本能寺の変」以後、その首謀者と言われる明知光秀は生き抜いて関ヶ原の戦いでも徳川家康の右腕と言われ家康の参謀長管として200年以上も続く江戸幕府の基礎を作っるために多大な力を発揮されたと言われる天海大僧正になったのではないか?という、光秀と天海、同一人物説の噂が今現在に至っても根強くささやかれているようです。その詳細について過去ブログで霊視相談があり、霊視的なイメージで書かせてもらいましたがそのブログを中心にもう少し深く書いてみたいと思います。


(明智光秀は本能寺の変以後生き延びて、天海になった?の霊視相談です)

「光秀は京都の合戦で敗れ、竹やりに襲われ亡くなったと言われていますが、“襲われたのは影武者で光秀は生き延びて天台宗総本山の比叡山(信長に焼き討ちをされた寺)に身を寄せた(その敵を討った光秀を優遇)”という噂です。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学び、大僧都にまでなった光秀の名が比叡山の文庫のなかにはっきりと記載されているそうです。天海は、日光で一番眺めのよい荘厳な華厳の滝のある地を「明智平」と命名した。比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されている。日光東照宮の社殿には 明智家の家紋である桔梗の紋が描かれてる。 徳川「秀忠」と「家光」は、天海大僧正が名付け親になった。(両方とも光秀の字が使われてる)さらに天海大僧正は135歳まで生きたという説もあり、明智光秀、秀満2代位に渡って演じたのかもしれません。」


この霊視相談文面には歴史的にもかなり深く温かいイメージと、霊視的にも本能寺のその後、明智光秀の歴史は実際に歴史書と違った形であったのではないか?と感じられるイメージが満載ですので、歴史を知らない私でもかなり興味深々です。

やはり歴史は勝てば官軍。

歴史書という勝者側が自由に書く事が出来る特権は、その軍の勢力を誇示するためにも欠かせない、世間向けの情報操作的な広告という意味も大きくあったイメージのようです。「明智光秀は生きていた。」その真相について霊視してみたいと思います。


明知光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉と山崎の戦いで戦っています。


(山崎の戦いについてです)

光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。実際には、羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。




歴史的にはこのような内容になっているようでが、明知光秀のこの当時のイメージに入ってみますと、織田信長の正規軍を犠牲にしてまで、本能寺での織田信長への謀反などという気持ちはまったくないイメージです。それよりも、本当の謀反者を探し出し、殿の名において征伐しようとしているイメージです。しかし、私の「本能寺の変の歴史の真相について霊視」でも書かせていただきましたが、織田信長、明智光秀の直属の部下は、本能寺の変の信長暗殺は豊臣秀吉の謀反であると解っている事と、直属の正規軍の大将の中にも織田信長亡き後の天下を取るチャンスのイメージを持って居る者もいたようで、その会議のようなものが何日かあったイメージです。その中で明智軍が最終的に出した答えが、戦えば答えが出るであろうということです。その結果が、山崎の戦いであったようです。

 
光秀は山崎の戦いの前にいろいろな策を考えたようです。

 

まず、最初に行ったのが、堺に居る家康に織田信長の死を知らせることと、自分は潔白である事、そして家康も信長より信頼があるので敵に狙われる可能性があるので、早く自分の城に戻るように家康と伊賀の方(伊賀の知り合い?)へ同じような内容の手紙のようなものを送っているイメージです。(家康はこの手紙をもらって、かなり動揺しているイメージですが、光秀直属の部下でかなり実力のある方々が護衛となって先導し、伊賀を通って数日かけて安全に岡崎城に戻っているイメージです。)次に、周りの織田信長の繋がりのある国に信長が本能寺で亡くなったことや、自分が濡れ衣を秀吉にかけられている事の詳細を正確に伝えるために直接使者を送っているイメージです。(しかし、それを伝えられた側は、秀吉の策略でもっと早い段階で、明智光秀の謀反があった事を、各国に伝えてられているイメージで、軍の力では群を抜いている秀吉が相手という事もあって、その情勢の流れを冷静に見ているイメージです。)そして、光秀は信長正規軍1万3千の各総大将を集め、本能寺の経緯を説明しているイメージで、どうするか?それぞれの家臣である総大将にも意見を求めているイメージです。

その結果が、全体的なイメージとしては、本当の謀反者を倒すという統率力が出来て山崎の戦いに望んでいるイメージです。しかし、ここでもやはり一番活躍したのが秀吉の秘密兵器のスパイ工作部隊(忍者?)のようです。山崎の合戦前のイメージでは、数は秀吉の方が多いようですが、やはり寄せ集めの人数よりは信長直属の精鋭部隊の方が有利なイメージです。しかし、秀吉は攻め込むというリスクではなくて、内部かく乱的なイメージで戦いに臨んでいたようです。秀吉のイメージは「時がたてば自ずと悪の牙城は崩れるもの」という時間を待っているイメージです。それに対して、光秀のイメージは、「統一をもって(信長の意思を一つにして)天の意思にゆだねる」という、秀吉の影でコソコソ裏工作とは対象に正々堂々との戦い姿勢がそこにあったようです。

 

そして、光秀の素晴らしい所は、「天下の謀反人」という汚名をきせられているそんな状況にあっても、天下人とは天が決めるものという揺ぎ無い気持ちを持って居るところです。(織田信長の仇打ちや、自分が天下人になるという武人としての感情は全くなく宗教的なイメージでもある、天の意向(天の判断)を重んじていたイメージです。)

あくまでも私の霊視的なイメージではありますが、何があっても信長を尊重する光秀に応援したくなってしまいます。


歴史に関してまったく詳しくない私流の霊視的なブログですので、ご意見はいろいろとあるかも知れませんが、楽しんでいただけましたら幸いです。


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