学生時代に
スポーツクラブに通い始めてから
30年がたちます。
きっかけは恩師から紹介していただいた
オーストラリアへの約1カ月の遠征。
それに先立ち、
稽古の指導をいただいているなかで
その学びのフォローとして
スポーツクラブに入会したことは
いまもよく覚えています。
そのジムの名前は
業界再編で何度か変わりましたが、
途切れることなく現在に至っており、
食生活をはじめ運動の基礎知識や
さまざまな出会い、
出来る仲間たちからの学びまで
多くの機会をいただいてきました。
フリーウェイトに、
マシンやスイミングもときどき、
各種のスタジオメニューにも参加する
特別なことはない普通のジム。
それとともに、
自分にはないものを持っている仲間、
インストラクターや
多様な特性のあるメンバーからの学びは
尽きることがありません。
そこでの考察や着想、
仮説と検証を繰り返す習慣は
これまでの仕事や長年の稽古とともに
ジムのなかでも考える時間を
たくさんいただいていることによるもの。
偏り過ぎないよう、それ以上に
そのほかの時間をつくるようになったことも
副次的な効果といえます。
一つの取り組みが、
そこから派生してさらなる目標や経験につながり
自分のなかで何かが広がっていくことは
誰しもあるもの。
その根底にあるのは、
出来ない自分であり、何者でもない自分。
恥じ入るほどに弱く、甘い。
相応の年月が経過して、
そうではないようで、そうでもある。
ただ一つ、
この身に培ってきものは
強さ、厳しさとも違う、
それほどに明瞭な輪郭もない、
両の手のひらでふわりと包めるような
やや手触りのある感覚。
この形容できないものを恩師や母なら
どう表すだろうかとも思います。
顧みれば、
新しいなにかを追い求めるというよりは
真に己となっていくような、
そのような教えをいただいてきたように思う。
新生や変わり身、真似ではなく、
根や幹を付け替え、
接ぎ木や寄せ木をすることでもない。
まさに哲人、森有正氏が言う
自分の根を張り
この幹を成長させる、
自分こそが己自身となることなのです。
稽古の真髄は、
呼吸法とそれにガチっと重なる円運動。
一見、外に向かって強く、
派手さや豪快さもあるようで、
その本質は内に締め
徹底して深める取り組みであり、
地道で愚直なもの。
そのおおもとは己であり
この心身にあるもの、
道場には「もとに帰る」という
恩師の基本的な指導が沁み込んでいます。
もとは元や基、本で、
幹、素、下などでもあり、
武道をはじめ日本古来からの伝統的な考え方、
その本質でもあります。
シドニーより(銀座にて)
先日、
恩師のご家族と久しぶりにお会いして
改めて、この自身の「もと」というものを
思い起こしました。
早くも秋分の日を過ぎ、
稽古もこの季節ならではの良さがあり、
真夏の取り組みが
この秋に表れて冬に向かいます。
いい時季です。
5つ再掲します。
