黒帯を

 

締めるようになり38年がたつ。

 

その黒帯になって以降、

 

恩師から各段階でよく言われたものである。

 

「研究してみるといい」

 

これが、空手道に限らず何事においても

 

自分が「考える」という習慣を身につける

 

よいきっかけになってきたのだと

 

改めて思う。

 

 

「剛柔流空手道の体裁き(動き)は

 

能や狂言である。

 

決して歌舞伎ではない。」

 

これも恩師の日頃の指導のなかでの

 

一言。私も先日、

 

ある道場で少し指導に入った際に、

 

自然とこの言葉を使っていた。

 

剛柔流空手道の源流が

 

インドのヨガにあり、

 

そのヨガが己の内にあるものとして

 

体感できることを、

 

私の恩師、そのまた恩師も

 

言及していることは

 

これまでも記しているとおり。

 

恩師からそれと同じように

 

受けてきたものが、

 

能や狂言と同じ ―――

 

という一言。

 

 

能や狂言の起源は古く、

 

それは飛鳥時代、奈良時代に始まり

 

平安時代を経て室町時代には

 

観阿弥、世阿弥が大成し、

 

以後、大名家や武将などの

 

武家社会のみならず

 

公家にも厚く庇護され、

 

江戸時代までは

 

猿楽(申楽)と呼ばれたもの。

 

その江戸時代に大衆芸能として

 

誕生した歌舞伎とは

 

明確に一線を画すものである。

 

 

能や狂言の元は

 

中国伝来とされていることから、

 

ヨガの流れを汲むこと、

 

もしくは何かしらの影響を

 

受けているものであることは

 

容易に想像できる。

 

着座や立ち姿勢、

 

軸の持ち方から引き寄せ方、

 

居つくことと軸の移動、

 

摺り足から発声法まで。

 

私としても合致すること、

 

符合し合点がいくことは

 

少なくない。

 

 

中世に大成された能や狂言と、

 

数百年の時を経て

 

武家政権の時代に沖縄へと

 

伝わった剛柔流空手道。

 

そこに共通の要素を見出せることに

 

深い根のところ、

 

本質のところで普遍的なものを感じる

 

ことができるようにも思う。

 

 

私たちは脈々と培われてきた

 

歴史と伝統をもち、

 

そこで長年、

 

修練されてきた形というものをもつ。

 

その系譜にある稽古を通して、

 

自分としての形を

 

つくることができたなら、

 

それは生涯にわたり

 

決して失われることのない

 

軸となり背骨となり、

 

己の背中を押し

 

どのような局面においても

 

自らを信じきる拠りどころとなる、

 

自己の確立へとつながる。

 

 

研究すること、

 

つまり考えるということは、

 

黙想一つ、息吹一つをとっても、

 

必ず何かしらの意味を

 

見出すものへと変化する。

 

見て真似て、学び、

 

自分のものとするのである。

 

稽古に限らず、

 

ジムでのトレーニング、

 

スタジオの有酸素運動のなかでも、

 

なんともなしにふわりと拳を握ってみる、

 

柔らかく身体を締めてみると、

 

それに連動、

 

呼応して自然と自分の中で

 

何かがふっと鎮まり

 

引き締まるような感覚を

 

得ることができる。

 

道半ばではあるが

 

心身とも手応えは確かである。

 

 

追記


新年度に入り、

 

数カ月が経過しました。

 

もがき苦しむこと、

 

試行錯誤すること、

 

容易にままならないことも多いなかで、

 

哲学者の池田晶子さん曰く、

 

考えることこそが生きること ―――

 

自分探しに迷い惑うのではなく、

 

己を深く追求していくこと。

 

そして、

 

個に徹すれば世界に開かれる ―――

 

逆説的でも頑なな論法でもない、

 

同氏は、

 

答えは己の中にある、

 

自分の中にあることを思い出すんだ、

 

気づくんだ、とも言う。

 

 

苦しい時期、悔しい思い、

 

誰にもあるものです。

 

かける言葉は簡単ではありませんが、

 

みなそれぞれが考えながら、

 

前を向いて頑張っていってほしい、

 

心からそう願っています。

 

 

3つ、再掲します。

 

ヨガ(源流)

 

令和3年度 節目にあたり

 

針と糸