先日、ひとつの言葉に出会いました。

 

『 信仰は針のごとし、経(きょう)は糸のごとし 』

 

大谷大学の学長も務めた仏教家の、

 

ある比喩的な表現とのことですが、

 

糸がたくさんあるだけでは、

 

着物や布を織ることはできない。

 

針があって、初めて織ることができる。

 

般若心経も南無阿弥陀仏も、

 

唱えているだけでは何も成せない。

 

信仰を持って初めて仏道を究める道につながる、

 

というものです。

 

 

つまり、

 

軸を持った取り組みがあってこそ、

 

人生を織り成すことができる、

 

針とは人としての“ 軸 ”であり、

 

糸とはその形成に向けた“ 取り組み ”

 

ということです。

 

 

翻って、

 

世間的に武道と称されている

 

剣道、柔道、空手道などにおいては

 

どうでしょう。

 

竹刀(しない)での面打ち、

 

胴や籠手打ちの練習、

 

大外刈りや一本背負いの練習、

 

高速の突きや上段蹴りの練習を、

 

とにかく選手権のために行っている

 

日頃の練習はどのような位置づけのものと

 

言えるでしょう。

 

 

選手権が目的であれば、

 

それも構いませんが、

 

それに特化している道場がいかに多いことか。

 

もはや、

 

それが『 〇〇道 』だと信じて疑わない

 

指導者と練習生が多い状況。

 

 

社会でもっともらしく広まっていることが、

 

人にとってよりよいことばかりではないことは、

 

さまざまな面で周知のとおりです。

 

 

道場に、

 

少しでも武道として標榜しているものが

 

あるのであれば、

 

いつの頃からかそれらの取り組みは

 

ズレてきている状況にあると

 

言わざるを得ません。

 

 

学生時代、選手権や他流派の試合に

 

参加してきた者として、

 

それらの厳しい練習が別の意味での

 

成長につながる、

 

決して無駄になることはないと

 

理解しているつもりです。

 

 

ですが、選手権のための練習が

 

その道場の 『稽古』 では、

 

本来、武道が目指してきたものの道に

 

つながっていくとは到底、

 

思えません。

 

 

改めて。

 

選手権のための竹刀での面打ち、

 

胴や籠手打ちの練習、

 

大外刈りや一本背負いの練習、

 

高速の突きや上段蹴りの練習だけでは、

 

人としてのたくましさや強さ、

 

優しさを培っていくことはできないのだなと、

 

長年、たくさんの自称『 〇〇道 経験者 』を

 

みてきて感じます。むしろ、

 

その逆にいってしまっている人々が

 

多く見受けられるように思うのです。

 

 

武道とは ――― 

 

かつて記したとおり、

 

日本武道館はじめ10団体が構成する

 

日本武道協議会では、

 

武道を人間形成の道と定義しています。

 

 

前述の言葉は、いま一度、

 

自らの立ち位置を顧み、

 

これからを考える

 

よいきっかけとなりました。

 

 

人生を織り成す

 

あなたの針と糸は、

 

なんでしょうか。