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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

昔、スキーで国体を目指して毎年それを目標に活動をしていた。スキーはシーズンスポーツで、雪があるときしか、スキーはできない。残りの8か月のオフシーズンにやるトレーニングでランニングはオフトレの基本だった。

 

会社が終わってから、自宅から4キロほど離れたところにあるオンロードの周回コースをよく走っていた。

 

家の周りは坂道ばかりで平地がなく『ここは走るところではない』と、地元を走るということは選択の中にはなかった。

 

だから、わざわざ車で移動して平地を求めて走っていた。

 

2012年だったと思う。

そのスキーをするための体力維持の一つの目的として、毎年出場していたウルトラマラソンと同じ日に、用事が重なり出場がかなわなくなったので、その年に近くであったトレイルランニングの大会に初めて出場し、そのときからトイレルランニングのおもしろさに目覚めてしまい、今は『変態活動』と称して、むしろトレイルランニングの方が主たる活動のようになってしまった。

 

トレイルランニングは、平地はほとんどなく、しかもそのほとんどは登山道であったり、林道であったりする、オフロードだ。

 

トレイルランニングの大会を完走をするためには、やはりそれなりのトレーニングが必要だということで、自分の地元である鉢伏山に頻繁に登るようになり、今は主たるトレーニングはそこで行うようになっている。

 

坂道しかない家の周囲も、今はそれも重要なトレーニング場所の一つだ。

 

都会の平野部に住む人達からは、坂道錬ができてうらやましい…とも言われたりする。

 

人はないものをねだる存在なのだ。

 

私の地元であるハチ北スキー場は、関西でも随一の標高がある場所でもある。

ずっと昔からそこで滑り続けていたので、自分の母なる山ともいうべき山なのだが、そこに夏シーズンのトレイルランニングでの活動も加わり、まさに自分にとって唯一無二の存在になった。

 

 

兵庫県では、最高峰の氷ノ山1510mを筆頭に、鉢伏山より標高の高い山は4つあり、特別に高い山ではないし、全国を見れば、まさに高い山だらけで、上位500にも入らないであろうから、まさに全国的に見れば低山の部類で、アルピニストが高い山を目指す…という趣旨にすれば、さして魅力的に映る山ではないかもしれない。

 

ただ、鉢伏からも日本海が望め、大山なども望むことができる。そして『高原』ならではの草原が下方に広がり、この地でしか出会えない植生や生態系がある。

 

何より、トレイルランニングをやるには適度な標高差、起伏、サーフェス(地面の状態)など楽しさ満載の山だ。

 

昔に比べると、樹木の成長、逆に侵食などの多少の変化はあるだろうが、本質的には昔と何ら変わらなく存在している。

だが、自分の立ち位置が変わったことで、まったく違ったものに見えるようになった。

 

人は何かの変化を求めるときに、天動説のごとく、周りを替えることばかりに躍起になる。

しかし天動説というコペルニクス的変換こそが、世の中が変わるもっとも劇的な変化なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

以前のブログで、香美町総合計画審議会についてお伝えした。

 

香美町総合戦略事業評価シートについて

 

ようやく回答が返ってきた。

 

その結果を下記に張っておいた。

 

 

 

読むのは相当煩わしいが、まちづくりに興味のある人ならぜひ、読んでほしい。

 

ちなみに、次回の予定されていた審議会は、なんの都合か中止となった。

 

私が以前に投げかけた内容に対して、どうこたえられているかをよく見比べてみてほしい。

 

詳細はいちいち書かない。

 

ただ一つだけお伝えしたい。

マチを本気でよくしたいと思える内容なのかどうか…。

 

いろいろと言い分はあるだろう。

普段の仕事に加えての仕事だ。

 

しかし、我々審議会委員もそれぞれ仕事をもち、その合間を縫っての会議である。

 

少しでも、マチをよくしたい。

その一念だけだ。

 

本気でぶつけているのだ。だから本気で返してほしい。

それが私の願いである。

 

マチの衰退は一向に止まらない。

でもそれを止めるのは、住民一人ひとりだ。

 

そこで暮らす人たちが、マチの未来を思い、行動した結果でしか、次のマチの形は作られない。

 

 

中国が、尖閣諸島近海に浸入しているだとか、ロシアが領空侵犯したとか…

とかく領土領海問題は、国境付近、領海付近でおきがちだと感じてしまうが、もしかすると、内部から崩壊されていくのではないかという危機を感じている。

 

過疎化が進む中で、ふるさとの土地を手放す人は後をたたなくなってきた。荒れた農地、すまなくなった家屋、手入れの行き届かなくなった山林。

 

昔の人々にとって、土地こそが果実を生み出すもっとも重要な資産の一つだった。

田畑を耕し、種を植えれば、そこで米や野菜、果物がとれた。山に木を植えれば、それがやがて用材となり、自宅の材料として、そしてそれを売って自分たちの家計を潤してきた。

貯金をすれば利息が付くがごとく、田畑に労力を注げばそこから価値あるもの生み出されるわけだから。

 

しかし、貨幣経済が中心の社会の中で、そういった土から生み出されるものが、グローバル競争の中では、貨幣価値を生まないものになりさがってしまった。

 

その結果もつことは豊かさであったのに、もつことがその人の家計を圧迫するようになった。

 

だから、ひとはどんどんと手放すようになった。金を払ってでもどうぞもらってください…

 

そんなことも生まれてきた。

そんな中、日本というとてつもなく価値あるモノに目を向け始める人も出てきた。

外国人の存在である。

 

さきもいったように農地法や山林法など、一定の規制はもちろん存在はするが、個人の資産の売買そのものに規制はない。

 

だから、外国籍でそこに居住すらしない人でも、容易に不動産を手に入れられる時代になった。

 

その資産を手に入れる目的は何なのか、実のところよくわからないことでも、手に入れることができる。

 

私は、建設業がメインだが、不動産業の免許も持っている。

田舎暮らしをしたい…と言って手に入れる方は多いに歓迎である。そこに国籍も何もない。

 

そこに暮らせば、地域の共同体の一部として、義務も果たさなくてはならない。

 

しかし、そういった義務を果たす中で、コミュニケーションが生まれ、お互いの助け合いの中で人が生きていくことを実感する。

 

本来、人は一人では生きていけないのに、貨幣経済はそのことをときに忘れさせてしまう。

 

まして、そこに居住の目的もなく不動産を手にいれたとして、それを食い物だけにするのは、非常に悲しいことだし、許されるべきことではないように思う。


 

日本の領土が、あっさりと外国人に買われて、それは自分の土地だからと、傍若無人なふるまいなど許されるべきことではない。


実は過疎のムラからひたひたと忍び寄っている事実をもっと多くの人は知るべきだと思う。



先日ある業者の現場見学会があり、養父市の集合住宅を見学する機会があった。

 

聞くところによると 養父市は辺縁の場所で暮らしている人たちを市の中心部の割と利便性のいいところに寄せるために 集合住宅を建設し、そこに若い人を住まわせるという戦略を取っているとのこと。

 

このため その集合住宅には、1戸あたり300万円の補助金が出ると聞いた。今回見学した建物は4戸1棟だから、1,200万円の補助になる。建設する側は、コストを相当下げることができるので、リスクも取りやすい。

 

そんなお話を聞いて、今、地域界隈で話題となっているコンパクトシティついて思いを巡らせた。

 

私が住むハチ北は、香美町でも最も南の地域にあり、国道からは4キロ離れた場所にあり、最も辺縁の地域の1つであることには変わらない。

 

ただ幸いなことに、スキー場という集客装置があり、毎年10万人を超えるお客様が来場されることもあり 人口はそれなりに減ってはいるものの 、いまだ小学生が存在し、また生まれた来る赤ちゃんも少ないながらにいるため、他の集落に比べると衰退は緩やかなのかもしれない。

 

しかし一般的ないわゆるどん詰まりの場所は、人口減少が著しく 、このため道路、上下水道、電気など生活に必要なインフラの1人当たりにかかるコストは莫大なものになることは想像に難くない。

 

そんなことを考えると、人をできるだけ集め、コンパクトに行政をやっていくいうのは、一般論として、財政的には正しい考え方だと思う。

 

しかし日本という国が、何千年という歴史を積み重ねる中で、コンパクトシティという考え方に至ったのはごく最近のことである。

 

 それ以前は、田畑 、水、森が我々の生活を支える最も重要なものであり、人がそこで暮らすからこそ、資源として活用ができたわけでもある。

 

考えてみれば、食料とエネルギーは、人の生活にとって欠かさざるもので、食べ物は、どんなに科学技術が発達したとしても、完全に人工化することは不可能だ。

 

また、エネルギーももともと日本には、わずかな化石燃料があるだけで、主たるエネルギーは森林資源であったはずだ。今は、世界中の油田から化石燃料を掘りまくり、輸送をし、手元に来ているのであって、まだまだ人が生きるにまかなえる量はあるのだろうが、地球温暖化の問題もある。

 

国の財政負担を減らすことが第一義となり、地域の文化や歴史はおざなりで、国の中央から見ると、辺縁の地は切り捨てる他ないという論調になりがちになっているが、それは果たして持続可能なのか…という気がしてならない。

 

それに抗うには、財政第一主義を覆すだけの実績を積み上げる他ない。