ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -38ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

以前、井戸を掘る方といっしょにお仕事をさせていただいたことがある。

 

氏いわく、

『僕らの業界は、若い人なんか全然入ってこないんですよ…』

と、少し落ち込みぎみに話をされた。

(建設業も若い人がなかなか入ってこない業界になってしまったのだけど…)

 

僕は、それを聞いて意外に感じた。

某ク〇タのコマ―シャルだったと思う。若者が、安心な水を届けるために海外で活躍している技術者の姿を30秒ぐらいにまとめているような内容だったと思う。

 

日本は水にはあまり困ったという話を聞かないからかもしれないけど、砂漠地方とか、水が貴重な地域にとってみれば、井戸は命を支える重要なインフラだ。

 

憧れや羨望のまなざしを受けるこそすれ、少なくとも自己否定しなくてはならないような仕事ではないと思っていたからだ。

 

そこで気づく。

結局そこで働く人が、どういう視点、考えをもって働いているのかということだ。

 

言葉にこそしていなかったが、会話の端々に自分たちは穴堀というなんとなくなりさがった感じ取れた。

自分たちが、そういうものだとなりさがったら、それどまりだ。


 

例えば、掃除一つをとってみても、世界中を美しい世界をつくるのだと思えば、掃除をする行為そのものは、箒一つでやっていることでも、それはとてつもなく、すごいことだ。

 

人のふり見てわがふりを振り返る。

自信はない。

だから、まずは圧倒的な量。そして質。愚直に理想を追いかけていく。

 

そうすれば、どんな仕事だって、相手を幸せに導く尊さがある。

『日本人』と一言で言っても、関東圏で1000万人以上住み、大阪、福岡、神戸などの大都市もあわせれば、都市に住む日本人も相当多い。

だから、日本人の思考とは言っても、都市圏在住者が考えていることが、『日本人』という思考の相当なるパーセントを占めていることを考えると、私みたいな兵庫県のもっとも過疎化の進んだところから考えることは、実はかなり特異なのだろうと思ったりする。

 

まして、日本の中心地である東京は都市であるわけだから、その中で生活する思考が世の中のスタンダードになっていく。

例えば、盗難にあったりすると、それは鍵をかけていなかった本人の責任だ…ということになる。

しかし、田舎にあって、なんでもかんでも鍵をがんじがらめに締めるということは、都会に比べるとずいぶんとルーズだ。

 

本当は、家のカギ、車のカギそれがかかっていようが、かかっていまいが、悪いのはそれをもって悪事を働いた人間だ。

 

しかし、都会の暮らしというのは、それでは許されない。

隙がないよう、完全にガードしていくことが求められる。

 

それが日本人としてのスタンダードだ。

 

もう今となっては昔のようなおおらかな社会になることは無理なのかもしれない。

僕は、日本人だと思っているが、もしかしたら、ほんとうの日本人にはなりきれないのかもしれない。

今朝、精霊を流してお盆の行事がすべて終了した。

 

盆踊りは、実施されなかったが、13日の御霊の迎え入れの灯篭の点しからはじまり、14日の墓参りを経て、そして今朝の行事へとつながる。

 

少し話はそれるが、昨日は、政府主催で、戦没者追悼式が行われた。

毎年この行事のことが取り上げられて、だいたい『戦没者之霊』と書かれた標柱に、献花し、追悼の辞を述べる。

 

どんな宗教であるかを問わずとも、霊は宿り、存在しているものとして取り扱われる。

 

みたことがあるという人もいるみたいだが、おそらくほとんどの人はその存在を見たことはないだろう、むろん、私もない。

 

だけれど、そこには確かにいると信じている。

見えないが確かにある。

 

これって、冷静に考えるとすごいことだ。

 

未来、希望、情熱、愛情…

概念こそあれ、目にみえるものではない。

 

でも、確かにある。

人がそれを確かにそうだと思えば、将来は明るい。

 

 

 

 

 

 

スマートシティという言葉が世の中に出回るようになって久しい。

 

『スマート』というのは、日本人が考えるいわゆるほっそりとしたという意味とは違い、スマートフォンに代表されるように、もう少し幅のある意味であることは分かるのだが、しかし、言葉とは恐ろしいもので、人間をある意味麻痺させているように思う。

 

 もうスマートシティなどと言って、人を欺くことはやめた方がいい

 

そもそも生命の営みは、複雑怪奇だ。

本来そういう営みのほんの一部が人間の営みなのであり、どんなに科学技術が発達しても、自然の営みを人が制御しようとするは神に対する冒涜でしかない。

 

しかし、自然の営みから切り離し、人間だけが都合よく自分たちの世界を築き上げてきたもの。

それがつまりは『都市』だ。

 

でも、冷静に考えてみてほしい。

都市だけで、人間が生きることなどそもそも不可能だ。

 

まず、水、食料、それらは自然の中からしか手に入れることができない。

自分たちだけがスマートに生きているつもりになっていても、そのバックには数限りない自然の営みがあるのだ。

 

コロナウイルスによって、人々をその都市からはぎとろうとしている。

自分たちが何よって生かされているのか…

 

そういうことを今一度考えるときなのかもしれない。

『自然』にはいくつかの種類がある。

世界自然遺産に選ばれている知床、白神山地、屋久島のように、人が入り込まなかったことによって、特異まれな自然を形成したというものがある一方、それ以外の多くは、人の営みの中で形成された自然というものであり、むしろそちらのほうが本流であったりする。

 

手付かずの自然以外のものに、人がもっとも感動を覚えるのは、やはり人が手を入れて保たれていることによるものだ。

 

例えば、森林資源の荒廃のことが取りあげられる。杉、ヒノキといった森も、間伐、枝打ちなどの手入れをすることで、美しい森として存在するのであり、そこに人の手が届かなければ、秩序だった美しさというものを感じることはないだろう。

 

田んぼや畑もそうだ。

棚田というものは田舎の風景の中で圧倒的な美を演出する。

しかし、そもそも棚田そのものが、人が手を加えてつくりだしてきたものであり、そこに畔の草刈り、そして稲などの作物がそこに植えるという人為的行為が人に感動を与えるのだ。

 

そう考えると、田舎がこれからも美しさを発揮するためには、そこに人が 『暮らす』ということが何よりも大事なのである。



家の周りの草刈りや墓掃除に忙しいお盆前。

 

自分も草と格闘しながら、そんなことを考えるのである。