ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -37ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

 

ガーデンアーティストのカズさんに庭をお願いした。

 

正直、私自身『庭』に対しては、何のプランももちあわせていなくて、カズさんの世界観を存分に発揮してもらえばいい…

 

そう考えていた。

 

工事が日々すすみ、どんどんと形ができあがっていく。

石や、苗木をもちこまれ、彼が考える世界観がどんどんと形になっていった。

 

 

そして、あるタイミングで大量のコケが持ち込まれ、庭のある一角はそれで埋め尽くされた。

 

『そう来るかー』

まったく想像もしていなかった展開に、面食らったような形だった。

 

今実のところを言うと、まだ庭は完成していない。

だけれど、すでに2カ月ほどたち、以前から既にそこにあったかのように、なじんでいる。

 

それからというもの、なぜか苔にだんだんとひかれていく自分がいた。

昨日は少しまとまった時間ができたので、苔玉をつくることにした。

 

 

そこらへんでなんとなく絵になりそうな葉っぱをとってきた。

 

苔は家のまわりにびっしりと生えているところからむしりとってきた。

 

素人のやること、センスもないけど、とりあえず形になって、今食卓の真ん中に鎮座している。

 

苔は、じーっと目を凝らすとけっこういろいろな表情をしている。

 

僕のまわりには、ずっと苔はあった。

でも、そこに自分の気持ちがいくことはなかった。

 

改めて思う。苔があることで、風景に何らかの風情というものができてきている。

石やコンクリートが当初テカテカしていていても、長い年月の中で苔が表面を覆い、自然の一部として、風景をつくりこんできているのだ。

 

自分が気づかないだけで、世の中には、そんなことは数多く存在するだろう。

 

変態は、苔に少し気持ちがいってしまった(笑)

 

 

働き方改革によって、残業や、休日出勤が減ってきている。

 

私は、これからの時代に求められるのは、その人が自分として使える時間をどのように使うのかという自己マネジメント力だ。

 

 

 

家に早く帰れるようになり、子育ての時間にあてるもよし、自分の趣味に使うもよし。

それは自分の時間だから、どのように使ったってかまわない。

 

しかし、大事なのは、その時間が、能動的に使えているのかということだ。

子育てだって、子供たちに本気に向かいながらやっているのか、ただ役割をこなしているだけなのか…その違いは大きい。

 

能動的に動けている人は、それだけ学びの多い時間を使えているということだ。

そういう経験は、仕事にも必ず役にたつ。

 

もし、時にボーッとしている時間も必要だが、ただ単にテレビを漫然とみて過ごしたり、何の脈略もない時間の浪費は何も生まない。

 

労働時間を短くすることで、できる人、できない人の差は今後ますます広がるのだろう。

 

 

私は、エアコンが嫌いだ。

 

そうはいいながら、オフィスでは、かなり涼しい環境で仕事をしている。

 

 

もっと正確に言うと、自然の摂理を無視した営みがきらいだ…

といったほうがいいかな。

 

こういう経験はないだろうか…

 

一日の気温がどんどんと上昇し、エアコンをつけ、過ごす。

だけれど、いつの間にか、外の気温のほうが下がっているのに、それに気づかず、いつまでもブンブンと室内でエアコンをまわす。

 

あれがきらいなのだ。

風が通って涼しく感じるのなら、窓をあけて、通風し自然の風を感じたい。

 

昔の人は、文明の利器がなく、涼や暖を、工夫しながら乗り越えてきた。

 

逆に車で言うところの、アクセルを全開にしながら、思いっきり急ブレーキを踏み続ける。

そういう生き方がきらいということだ。

 

文明の利器を手にしたのなら、僕らはもっと賢く生きていきたい。

テクノロジーを手に入れたのなら、それをもっと賢く有効に使う。

 

そういう生き方でありたい。

20世紀は大量消費の時代と言われた。

21世紀は、モノやサービスを最大限有効活用する社会だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日ツイッターを見ていて、衝撃的な言葉に出会った。
『過去は変えられる』

 

私は、過去は事実であって、絶対に変えられないものだと思い込んでいた。

 

名著『7つの真実』を1か月ほど前に読んだ。

事実は、変わらない。

だけれど、その受け止め方は自分自身でどのようにとることもできる。

 

過去という事実、失敗したこと、成功したこと…

それを決めるのは、自分自身だということ。

 

受験で不合格になった。

その事実は変わらないが、それが、失敗だった、成功だったかは、自分自身が決めること。

 

不合格になったから、失敗だったというのは、世間一般的なものの考え方ではある。

自分の実力が明らかになったという点で考えれば、それはもしかしたら、成功なのかも…

 

そんな見方ができるようになったという新しい気づき。

 

だから、過去は変えられるという言葉は衝撃的だったが、今は合点がいく。

そうだ。

 

過去の積み重ねをすべて成功体験と考えれば、これからチャレンジすることも結果がどうであれすべてが成功だ。

 

 

 

昨日は地蔵盆…

 

 
多くの地区で、地蔵盆の行事はコロナウイルス禍で中止にしたという声を聞く。
 
実は、うちの村でもどうするかという議論はあった。
僕は形を変えてでも、やったほうがいい…
そう言って実現することができた。
 
うちの村では、『子ども念仏』とそれに続く『菓子撒き』がある。
 
昔、男子が何人もなくなるということがあった。
それから、盂蘭盆会、つまりは8月14日のお盆の前49日間、毎夕方、子供たちは地蔵堂に集まり、毎日念仏を唱えるようになった。
 
49日目である14日には、子供たちは村の一戸一戸を訪ね、玄関先、あるいは軒先から、仏壇の方を向って念仏を唱える。
各家は、そのお布施として、金員を包み渡す。
 
集まったお金は、一部は子供たちのお小遣いになるのだが、そのお金で地蔵盆に参るためのお菓子を買う。
 
地蔵盆では、地蔵堂に買ったお菓子を備えお参りし、最後に、お堂から、地区の子供たち、小学4年生になるまでの幼児、念仏に参加しない女の子、また地域の皆様にまき散らし、それを拾って、おすそわけをいただく。
 
そういう行事だ。
 
僕ももちろん経験してきたし、私の父の時代も、そして、今生存している村の長老(90は越えている)もみんな経験してきた。
だから、少なくとも100年以上は続く行事だと思う。
 
一連の行事はそもそも子供たちの幸せと健康を願うものであり、いままさに疫病が流行っているが、それらから安泰を守ることだ。
だから、その行事そのものがなくなるということはありえないのだ。
 
今年は、菓子撒きをやめ、みんなに配ることでそれに代えた。
ちょっと、人が集まったことで密になる場面があって、そういう批判もあるだろうけど、伝統行事をやり続けて、後世に伝えていくこともまた大事なことだと思う。
 
先輩から、後輩へ、伝統を引き継ぐ。
そうした中で人のつながりがあり、またそうしたことで、組織を率いること、また他所のおうちに行くときの作法だったり、あいさつだったり、さまざまな学んできた。
 
地元大笹が、スキー場というものがあって、なんとか地域が存続しているのも、もとをただせば、永年こんな行事をつないできて、人と人とのつながりが強固であったからかもしれない…
 
私はそう思っている。