「J.ブラームス」
【日時】
2020年3月6日(金) 開演 20:00
【会場】
カフェ・モンタージュ (京都)
【演奏】
ピアノ:松本和将
ヴァイオリン:上里はな子
ヴァイオリン:近藤薫
ヴィオラ:安藤裕子
チェロ:江口心一
【プログラム】
J.ダヴ:ピアノ五重奏曲
ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 op.34
カフェ・モンタージュのコンサートを聴きに行った。
前日に引き続き、松本和将、上里はな子らによるピアノ五重奏のコンサートである(前日公演の記事はこちら)。
前半のプログラムは、ジョナサン・ダヴのピアノ五重奏曲。
これについては、前日公演の記事に書いたので省く。
後半のプログラムは、ブラームスのピアノ五重奏曲。
この曲で私の好きな録音は
●R.ゼルキン(Pf) ブッシュ四重奏団 1938年セッション盤(NML/CD)
●アーフェンハウス(Pf) アルカント四重奏団 2007年11月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●フェルナー(Pf) ベルチャ四重奏団 2015年12月21、22日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●レイチェル・チャン(Pf) ブレンターノ四重奏団 2017年6月8日クライバーンコンクールライヴ(動画)
あたりである。
それぞれ性質こそ違え、いずれも個性の際立った名盤。
そして、今回の松本和将らによる演奏。
前日のショスタコーヴィチ(その記事はこちら)や前半のダヴと違って、このブラームスでは第1ヴァイオリンが上里はな子、第2ヴァイオリンが近藤薫の担当に入れ替わった。
これはドイツ的な演奏が期待できるのではと予感したが、果たしてその通り。
上記の各種名盤のいずれにも増してドイツ的な力感に溢れた、ブラームスにふさわしい最高の名演であった。
前日公演の記事では、彼らの演奏が思ったよりもドイツ的でなかった旨を書いた。
それが今回、こんなにもドイツ的だったのは、なぜか。
それはまさに、第1ヴァイオリンが上里はな子に替わったためだろう。
彼女の音は、近藤薫のような輝かしさを持たないけれど、そのぶん艶消ししたような渋く重厚な味わいがある。
第2楽章での連綿たるヴァイオリンの歌わせ方など、忘れがたい。
彼女の、重心の低いずっしりとした音色は、松本和将のピアノの鄙びた音色(カフェ・モンタージュの古いスタインウェイを使用しているためもあるが)とともに、「ブラームスらしさ」の表出に大いに寄与していた。
それに加え、彼女は技巧的にきわめて安定しており、高音部だろうと低音部だろうと、揺るぎない音程、ムラなく整ったヴィブラートを聴かせてくれる。
技巧的卓越といっても、五嶋みどりやアリーナ・イブラギモヴァほどのレベルとは言わないけれど、それでもブラームスの室内楽を奏するには十分すぎるほど。
むしろ、神経質なまでにデリケートな表現をするのでない大らかさが、ブラームスには合っている(同じことが松本和将にもいえる)。
高い完成度と、適度な大らかさとの、両立。
こういうタイプの奏者は決して多くなく、貴重だと思う。
彼らの影響によってか、アンサンブル全体としても、やや粗削りの前日公演とは打って変わって完成度の高い印象となった。
前日公演と比べて変わったのは、音色や技巧だけでない。
さらに重要なのは、演奏そのものの性質である。
前日のショスタコーヴィチでは、演奏が雄大さを指向していた分、ときにやや間の延びた印象も拭えなかった。
それに対し、今回のブラームスでは、テンポといいデュナーミクといい、音楽が自然でしっかりと引き締まっており、適切な様式感と言ったらいいのか、気品さえ感じられた。
これぞブラームス、と言いたくなる。
第3楽章など、すさまじいほど力強く、圧倒的な迫力なのだが、そのパワーが決して発散してしまうことなく、あくまでドイツ音楽らしい確固たる音楽の歩みに乗った、凝集度の高い演奏になっているのだ。
これは、松本和将や上里はな子の音楽性に、他のメンバーがしっかり合わせた結果でもあるだろう。
そんな中、第3楽章の最後の音で、近藤薫が前日のショスタコーヴィチばりの目立ったクレッシェンドをつけたのは、ちょっとした自己主張のようで少し面白かった。
松本和将と上里はな子が軸となって奏するブラームスやベートーヴェンは、現在聴くことのできる最良のものの一つではないだろうか。
これまでの彼らの演奏と同様(その記事はこちらやこちらなど)、今回の演奏でもその思いを新たにすることとなった。
また、室内楽において第1ヴァイオリンが演奏全体の音楽性をいかに強く決定づけるかについても、以前に五嶋みどりのカルテットで感じたことだが(その記事はこちら)、今回も改めて思い知らされた。
(画像はこちらのページよりお借りしました)
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