五嶋みどり ブクシャ ベック キム 大阪公演 ヤナーチェク 弦楽四重奏曲第1番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

第9回 ICEPインド/日本 活動報告コンサート

五嶋みどり & Young Artists

 

【日時】

2018年6月12日(火) 開演 19:00

 

【会場】

あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール (大阪)

 

【演奏】

ヴァイオリン:五嶋みどり、エリーナ・ブクシャ
ヴィオラ:ベンジャミン・ベック

チェロ:スタニスラス・キム
 

【プログラム】

ヤナーチェク:弦楽四重奏曲 第1番 ホ短調 「クロイツェル・ソナタ」 JW Ⅶ/8
ハイドン:弦楽四重奏曲 第77番 ハ長調 「皇帝」 op.76-3
メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第2番 イ短調 op.13

 

 

 

 

 

これまでにもしつこいくらいに書いてきたけれど、世界のヴァイオリニストの中では、五嶋みどり、ユリア・フィッシャー、アリーナ・イブラギモヴァの3人が、私にとっては特別な存在である。

ピアニストや指揮者では、モーツァルトならこの人、ベートーヴェンならこの人、ドビュッシーならこの人、さらにいうと同じドビュッシーでもこの曲ならこの人、他の曲ならこの人、…というように、曲によって好きな演奏家がたくさんいる。

しかし、ヴァイオリニストの場合は、この人うまいな、とか、ベートーヴェンに合っているな、フランス物が得意だな、などと思っても、上記3人の演奏にはやっぱりかなわないと感じてしまう。

ピアノなら例えばチョ・ソンジンやダニエル・シュー、指揮ならネゼ=セガンやクルレンツィス、彼らがいかに精緻で完成度の高い音楽を実現するといっても、モーツァルトでもベートーヴェンでもドビュッシーでも、どんな作曲家の曲であっても彼らの演奏が断トツに良い、と思うことはまずないのだが。

それほど、弦楽器や管楽器というのは奏者による違いが大きく、特別にうまい人の「特別さ」が甚だしいような気がする。

これらの楽器は、まず音を出すだけでも相当に難しく、音を「作り出す」ことが要求されるからだろうか。

 

 

そんな、特別に好きなヴァイオリニストの一人である五嶋みどりが、ミュージック・シェアリングというNPOで弦楽四重奏の演奏活動をしていることはこれまでにも知っていたが、実際に聴いたのは今回が初めてである。

もちろん、彼女のコンチェルトやソロ・リサイタルはこれまでに何度も聴いているが、弦楽四重奏だとどうなるか。

もしかすると、同じく私の好きなヴァイオリニストであるアリーナ・イブラギモヴァ率いる弦楽四重奏団、キアロスクーロ・カルテットにも匹敵する演奏が聴けるのでは…そんな期待を胸に聴きに出かけたのだった。

 

 

まず最初は、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番。

この曲で私の好きな録音は

 

●ハーゲン四重奏団 1988年11月セッション盤(NMLApple MusicCD

●パヴェル・ハース四重奏団 2007年6月1、2、29、30日、7月30日セッション盤(NMLApple MusicCD

 

あたりである。

今回の五嶋みどりらの演奏は、これらに匹敵するものだった。

もう、何といっても第1ヴァイオリンの五嶋みどりがうまい。

第1楽章冒頭の各楽器のソロによるラプソディックなフレーズといい、終楽章冒頭の第1ヴァイオリンによる詠唱風のメロディといい、五嶋みどりの水際立った美音、完璧な表現力は、常人の及び難いものである。

すさまじいまでのコントロール、集中力であり、つい第1ヴァイオリンに耳が惹きこまれてしまう。

といっても、第1ヴァイオリンが他の楽器を音量的に圧倒したり好き勝手に弾いたり、といった前世紀的ないわゆる「第1ヴァイオリン主導型」のカルテットでは決してない。

音量のバランスも、フレージングやデュナーミク、ちょっとしたルバートや呼吸の合わせ方も、音楽的な方向性は4人とも全てぴったりと緊密にそろっていた。

むしろ、息も詰まるほどの五嶋みどりの集中力が、他の3人にも大きく影響して、アンサンブル全体をぐいっと一段上へ引っ張りあげているような印象を受けた。

他の3人も、もともとソロ活動をしている人たちのようであり、それぞれレベルが高く、特にヴァイオリンのブクシャとチェロのキムはかなりの腕前だった。

もともとハイレベルのこの3人に、五嶋みどりの強い影響力が加わって、全編にわたりものすごい緊迫感の漲る演奏となっていた。

第1ヴァイオリンが「目立つ」というよりも「高みへと引き上げる」という点で、この4人は、上述のキアロスクーロ四重奏団に通じるところがあるし、ひけを取らないと感じた。

ヤナーチェクはもう少しふわっと柔らかなイメージが私にはあったけれども、そんな私のイメージの遥か上をいくような、圧倒的な演奏だった。

 

 

次は、ハイドンの弦楽四重奏曲第77番「皇帝」。

この曲では、今のところお気に入りというほどの録音はない。

今回の五嶋みどりらの演奏は、ヤナーチェク同様、きわめて集中力の高い求心的なものだった。

アルバン・ベルク四重奏団のようなオーストリア風の味わいを求めることはできないけれど、それを補って余りあるほどの高い完成度に達している。

一つ一つの表現の繊細なことといったら、まるで精巧きわまりないガラス細工のようだった。

反復部分では第1ヴァイオリンの五嶋みどりが小さな装飾を入れるのだが、これがまたひたすら精緻で美しい。

第1楽章呈示部コデッタ前のエンハーモニック転調による色彩変化も絶妙だし、第2楽章の最終変奏の高音部のメロディも実に精妙。

終楽章の切れ味の鋭さも、耳を疑うほどだった。

 

 

休憩を挟んで、後半はメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第2番。

この曲では、私は

 

●キアロスクーロ四重奏団 2014年3月26-28日、10月6-7日セッション盤(NMLApple MusicCD

 

の録音が断然好きである。

他にも味わい深い演奏はいくつかあるけれど、キアロスクーロ四重奏団、特にその第1ヴァイオリンのイブラギモヴァの演奏は、冒頭のソロからしてすでにあまりにも洗練されており、他の追随を許さない。

これに匹敵する演奏ができるのは、五嶋みどりくらいのものだろう。

メンデルスゾーンのコンチェルトでもそうだったのだが、朝の風のようにさわやかなイブラギモヴァの音とはまた違った、墨絵のようなモノトーン調の渋くほの暗い音色による、かつ少し深めのヴィブラートで細やかな情感を湛えた、そして全く同等の高い洗練度に達した演奏が聴けるのではないか。

期待は大きく膨らんだ。

 

 

しかし、なんとこの曲では第1ヴァイオリン奏者と第2ヴァイオリン奏者が入れ替わったのだった!

よく考えてみると、若手の教育としての観点からも大いにありうることなのだが、私はうっかりしていて全く想定していなかった。

今回第1ヴァイオリンを担当したブクシャは、上記のとおり、かなりの実力者。

音程など安定しているし、音量も豊かである。

例えば最近聴いた漆原啓子にも、優るとも劣らないほど。

それに加え、ブクシャの音色にはヨーロッパ風の華やかさがあって、これは五嶋みどりにはないものである。

ブクシャのほうが好き、という人も少なくないだろう。

しかし、である。

このような書き方をするのは大変申し訳ないのだけれど、これだけの実力者であるにもかかわらず、五嶋みどりやイブラギモヴァとはレベルが全く異なるのだった。

ときおり聴こえる五嶋みどりによる第2ヴァイオリンの、ちょっとしたアルペッジョの音型だとか、フガートのワンフレーズなど、特に技巧的というわけでもない箇所においてさえ、全然違う。

フレーズの流れの持って行き方の綿密さ、そのための一つ一つの音の音高・音量・音価の配分の確かさとその厳密きわまりないコントロール、そしてその集合としてのメロディの滑らかさ、雄弁さ、そしてこれらが一瞬たりとも途切れることのない驚異的な集中力。

五嶋みどりが弾くと、こういったあらゆる要素が、もう人間業とも思えない、異次元のレベルに達しているのである。

ヴィブラートもグリッサンドも、きわめて安定かつ適切。

これに比べると、実力者ブクシャであっても、音程もヴィブラートもフレージングも、それぞれにどうしてもわずかなムラがある。

第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが入れ替わっただけで、稀有なレベルに達した求心的なカルテットから、華やかでそこそこハイレベルなカルテット、というふうに印象ががらりと変わってしまった。

弦楽四重奏においては、内声部が大事とよくいわれるし、もちろん正しいと思うけれど、それ以上にまず第1ヴァイオリンがいかに重要で、アンサンブルの性格を決定づけてしまうか、ということを今回思い知らされた。

 

 

技巧技巧というけれど、技巧よりも音楽自体を聴くべきではないか―そんなお叱りを受けるかもしれない。

しかし、五嶋みどりやイブラギモヴァの場合は、技巧のための技巧ではなく、技巧が音楽そのものを表現してしまっているのである。

派手なヴィルトゥオーゾ効果を狙った技巧とは、全く違っている。

こうなると、もはや感服するしかない。

五嶋みどりとブクシャとの間に、悲しくなるほどの厳然たる違いが存在する、ということ。

五嶋みどりの弾くこの曲の第1ヴァイオリン、あの美しい第1楽章冒頭の序奏や第2楽章のメロディをもし聴くことができたならば、昨年の感動的なブラームスのように(その記事はこちら)、どれほど素晴らしかったことだろうか、ということ。

ただ、彼女がこれほどの域に達するのに、いったいどれだけの血の滲むような努力があったのだろうか、ということ。

そのようなことばかり考えていると、聴きながら何だか本当に悲しくなってしまった。

 

 

しかし、後から考えると、我ながら何とも贅沢な話である。

今回のメンデルスゾーンだって、一般的な意味では十分に良い演奏だった。

それに、前半のヤナーチェクとハイドンが聴けただけでも、本当に貴重な体験だった。

今となっては、ただ感謝の念あるのみである。

 

 


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