The Symphony Hall 特別公演
Sinfonia会員コンサート
五嶋みどり ヴァイオリン・リサイタル
【日時】
2017年9月22日(金) 開演 18:30
【会場】
ザ・シンフォニーホール (大阪)
【演奏】
ヴァイオリン:五嶋みどり
ピアノ:イェヴァ・ヨコバヴィチューテ
【プログラム】
ヒンデミット:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ハ調
ブラームス:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第2番 イ長調 op.100
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第3番 ト短調 D.408 op.posth.137-3
エネスク:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第3番 イ短調 op.25 「ルーマニアの民族様式で」
※アンコール
ブラームス/ヨアヒム:ハンガリー舞曲 第1番 ト短調
クライスラー:シンコペーション
五嶋みどりのヴァイオリン・リサイタルを聴きに行った。
完璧の一言である。
冒頭のヒンデミットのソナタからして、完全に美しい演奏で、非の打ち所がない。
この曲の素晴らしさを初めて知ることができたと言っていい。
私は、五嶋みどりは世界最高のヴァイオリニストだと思う。
彼女は、19世紀のパガニーニ、20世紀のハイフェッツにも比肩しうる、現代を代表するヴィルトゥオーゾではないだろうか。
パガニーニの演奏録音は残されていないが、あまりのうまさに「悪魔に魂を売り渡した」と噂されたとのこと。
ハイフェッツは録音が残されているが、現代の私たちが聴いても確かな音程だし(和音でもかなり安定している)、豊かなヴィブラート、力強い音、勢いがあって、コンチェルト向きな華やかさが聴かれる。
五嶋みどりには、そのような派手さはないが、その代わり、よりいっそう正確な音程、よくコントロールされたスマートなヴィブラート、そして細部に至るまでのアーティキュレーションやデュナーミクの極度のこだわりがあって、室内楽的な繊細さが聴かれる。
どのフレーズも、どの瞬間も、熟考の末に精密にコントロールされており、なぁなぁになっている箇所が少しもない。
現代的な意味においての「ヴィルトゥオーゾ」であり、「人工美の極致」と言ってもいいかもしれない。
この点で彼女に比肩しうるヴァイオリニストは、彼女以前にはいないように思われるし、彼女の後にはただアリーナ・イブラギモヴァをおいてほかにいないのではないか(タイプは少し違うが、ユリア・フィッシャーもそうかもしれない、私はまだ録音でしか聴いたことがないのだが)。
私は、音楽を聴くにあたって、ベートーヴェンはこうあってほしい、モーツァルトはこう、ドビュッシーはこう、ラフマニノフは…といったように、各作曲家のイメージを大事にしたいタイプの聴き手である。
なので、指揮者やピアニストの場合は、「モーツァルト弾き」「ベートーヴェン振り」といったレッテル貼りをするわけではないにしても、それぞれの作曲家や曲によって、好む奏者が違ってくる。
ベートーヴェンの交響曲ならフルトヴェングラーやカラヤンが好き、ドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲ならブーレーズやネゼ=セガンが好き、ピアノ曲ならバッハはシフ、モーツァルトはピリス、ラフマニノフはリヒテルやルガンスキー、といったように。
しかし、ヴァイオリニストの場合は、奏者による奏法の違いがあまりに大きい気がする。
当然、豊かなヴィブラートのかかった「甘い」演奏を好む人もいるだろう。
ただ、私の場合は、針の穴を通すような正確な音程、細身のスマートな音、分厚すぎず均質なヴィブラート、細部の表現へのこだわり、こういったものを重視した演奏が好きである。
こういった点は、プロのヴァイオリニストたちの間でもレベルの差がかなり大きいように思われ、作曲家の解釈とかイメージとか以前に、そういったところについ耳が行ってしまう。
そうなると、ベートーヴェンだろうがドビュッシーだろうが何だろうが、やっぱり五嶋みどりが素晴らしい、イブラギモヴァがいい、ということになってしまうのだった。
例えば、ブラームスのソナタ第2番は、今回演奏された曲の中では最もよく知られた曲で、私の大好きな曲の一つである。
ブラームスというと、本来は脂ののった、分厚い、重心の低い演奏が合っているように思われる。
しかし、五嶋みどりが弾くと、全く違った音楽になる。
第1楽章、最初にピアノが一通り主要主題を呈示したあと、ヴァイオリンが4つの音から成るひとくさりの下降音型を奏するのだが、この美しいこと!
素朴なのに洗練され、涼やかな風のよう。
たった4つだけの何でもない音なのに、他の奏者とは格が違う。
ブラームスはもっと重厚でなくていいのか?という一瞬の疑問は、ただちに消し飛んでしまう。
その後も、ずっと格別の音楽が続いてゆく。
第1楽章の展開部後半に、主要主題から派生したと思われる、物憂げなメロディが突如現れるのだが、短調で奏されるこのメロディが長調で繰り返されるとき、五嶋みどりは減五度の下降にちょっとしたグリッサンドを付加する。
この、濃厚過ぎない、控えめながら精妙極まりないグリッサンドは、極上というほかない。
まるで、雲間から差す光のような美しさである。
そして、このブラームスのソナタの、終楽章。
これこそは、ソナタ第1番の第1楽章と同じく、ブラームスの天賦の才が最高度に発揮された名旋律をもつ曲だが、これを弾く五嶋みどりの素晴らしさといったら!
ソナタ第1番のほうは、昨年の彼女のリサイタルで聴いた(そのときの記事はこちら)。
前回の第1番と、今回の第2番と、どちらにも言えることだが、五嶋みどりの弾くこうした単旋律は、他の追随を許さぬ美しさである。
彼女は、他のヴァイオリニストがよくやるように、これらの名旋律に分厚いヴィブラートをかけたり、濃厚なグリッサンドやポルタメントを配したりということを、極力行わない。
これらの旋律の、素朴な本来の姿を呈示するのである。
そうすることで、濃い味付けを付与するよりも、素材のもともとの美しさがいっそう際立つこととなる。
そしてその旋律の音程やフレージングは、まさに完璧。
こうした五嶋みどりの特徴は、録音では例えばチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第1楽章、第1主題で聴くことができる(Apple Music)。
味付けを抑えて禁欲的に奏されるこの旋律の美しさは、聴き手の心をまっすぐに打ち、「ロシアらしい濃厚さ、華やかさ」といったものはどうでもよくなってしまう。
今回のブラームスのソナタ第2番の終楽章でも、その特徴が遺憾なく発揮された。
G線で弾いているとは思えないほどの柔らかく洗練された音で奏されるメロディは、オイストラフ盤よりもパールマン盤よりもムローヴァ盤よりも、誰の演奏よりも深く心に染み入ってくる。
急速なパッセージでも難しい奏法でもなく、ただの単旋律でこれほど特別な演奏をするヴァイオリニストは、ほかに誰がいるだろうか?
ルネサンス期に生まれたヴァイオリンは、バロック期にグァルネリ・デル・ジェスという天才職人によって、その頂点ともいえる楽器が製作された。
そして、その後現代に至るまで発展を続けているヴァイオリニストの歴史の中でも、演奏の繊細さにおいて頂点と思われる五嶋みどりが、いまその楽器を弾く。
まさに、人類の叡智の最高の結晶の一つを目の当たりにしているような気がして、私はおののきさえ覚えるのだった。
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