「D.ショスタコーヴィチ」
【日時】
2020年3月5日(木) 開演 20:00
【会場】
カフェ・モンタージュ (京都)
【演奏】
ピアノ:松本和将
ヴァイオリン:近藤薫
ヴァイオリン:上里はな子
ヴィオラ:安藤裕子
チェロ:江口心一
【プログラム】
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲 ト短調 op.57
J.ダヴ:ピアノ五重奏曲
カフェ・モンタージュのコンサートを聴きに行った。
松本和将、上里はな子らによるピアノ五重奏のコンサートである。
前半のプログラムは、ショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲。
この曲で私の好きな録音は
●ナッシュ・アンサンブル 1993年頃?セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●マリーニン(Pf) オイストラフ四重奏団 2019年9月3日ブゾーニコンクールライヴ(動画)
あたりである。
個々のメンバーの技能よりも全体的なアンサンブル力が物を言っている前者に、マリーニンのピアノやバラーノフのヴァイオリンの安定した技巧が光る後者。
そうした違いはあるけれど、ともに鉱物のように硬質で整ったピアノの音、そして冷静かつストレートな解釈が聴けるのが共通した特色となっている。
私は、変に思わせぶりな表情付けを施したり、やたらとおどろおどろしさを強調したりするショスタコーヴィチ解釈は好きになれない。
作曲者の自作自演録音もそうであるように、あくまで冷静に、禁欲的に、ストレートに演奏するのが、ショスタコーヴィチの曲には向いているように思う。
彼は、彼自身の曲をおどけて書いたのではなく、「ソ連のベートーヴェン」のつもりで人生の苦悩を大真面目に表現しようとしたのではないだろうか。
テンポをあまり揺らすことなく、硬くて重い鉄鋼のように開始しつつ、曲が進むにつれじわじわと灼熱され赤く熱く輝いていく、そんな演奏が私の理想のショスタコーヴィチ解釈である。
そこまでの凄みを感じさせるかどうかは別にして、上記の2つの演奏は、下手に味付けしていないのが良い。
今回の松本和将らの演奏は、そんな上記2種の演奏とは異なり、「冷静」というよりも終始「熱い」演奏だった。
全体的に遅めの雄大なテンポで、演奏の表情はとにかく激しい。
私は、聴く前はもっとドイツ的な、まるでブラームスのような演奏になるのではないかと予想していた。
というのも、一昨年に松本和将や上里はな子らの演奏で聴いたドヴォルザークのピアノ五重奏曲がそうだったからである(その記事はこちら)。
確かに、松本和将のピアノの音は、鉱物のように硬質というよりも、角が取れ丸みのあるドイツ的な味わいをもつという点では、今回も変わりがない。
それに、一昨年のドヴォルザークの第1楽章再現部冒頭で聴かれた彼のピアノのあの忘れがたい低音の迫力は、今回のショスタコーヴィチでも例えば終楽章第1主題確保などで聴かれ、圧巻だった。
しかし、今回は全体的に「ドイツ的」というよりは、より雄大な(あるいは肥大?)方向性を目指した音楽性となっていたように思う。
「ロシア的」というべきか。
これは、第1ヴァイオリンを担当した近藤薫の影響なのではないか。
彼は、オイストラフ風ともいうべき音の輝かしさを持っている。
ただ、音程はところどころ甘く、特に高音部の強奏で音が荒れやすい。
そのため、ヒステリックな音楽といった印象を受けてしまう。
しかし、私好みの冷静でストレートなショスタコーヴィチとは異なるとはいえ、これはこれで別の「ショスタコーヴィチらしさ」を持っていることも否めない。
狂ったように熱く激しい強奏、短いクレッシェンドのあからさまな強調。
その一方で、第2楽章冒頭の静かなフーガ主題で聴かれた、ところどころ止まってしまいそうなテンポの遅さ、揺らし方。
こういったやや極端ともいえる濃い表情付けは、近藤薫による影響だろうか、ヴィオラの安藤裕子も積極的にしていたし、他のメンバーもよく合わせていた。
つまり、全体的に「近藤薫の音楽」になっていたように感じた。
上述の一昨年のドヴォルザークのときは、かの漆原啓子が第1ヴァイオリンだったけれど、それでもまだずっと松本和将らの音楽だった。
近藤薫は、音楽を引っ張っていくタイプの人なのではないか。
東京フィルのコンマスとのことであり、さもありなん、である。
しっかりした音楽の方向性が感じられたのは良かったし、これでさらに洗練が加わればかなり完成度の高い演奏になりそう。
後半のプログラムは、1959年生まれの英国の作曲家ジョナサン・ダヴが、2009年に作曲したというピアノ五重奏曲。
おそらく初めて聴く曲。
現代曲だが、古典的な3楽章形式で書かれ、調性もあり聴きやすい。
ミニマル風の繰り返し音型が聴かれるが、曲調は適度に変化するため、ミニマルらしい永久的な繰り返しの不気味さは感じない。
それに、演奏も先ほどのショスタコーヴィチ同様「熱い」ものであったため、人工的な要素よりもむしろ人間臭さを感じた。
たとえるなら、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲(第16番)の第2楽章スケルツォ、あの繰り返しの多い音楽の中から熱狂が生まれていく、そんなイメージである。
それではあれほどの傑作なのかといわれると、肯んずることはできないのだけれど。
(画像はこちらのページよりお借りしました)
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