ヴァーグナー聖地を巡るスイスの旅1 チューリヒ | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回、ルツェルン音楽祭(その記事はこちらこちら)に行ったついでに、観光もした。

見て回った街は、ルツェルンと、そこに行く途中の通り道にあるチューリヒである。

チューリヒとルツェルンに関連する音楽家といえば、リヒャルト・ヴァーグナー。

彼はドイツ出身の作曲家であり、祝祭大劇場を建てたバイロイトのイメージが強く、あるいは、宮廷指揮者を務めたドレスデンや、出生地のライプツィヒのイメージもあるかもしれない。

しかし彼は、計15年以上もの間スイスで暮らし、実は中期・後期の作品のほとんどをスイスで書いている。

私もワグネリアンの端くれ、せっかくスイスに来たからには、ヴァーグナーゆかりの地を訪れないわけにはいかない。

まずは、チューリヒから見て回った(なお、観光にあたりこちらこちらのページを参考にさせていただいた)。

 

 

 

 

 

【スイスのヴァーグナー聖地1:エッシャーハウス】

 

 

 

 

ドレスデンのザクセン宮廷歌劇場の指揮者として順風満帆に活動していた若きヴァーグナーは、1849年(35歳)に三月革命に関与して職を追われ、スイスへの亡命を余儀なくされる。

その後、1849~1858年(36~45歳)の約9年間をチューリヒで過ごした。

そのうち、このエッシャーハウスの3階の大きな部屋に住んだのは、この看板にもあるように1853~1857年(40~43歳頃)とのこと。

亡命中の身でありながらこんな良い部屋に住めたのは、チューリヒで知り合った豪商オットー・ヴェーゼンドンクの援助のおかげだろう。

このように良好な環境を得て、ヴァーグナーは「ラインの黄金」、「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」第1、2幕といった中期の傑作群を次々と作曲した。

40歳代前半のヴァーグナー、まさに脂の乗り切った時期である。

 

 

 

 

 

【スイスのヴァーグナー聖地2:チューリヒ歌劇場】

 

 

 

 

チューリヒ歌劇場の前身であるアクティエン劇場(Aktientheater)は、チューリヒ初の常設劇場として1834年に創立した。

チューリヒに亡命中のヴァーグナーは、ここを拠点にして指揮活動をしていたという。

ヴァーグナーの指揮、いったいどのような演奏だったのだろう。

 

 

なお、アクティエン劇場は1890年に火災で焼失したが、同地に新しく市立劇場が建てられた。

ここでは、いくつもの重要なオペラが世界初演されている。

1937年6月2日 ベルク:「ルル」

1938年5月28日 ヒンデミット:「画家マティス」

1957年6月6日 シェーンベルク:「モーゼとアロン」

1961年6月9日 マルティヌー:「ギリシャの受難劇」

ワクワクしてしまうような、錚々たる作品群である。

その後、1964年に「市立劇場」から「チューリヒ歌劇場」へと改名して今に至る。

 

 

この歌劇場には伝説の名指揮者、フルトヴェングラーも何度か客演している。

1936年 ヴァーグナー:「トリスタンとイゾルデ」

1938年 ベートーヴェン:「フィデリオ」

1939年 ヴァーグナー:「マイスタージンガー」「ヴァルキューレ

1942年 ヴァーグナー:「神々の黄昏

1944年 ヴァーグナー:「ジークフリート」

1951年 ヴァーグナー:「トリスタンとイゾルデ

1952年 ヴァーグナー:「ヴァルキューレ」

これらのうち、下線を引いたものは、これまた伝説の名ヴァーグナー・ソプラノ、キルステン・フラグスタートとの共演であった。

さらに、1951年の「トリスタン」に至っては、以前の記事にも書いたように(その記事はこちら)、フルトヴェングラーが指揮しフラグスタートがイゾルデ役を歌った唯一の機会だったようなのである(かのあまりにも有名なセッション・レコーディングを除いて)。

このときのチューリヒの聴衆は、なんと幸運だったことだろう。

 

 

忘れてはならないのが、若きフルトヴェングラーが1906~1907年(20~21歳)に最初の修業時代を過ごしたのが、ここチューリヒの楽長(副指揮者)としてであったということ。

彼はここでいくつかのオペレッタを振ったが、1907年2月3日にレハール作曲のオペレッタ「メリー・ウィドウ」のスイス初演を担当した際、あまりにヴァーグナー的な演奏のため不評で、聴いていた作曲家も落胆したという。

ヴァーグナー的な「メリー・ウィドウ」とは、いかにもフルトヴェングラーらしい。

その後、当歌劇場は「メリー・ウィドウ」と縁が深く、1946年にレハール本人の指揮で序曲を、2004年にヴェルザー=メスト指揮で全曲を録音している。

ともに全くヴァーグナー的でない、優美で軽快なこの曲らしい名演となっているのが何とも皮肉で面白い。

 

 

また、チューリヒ歌劇場にはカルロス・クライバーも1964~1966年(34~35歳)に第1指揮者(副指揮者)を務めていた。

彼もまだ若く、オペレッタや軽めのオペラをメインに振っていたが、そのうち1965年3月4日のヴェルディ「ファルスタッフ」の公演については、なんとライヴ録音が残っている。

 

 

これは、クライバーの良さが最高に発揮された、トスカニーニ&ウィーン・フィル盤やアバド&ベルリン・フィル盤と並ぶ大変な名演。

彼の1960年代(30歳代)の録音は決して多くないが、この頃からすでに才能にあふれていたことがよく分かる。

 

 

ヴァーグナーから話がそれてしまったが、チューリヒ歌劇場のそばに佇みながら、これらの名演に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

【スイスのヴァーグナー聖地3:「隠れ家(アジール)」】

 

 

 

 

チューリヒ湖の西に閑静な住宅地があり、美しい木々に囲まれた「緑ヶ丘」という一画に、ヴァーグナーの「隠れ家(アジール)」がある。

1857年4月28日(43歳)、彼はヴェーゼンドンクの援助でこの家を借り、上記のエッシャーハウスから移り住んだ。

彼がここで暮らしたのは1857~1858年(43~45歳)。

この家は、現在ではヴィラ・シェーンベルクという建物になっている。

上の看板には、(ドイツ語だが)おそらくヴァーグナーが去った後に増築された旨が記されている。

そのことを考慮したとしても、ヴァーグナーはなんと美しいところで暮らしていたことだろう。

ここで彼は、「トリスタンとイゾルデ」の台本を書き、「ヴェーゼンドンク歌曲集」、「トリスタンとイゾルデ」第1幕を作曲した。

 

 

「隠れ家」の傍らには、ヴァーグナーの像が置かれている。

 

 

ヴァーグナーが引っ越してきた数か月後の1857年8月には、隠れ家(アジール)から小道をはさんだすぐそばに邸宅が建てられ、ヴェーゼンドンク夫妻が入居した。

ヴェーゼンドンク邸は、1951~1952年に改築されリートベルク美術館となり、アジア、アフリカ、アメリカ、オセアニアの美術品が展示されている(私は中に入らなかったが)。

 

 

オットー・ヴェーゼンドンクの妻マティルデはこのとき28歳、ヴァーグナーは44歳。

2人は「隠れ家」で会うようになった。

1857年9月18日、「トリスタンとイゾルデ」の台本を書き上げたヴァーグナーは、「隠れ家」でこれをマティルデに捧げた。

 

“私たちの間で決して口にされることのなかったこの愛は、1年前「トリスタン」の台本を書いて彼女に捧げた時、ついに表に噴き出しました。あのひとは初めて平静を失い、もう死ぬことしか残っていないと言ったのです。”

妹クラーラ宛ヴァーグナーの手紙、1858年8月

 

1957年12月23日のマティルデの誕生日には「ヴェーゼンドンク歌曲集」を捧げ、室内オーケストラで第5曲「夢」を窓越しに聴こえるよう演奏。

1858年4月3日には「トリスタンとイゾルデ」第1幕を完成。

しかし、禁断の愛が発覚してチューリヒにいられなくなり、1858年8月17日(45歳)にヴァーグナーはヴェネツィアへと発った。

 

 

 

 

 

【番外編】

 

 

チューリヒで最も有名なコンサートホール、「トーンハレ」。

チューリヒ・トーンハレ管弦楽団は1868年に創設され、ブラームスも何度か客演したという。

1895年、現在のコンサートホール「トーンハレ」の落成記念コンサートが行われ、ブラームスが自作の「勝利の歌」を振った。

フルトヴェングラーも、1923年以降ベルリン・フィルやウィーン・フィル等を引き連れて幾度となくこのホールに客演しているし、チューリヒ・トーンハレ管を振ってのコンサートも1939~1943年と1951~1954年に毎年のように行っている。

トスカニーニも1924、1925年にミラノ・スカラ座管、1930年にニューヨーク・フィルとともに客演、ワルターも1934、1937年にウィーン・フィルとともに客演している。

カルロス・クライバーも1974年にチューリヒ・トーンハレ管を振ってベートーヴェンの交響曲第5番などを演奏したという。

なお、現在は写真の通り、大規模な改修が行われている。

工事現場の落書きは万国共通のよう。

 

 

 

2本の塔を持つ教会、グロース・ミュンスター。

11~13世紀に建造されたロマネスク様式の教会で、2本の塔は火災のため18世紀にネオゴシック様式で再建されたという。

ステンドグラスはジャコメッティ作のものとポルケ作のものとがあり、それぞれに個性があって美しい。

 

 

 

グロース・ミュンスターの内部。

この日(9月14日)、たまたま昼12時からオルガン奏者Anna-Victoria Baltruschによるコンサートがあった。

曲目は、J.S.バッハのオルガン協奏曲イ短調BWV593、ベームのオルガンコラール「天にまします我らの父よ」、リッターのオルガン・ソナタ第2番ホ短調op.19。

教会内に鳴り響くパイプオルガンの音は厳かで迫力がある。

 

 

 

グロース・ミュンスターの塔の上から見渡すチューリヒの街並み。

右手に見えるエメラルドグリーンの尖塔は、フラウ・ミュンスター。

12~15世紀に建造されたゴシック様式の教会で、ロマネスクやネオゴシックの部分もあるという。

ステンドグラスはシャガール作のものとジャコメッティ作のものとがある。

 

 

 

この写真の中央に見える時計塔は、聖ペーター教会。

ロマネスク様式の教会で、13世紀と1705年に改築された。

1534年に設置された時計の文字盤は直径8.7mとヨーロッパ最大。

ステンドグラスはないが、内部は明るく慎ましやかで厳粛。

 

 

古き良きヨーロッパの街並みが残るチューリヒ。

都会ながら歴史ある寺院が多く見られ、どこか京都を思わせる落ち着きがある。

ある程度の健脚であれば、上に書いた全ての場所がチューリヒ中央駅から徒歩圏内というのも嬉しい(私は全て歩いて訪れた)。

 

 

なお、チューリヒは、大指揮者クレンペラーが1954~1973年(69~88歳)の約20年間を過ごし、逝去した地でもある。

また、大指揮者エーリヒ・クライバーが1956年(65歳)、演奏旅行中に急逝した地でもある。

彼らの墓は今もチューリヒにあるが、あまり時間もなかったため、今回は2人の偉大なる巨匠の至芸に思いを馳せるにとどめておいた。

 

 


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