NHKで放送中のドラマ、スニッファーの次回予告を見て、ブログを書いています。
次回の予告編で見た絵が一瞬、藤田嗣治の絵に見えて^_^;
書いていたら長くなってしまったので自己満足の記事です。
幼稚園生、小学生の頃によく父に見せられていた絵の一つに藤田嗣治の絵があって、
大人になった今でもその頃見た絵を覚えています。
特に色の記憶は鮮明で、乳白色のマチエールは目の奥に焼きついています。
真珠のような柔らかさと滑らかさの肌が不思議でした。
初めて見たのは幼稚園のときだったので、そのときは色に興味を覚えていた時期でエゴン・シーレの緑色が好みだったようで、幼稚園の頃から通っていた絵画教室で深緑の背景をメインとして小さな椅子と人形の絵を描いたら先生に子供の絵じゃないと言われた記憶があります。
小学校でも親が描いたのかと疑われることがありましたが、大人になった今は絵心ゼロ。
人並み以下です。
絵画教室を続けていたら今は違った人生だったり。
な訳ないか。
シーレは枯れたひまわりも好きでした。
シーレはいくつか枯れたひまわりを描いていますが、私が好きなひまわりはウィーンのアルベルチィーナ美術館での所蔵だったと思います。
話が逸れました。
経歴、女性関係などはWikpediaなどの方が詳しく掲載されているのでしょうが、チェックしてないので、私はザーッと書いてみます。
素人なので突っ込まないでください(;o;)
絵を写した写真も入れたいのですが、スキャンして良いのか分からないので、文字のみです。
藤田嗣治の父親は森鴎外の後に陸軍軍医総監になった軍人です。
裕福で教育熱心だったそうです。
森鴎外の助言で東京美術学校(今の東京芸術大学)に入学したものの成績が悪かったそうです。
美校に入学したときの西洋画の主任教授は黒田清輝です。
日本人で西洋画というと黒田清輝ですね。
黒田清輝がフランスで学んだのは印象派そのものではなくて、印象派とアカデミズムが結びついたもので、それを独自に日本に移入しています。
因みに藤田嗣治は黒田清輝が審査員をしていた文展に3年続けて落選しています。
当時の印象派の流れのうち、日本でいう外光派とは藤田嗣治の作品は違ったことが要因にあると、資料を読んだことがあります。
藤田嗣治の卒業制作は、黒田清輝からは悪い例として提示されています。
黒田清輝からはパリの憧れだけを学んだとかなんだとか。
第一次世界大戦の直前、東京に住んでた藤田嗣治は、森鴎外のすすめもあり27歳のときにパリに留学します。
留学が3年も遅れたのは恋愛事情によるものです。
美校卒業の年の写生旅行で出会った鴇田登美子先生。
女学校で作法と裁縫を教えていたそうです。
この方が最初の日本人の奥さんです。
破局の直接の原因は遠距離になったからではなく、第一次世界大戦ですが、
美校入学のときも吉原に通ったり女優の河村菊江にお熱になったり、その後の女性遍歴の数々は驚いてしまいます。
パリに着いて早々、ピカソのアトリエに訪れる機会を得て、ルソーの作品に目を留めます。
このときすっかりピカソに気に入られます。
ピカソ、キュビズムからは自然を分析し、デッサンによって平面に再構築すること、ルソーからはレアリズムの対極にある心の表現を学んだようで、その後の作品からも伺えます。
ルソーはアカデミズムを根底から否定した画家なので、日本で学んでいたこととの違いは衝撃だったのでしょうね。
特に日本の外光派では禁じられていた黒は衝撃的で、黒田清輝譲りの絵具箱を叩きつけたとか叩きつけてないとか叩きつける勢いだったとか…。
藤田嗣治の支えは浮世絵とルソーだったようです。
ロンドンで過ごしたときにはバイトで東洋美術の骨董屋で絵の修復をし、象牙や漆にも触れているそうです。
あと最高級洋服店ゴードン・セルフリッジの店でデザイナー兼裁断師として仕事をしたこともあったり色々な一面があったのですね。
パリの近郊に友人の川島理一郎と土地を買い、古代ギリシャ風の生活をしたり、第一次世界大戦を避けて訪れたドルドーニュ地方では先史時代の洞窟壁画の研究もしています。
バイタリティーと財力が物凄いです。
毎月の仕送りも一夜で消費する生活…。
パリジェンヌからは個性的な格好を笑われたこともあったようです。
あの有名なキャフェ、ロトンドやクーポルにアル中のモディリアーニらと入り浸っていたとか…。
貧乏時代は第一次世界大戦中でから始まりました。
邦人引揚命令の出ている中、日本に戻らず、世に出るチャンスを伺い、川島と前線から送られてくる傷病兵の担架担ぎもしたそうです。
担ぎ仲間に彫刻家ザッキンもいたとのこと。
この頃には、絵具どころか食べるものにも困り、自分の描いた絵を燃やして暖をとり、無料食物支給所に頼る生活になっています。
それでも1917年にはシェロン画廊で水彩画の個展をし、シェロンから7年間生活費を貰うことになったのです。
これは完全に2番目の奥さんバレーの功績によるものなのですが、この話も結構面白いです。
ちょっとごちゃごちゃ書いてしまっていますが、藤田嗣治は、モディリアーニ、シャガールなどと共にエコール・ド・パリ(パリの外国人芸術家グループ)の一員として知られています。
他には、ピカソ、マチス、ドラン、シャガール、スーティン、ヴァン・ドンゲン、キスリングなど。
因みにエコール・ド・パリの巨匠として名を刻んだ日本人は藤田嗣治ただ1人です。
西洋の伝統と日本の伝統の融合!
パリで勝負するには西欧人にはできない日本の伝統の強みを武器にするしかないと常に言っていたそうです。
独特なマチエールによる優美な雰囲気と繊細な素描は、藤田嗣治にしかない世界で特異です。
輪囲を面相筆で油画の上に細線で描いたのは藤田嗣治が初めてです。
乳白色の白を際立たせるためにキャンバスの布地から選んだのも当時は彼だけだったはずです。
当時パリでは藤田嗣治の水彩画が好評だったらしいのですが、眩いばかりの白と油画において緊張感のある面相筆の筆運びはセンセーショナルだったのでしょうね。
神々しいほど光を放ち、触ったかのような錯覚を覚えるほど質感のある美しい肌と優美な線、細密な布の柄…
遠近両方、見所があります。
1919年、はじめてサロン・ドトーンヌに出品したところ、6点全部が入選、それ以降急速に地位を確立させます。
翌年にはエコール・ド・パリの象徴とも言われるモンパルナスの女王、キキ(マン・レイの愛人)をモデルにした40号の大作の裸婦画を完成させ、高額で購入されています。
何かの図録で読んだのですが、藤田嗣治の裸婦には2つの伏線があり、1つは日本の浮世絵版画で、もう1つはルネサンス以来の裸婦の系統、マネの「オランピア」だそうです。
日本で学んだ西洋画が西欧美術の流れのほんの断片的な部分に過ぎないと知り、渉猟したそうです。
西洋の模倣に終わることを嫌い、日本人として、春信、歌麿などの先人の技術に着目し、それら先人の轍を踏んで人間の肌を描くことにしたと記録に残っています。
その美しいマチエールに、パリのルクセンブルク美術館から買い上げの話もあったそうですよ。
後に、ダイナミズムで奥行きのある作品には不向きだということで、大和絵のように金箔を貼ったり限界を補う葛藤があったようですが。
1942年の『地をおよぐ』から以下を抜粋します。
「徹底的に西洋を理解してしまてば、却って東洋のいいところが分かるようになるのである。例えば筆とか墨とかは、西洋のペンや鉛筆よりも遥かに卓越している。即ち墨の味わいは含蓄の深い情緒があり、またペンや鉛筆などより、筆の方が精巧を極めていることも事実である。尤も西洋のペンであっても真に妙味をもった深いところを究めれば、やはりそれだけの面白味をもった絵は出来るが、毛筆の方が変化自在であることは争われない。」
同じく『地を這う泳ぐ』から藤田嗣治の人柄を感じる文を抜粋。
「1929年、父が76になった。渡仏も17年になった。不孝した俺は父を懐かしく思いどうしても会いたくなった。その夏の末、無言でマルセイユから船に乗って、日本へ向かって父に会いに出てきた。上海で飛白の着物と小倉袴を買って、学生に戻って、お父さん、只今帰ってきました、と言って学校から帰るような気分で我が家にとびこんであやろうと考えていたからであった」
こういうユーモア、好きです。
膨大な納税申告書が突きつけられてお金を作らなければならなかった理由の方が大きいのかもしれませんけど。
とにかく移住後17年振りに3番目の遊蕩癖の夫人ユキと日本に帰国し、凱旋展覧会を開きます。
やはり直ぐパリに戻り、
1930年代にはアルゼンチン、ボリビア、ペルー、ブラジル、メキシコ、アメリカ、日本では東北沖縄北陸、あとは中国を訪れて絵を描いています。
稼ぐための旅回わりで、作品には、訪れる地域のパワーが漲っているように思います。
この頃は1920年代の浮世絵版画に見られる繊細な輪郭線は殆どなく、色彩での表現の時代に移っています。
後に、「猫 争闘」(「アッツ島玉砕」と並べてよく評される絵。敵味方見分けがつかないほど争う場面を猫で擬人化)や「猫のいる静物」で躍動感や色彩を伴い、復活していますが、画風が変わって驚く時期です。
この頃には税金を完納して慎ましやかな生活をしていたそうです。
遊蕩壁のユキとは折り合いがつかなくなったとか。
踊り子のマドレーヌ・ルクーとも交際して、一緒に南米を旅しています。
この頃、二科会会員にもなっていますね。
マドレーヌは日本でシャンソン歌手としてデビューしていますが、29歳という若さで心臓麻痺で亡くなっています。
コカ◯◯の常用者だったらしいです。
1937年、藤田嗣治のお得意様平野政吉の依頼で、カンバス張りでは世界最大となる横23メートルにも及ぶ壁画「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」を174時間かけて完成させています。
その後中国の海軍省からの依頼で中国に渡り、またパリへ…。
あちらこちらへと移りますが、第二次世界大戦勃発後、日本に帰国します。
異国に居れば居るほど、帰属意識、日本人としてのアイデンティティも強まったのだと思います。
1940年以降は、陸軍、海軍のために描いた戦争画は記録画として戦争の記録でもあります。
父親が軍医だったことがきっかけになったのかもしれませんが、初めて自分の西洋画が日本に受け入れられ、成功した時期です。
戦争画に没頭し、絵画がお国に役立つと、トレードマークのオカッパ頭から丸坊主になった時期です。
3回従軍し、戦地にも赴いています。
麹町や疎開先の藤野では、慕われ、尊敬され、食べ物には困らなかったそうです。
文献によっては3度の飯も満足に食べられなかったともありますが、どちらなんでしょうね?
ミッドウェー海戦で日本が不利になった頃には戦争画に対して緊迫感が増し、1943の大作「アッツ島玉砕」の生々しい殺戮場面は強烈です。
亡くなった兵隊が折り重なり塊になっています。
当時、人々は涙を流しながら絵を拝んだというエピソードは有名です。
「サイパン島同胞臣節を全うす」は、最後の戦争画で、激戦の最終局面です。
多くの民間人、それも女、子供がそれぞれ自決をするシーンは一度観ると脳裏から離れません。
大きな作品なので、より臨場感があります。
敗戦で藤田の価値判断が逆転し、戦争協力者として世間の非難を浴びることとなり、画壇の一部からはA級戦犯の提訴もなされたそうです。
実際はGHQの戦犯リストに藤田嗣治の名前はなく、そもそも日本にいる間中、画壇からは嫉妬で冷眼視されることが多かったのです…。
藤田嗣治を取り巻く人達も掌を返すかような状況となり、渡米を邪魔する人達も出てきて、
進駐軍の美術担当官フランク・シャーマンや美校時代の親友の家を転々として隠れていたそうです。
裏切られた想いが強かったと思います。
終戦半年後には、戦中描いていた戦争画に関する写真など全てのものを焼いてしまっています。
渡米する際に画壇に残した言葉が以下の通りです。
「絵描きは絵に誠実に絵だけを描いてほしい。
仲間喧嘩しないでください。
1日も早く日本の画壇が意識的にも経済的にも国際水準に、達することを祈る。」
日本に2度と戻ることはありませんでした。
ビザの関係でアメリカへ渡ってから描いた作品としては、パリに永住する前のニューヨークで描かれた1949年の「カフェ」が有名ですね。
1950年には永住するためにモンパルナスに帰ってきます。
当時は藤田嗣治が戻ってきたことで、ジャーナリストの間で戦争に絡んだ論争があったようです。
それ以降モンパルナス界隈の絵が目を惹きます。
モンパルナスというと、私の中では長谷川きよしの「ラ・ボエーム」です。
シャルル・アズナブールの曲を訳したのがちあきなおみだったはずですが、長谷川きよしのイメージ。
長谷川きよしの大ファンなので…。
ライブもよく行きます。
藤田嗣治も20年の歳月を経て、パリへ戻ってきたとのことで、この曲の歌詞が頭に浮かびます。
あと、エディット・ピアフの雰囲気。
20年経過してもピカソとの友好は続いたそうです。
この時期は子供や聖母、キリストの磔刑を描いた作品が目立ちます。
ボッティチェリの「春」のような絵もあります。
ラファエロや荻須高徳、ダ・ヴィンチっぽいなという作品もあります。
3年前のBunkamuraでの展示ではミニチュア模型のアトリエの作品もありましたが、その頃描いた子供の絵のシリーズが目立ったように思いました。
リトグラフ、銅版画など。
藤田嗣治が描く子供は創作で、実在している子供ではありません。
本人に子供はいません。
可愛いとよく言われる、童話のような装丁色の強い子供の絵は、私には少し不気味に見えてよく理解できないです。
子供と擬人化された動物の組み合わせはグリム童話を思い出してしまいます。
やはりそれ以前の乳白色の肌の人物と細密に描かれた布の模様、配色、猫が好きです。
当時のウケもそうであったようで、再び20年代の裸婦や猫、肖像画を多く描くようになります。
あ、猫について書いていませんでした。
猫のイメージも強いのでそれについても少しふれます。
息抜き(?)としても猫の絵もずっと描いていたようです。
文集で「猫の本」も講談社から出版されています。
藤田嗣治の描く猫は、猫の特徴をありありと感じますし、愛を感じます。
柔らかい毛の感触と体温まで感じられそうな、そんな猫です。
うっとりします。
ライオンや虎だと大きくなったら困るけれど猫には猛獣の面影があるところが好きだったようですよ。
高級な猫でも捨て猫でも拾い上げて飼っていたそうです。
「フランスのネコは日本の猫と違い、器量が良い」とこの本の中でも記述があります。
サイン代わりに猫を描くこともあったそうです。
写真も多数残っていて、肩に乗っていたり、膝で仰向けになっていたり、猫がすっかり懐いていて可愛いです(^ ^)
伝統的な西洋の群像を描いても、西洋画では見られない雰囲気でもって、ちょこんと猫が登場するので、そのコントラストも面白いです。
あまり聞かないように思いますが、私は藤田嗣治の個性的な額縁に心惹かれます。
海苔やお茶の缶を利用した手作りの銀色の鋲は西洋のモチーフ。
藤田嗣治は自身のアトリエのミニチュアを作っているのですが、その側面も素敵なのです。
喜寿の記念に作ったミニチュアの教会も可愛いです。
そういった飾り鋲の素敵なモチーフを作品で取り入れたいと思いますが、できるはずもなく^_^;
ただただ制作方法が気になります。
あ、そうそう、
藤田嗣治の展示が府中市美術館で12月11日まで開催されています。
確か110点。
まだ私は行っていませんが楽しみにしています。
1922年作の「バラ」も展示されているようです。
同年の「寝室の裸婦キキ」、翌年の1923年の「タピスリーの裸婦」、「五人の裸婦」もあると良いです。
1921年にサロン・ドートンヌで裸婦を発表して以来どの裸婦も私は好きです。
色も細かな布の模様も優美で繊細で!
あとにゃんこちゃんたち。
晩年は、フランスの国籍を取得、その後カソリック教徒になり、洗礼を受けてレオナルドとなります。
レオナールではないのです。
レオナール・フジタで通っていますけど。
尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチから改名しています。
ランス大聖堂での改宗で、当時のフランスではビッグニュースだったそうです。
改宗後も膨大な作品を残していて、その頃の夏堀昇氏への書簡が印象的です。
「偽りが嫌いだ、人を疑いたくもない。しかし益々世間時勢が悪化して、人を疑わなくてはならなくなってきた。
偽りと本当の真実を見分けなければならなくなってきた。
人との交際が危険になってきた。
寧ろ孤独に生きて雑音を耳に入れないようにしなければ時間を自分のために持つことが出来ないとますます思うようになった。
これが今日の私の実情の願いである。
それで巴里から隠棲し、寒村に居住し、門戸も閉じている。
世の中を棄てたのではない。
遠去かっただけのことだ。」
今の時代そのものです。
このランスでは自分のデザインした礼拝堂を1961年に完成させています。
彫刻、ステンドグラス、壁画、建物、芝生の石、全て自分で手掛けたなんて驚愕しました。
システィーナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」の影響で、制作しています。
80代で布団を持ち込みながらのこの制作は寿命を縮めることになったと思います。
死への恐怖が強く、自身の眠る場所を作りたかったようですが。
この礼拝堂が最後の仕事です。
「80年間の罪を償いたい」と言葉を残しています。
晩年は、共に人生を歩んだ絵の仲間たちも多くが亡くなってしまい、まさにモンパルナスの盛衰、ラ・ボエームの世界です。
藤田嗣治は、ランス礼拝堂を完成させた1年後の81歳、チューリッヒの州立病院で亡くなりました。
最後は30歳下の日本美人の君代という女性に看取られたそうです。
亡くなってもその素晴らしい作品は光を放ち、世に残り、これからもずっと輝き続けることでしょう。
藤田嗣治というと、絵に関しては秘密主義で、手法を盗まれることを極度に警戒していたのに、土門拳の写真から技術が近年明らかにされてしまいましたね。
NHKの日曜の美術でも確か再現されていたと思います。
ピカソも1923年に開かれた藤田の個展で3時間粘って見抜こうとして見抜けなかったという技法…。
硫酸バリウムを下地として、炭酸カルシウムと鉛白を1:3の絵の具とタルク(和光堂のシッカロール)だと…。
土門拳は戦争絵画を描きだしてからの藤田嗣治を撮影しています。
「カメラマンには手法を盗まれる心配がないからな」と話していたそうですよ。
その土門拳は、
「藤田嗣治の作品は、部分の把握、ディテールの描写からはじめ、全体的は描いているうちにできあがる。構想力が豊かでも構成力がないから小作品の方が評判が良い」と考察していました。
藤田嗣治を日本で密着で撮影していた人は土門拳だけです。
7年も撮影していたが、パリでも撮りたかったと残しています。
写真家の写真によって暴かれてしまうとは…。
作品のことを殆ど触れずに長文になってしまいました。
私の弟の名前も藤田嗣治からきているのです。
長すぎるのでこの辺で投稿します。
本人のエッセイは読んだことがないので、時間を作って読みたいと思っています。
あと、美術館へ行ったあと、好きな作品の感想を気が向いたら書いてみたいと思います。