kengo

かつての同僚、T氏と約3年ぶりの再会。

楽しくて、飲みすぎました。

T様、今度は3年のブランクなく、また飲みましょう。

次の日、奥田から電話があった。
山本さん、ベース買いましたあ、という知らせだった。
そして、バンドは誕生した。

そのベースは改造がなされ、やがてoriginal bass dancing custumになった。
今回のレコーディングで奥田は、dancing custum bass一本で全曲演奏した。

思えばそのベースのおかげで、バンドが始まったと言っても過言ではない。
また、バンドをとりまく全ての人に影響したベースであるかも知れない。

ときおり、しみじみdancing custum bassを見て
よくあったよなあ、お前ええ、という気分になる。

人と楽器の出会いもいいものですねえ。。。

日本酒

昨日は中村と打ち合わせ。

狸小路の金富士で一杯。奥田にも電話したがでない。

ランニング中だったらしい。


相変わらず、まわりはサラリーマンでいっぱい。

本当に同じようなスーツの人ばかり。

よくこんなに集まるな、と思う。

もっとも俺もその中の一人だが。

中村いわく、ダメなサラリーマンをダメリーマンというのだそうだ。

初めて聞いた。


このあと、帰ろうと地下鉄へ向かった

道端に手相占いがいた。

中村が占ってもらった。

奥さんがしっかりもので、助けられているとか言われていた。

占い屋は、俺についても占いたいと言った。

山本は、占いをまるっきり信用していないので、いらないと言ったのだが、なんと中村が半額負担してくれるではないか!

ありがたく俺のことについても、占ってもらった。

でも、信用していないので、何を言われたかよく覚えていない。

中村様、ごめんなさい。


それはそれとして、早く録音してしまおうや。

当時、会社の後輩に奥田がいた。
彼は俺のプランナーとしての一番弟子で、いまや師匠を抜き去り、非常にムカつくのだが、
このころは,、まだ大学を出てまもないペーペーだった。
俺は奥田がハープ奏者であることを聞き、君、ベースはできないかなんて言っていたと思う。

ただし彼は左利きで、右用のベースはなんとか手に入るのだが、左利きのものはツテがなかった。
そんなときに楽器屋にいったら、例の左利き用の中古ベースがあった。
左利きの奥田のために売られているような気がするほど、ドンピシャのタイミングだった。

確かその日は土曜日で、俺は夕方奥田に電話をした。
今みたいに携帯はなく、自宅に電話した。
俺は奥田に、ベースがあったことを報告した。
あくまで報告である。
あと彼がどうするかは、別である。
(つづく)

1992年、楽器屋で中古の左利き用のベースが、12,000円で売っているのを見つけた。

このときのことを俺はよく覚えている。

あまりにも出来すぎだなと思った。

このタイミングで左利き用のベースを見つけるなんて、と笑ってしまった。

そのころ、東京の小西が仕事の都合で札幌にくることになって、バンドをやろうという話になっていた。

小西はドラマーだった。

ギターは、俺と中村がやるとして、ベースが不在だった。

最悪、俺がベースでもいいやとさえ思っていた時期だった。

(つづく)

子供の入園式に行きました。

最初は控えめだったけど、気がつけば,ただのビデオ取りまくりオヤジになっていました。

あぁ、疲れた。でも面白かったな。

中村ギター

1976年製・フェンダーストラトを弾く中村。

「city boy blues」イントロ。

「do you give up」ギターソロを録音。

久しぶりなので、フレーズ忘れてる。。。とのこと

思い出してから取り直しかな?

次の日、tクラブへオーディションの結果を伝えに行った。
受付嬢は、どうでしたか昨日のオーディションと聞いた。
俺は、いやあたくさん飲んだよ、と言った。
そのときの受付嬢の言葉に詰まった様子を、俺は今でも忘れない。
受付嬢は2人目のオーディションをいつにしましょうか、と言おうとした。
俺は受付嬢の言葉を遮った。
いや、もういいんだ、と俺は言った。
俺は川村に決めさせてもらうと言った。
もう一人に会うなんて、考えられなかった。
会ったとしてもリューベンみたいな美少年でも嫌味だし
コージーパウエルみたいなハード&ルーズな奴が来てもいやだし
加藤茶みたいな面白い男だったりしたら、ギャグバンド路線に行きそうで怖かった。
とにかく、川村に決めさせていただきます、とだけ言った。
それぐらいの理由があった。
そのほとんどは、演奏よりも飲み会にあったと思う。
それ以来、ギブアップのドラマーは川村である。
川村様、末永いお付き合いをお願い申し上げます。
ドラムの川村と初めて会ったのは、1994年ごろ。確か寒い時期だったと記憶している。
当時、初代ドラマーの小西は東京に帰り、2代目ドラマーはなんとな~くやめていったので
新しいドラマーを探していたときだった。
ブアップはそのころ音楽サークルに入っていた。
楽器屋が主催しているクラブで、ここではtクラブとしておく。
そのtクラブに俺は、ドラマーの紹介を頼んだのだった。
クラブは2人のドラマーをピックアップしてくれた。
とりあえずその2人をオーディションして、どちらかにメンバーになってもらうつもりだった。
某日、最初のセッションの日が来た。
その相手が川村だった。
不幸にも突然、中村がセッションをやるスタジオに来れなくなった。
しかたなく、俺と奥田が川村を迎えた。
川村は同世代だし、昔よく聴いたキッスやらなにやらを演奏した。
その演奏は楽しかった。
セッション終了後、おそるおそる川村に飲みに行きませんかと誘った。
彼は二つ返事で行くといってくれた。
3人で飲み始めたのだが、2次会はカラオケだった。
俺はかなり酔っていたので、けっこう暴れてしまった。
そのころは若く、酔うと物を粗雑に扱うところがあったので、カラオケボックスは迷惑だったろう。
今、考えるとぞっとするほど恥ずかしいが、当時は俺も不良のおっさんの入り口にいた。
歌い、騒ぎまくる3人のおかげでビールのジョッキはすぐにカラになり、
テーブルの上で横倒しになってしまったりした。
それどころか、おかわりをしたジョッキはテーブルから落ち、床一面をビールで濡らした。
それでも俺たちの歌声、叫び声は止むことは無かった。
ビールはいつしか日本酒にかわり、歌声もかすれ気味だったが、とにかく俺たちは騒ぎまくった。
そして、長い夜が明けた。
(つづく)

ギブアップの結成は1992年だった。

それまで、中村とギターを弾いて遊んでいたけれど、本格的なバンドの形態じゃなかった。

たまに俺と中村とドラムを叩ける友人とで、スタジオで音をだしていた程度だった。


1992年、バンドの初代ドラマーになる小西が仕事の都合で札幌にくることになった。

それを機会に奥田がベースを買った。


俺が偶然、中古の左利き用のベース・12,000円を楽器屋で見かけた。

その情報を奥田に伝えたところ、彼はすぐに買ってきた。

それが今や、DANCING CUSTUM BASSになっている。


中村とは、どっちがリードギターをやるかでもめた。

俺の譲歩案は、リードが中村というなら山本が歌わせてもらう、というものだった。


それで今の役割に落ち着いた。


あれから14年。長いが短い。

今はドラムは川村になっている。

この出会いも凄まじかったが、次回の話にする。


解散はない、と思う。

なぜかといえばストレスになるほど活動しないから。基本的に、たまに遊んでいる程度。


それでも何とか、CDだけは残しておきたいと思う。