赤い線(左方)は 12月19日の ,
青い線(右方)は 12月20日の ,
各軌跡。.
12月20日の軌跡。.
般若寺「本堂」の前のこの石灯籠は鎌倉時代後期の作で、「般若寺型」と呼ばれる様式。なお、本尊は文殊師利菩薩。寺の説明パンフによると:
「別名、文殊型ともいう名灯籠。豪華な蓮台 れんだい,宝珠 ほうじゅ など各部が装飾性に富む。火袋 ひぶくろ には唐獅子,牡丹,鳳凰の彫刻が見られる。」
鳳凰,牡丹のレリーフ↓。
唐獅子。
「経蔵」。解体修理をしているので壁が真新しいが、鎌倉時代の築。
ただし、当初は経蔵ではなく、土間床,化粧屋根裏〔天井が無く、下から垂木が見える〕の建物だったことが判明している。『太平記』には、大塔宮護良 もりなが 親王がこの「経蔵」の中の大般若経の経箱に身を隠して、鎌倉幕府方・興福寺一乗院の追手から逃れたと記されている。本堂内には、これがその経箱だという古い唐櫃 からびつ まで展示されている〔撮影禁止〕。しかし、建物が経蔵でなかったとすると、この逸話はどうなるのか? 寺の説明では、あくまでも「元版・一切経」を収蔵した経蔵だというのだが。。。
ともかく、この寺と護良親王との関わりは、この逸話に限らず深い。そのことには、のちほどまた触れよう。
「笠塔婆」↓。
「西国三十三所観音石仏」、1702年造立。
境内には、他にも無数の石仏が草叢に隠れるようにして置かれている。それらの来歴を記した説明札:
石仏群の受難は、明治の「廃仏毀釈」が最初ではなかったのだ。まさに、「諸行無常 寂滅為楽」というべきか。
「般若寺」は、鎌倉時代に真言律宗の叡尊によって中興された。叡尊と言えば、文殊師利菩薩と行基を崇拝し,非人,ライ病者,貧民の救済に専心した忍性の影響のもと、自らも被差別民の扶助に尽した(⇒:東アジア仏教史(8)【25】)。「般若寺」に潜伏した大塔宮に関しても、つぎのような考察がある:
「元弘元年(1331年)大塔宮が般若寺に篭っていると聞いた興福寺一乗院の按察法眼好専が五百騎の兵を率いて般若寺の探索に来る。大塔宮が般若寺に流れたのは、農村は人の目が届きやすいのに対して、村落から外れた河原・道路・市場・寺堂など、商人や芸能民・法師・山伏などの下層民の生活場所は彼らが常に動いているために、人間関係がルーズで世間の目が届きにくかったからであると考えられる。また、般若寺周辺は非人の宿であった。当時の非人は強力な武力と情報力を持っており、中でも奈良坂の宿は京の清水坂と双璧を成す非人集団の本宿であったため、大塔宮はこの非人の力を頼りにしたとも考えられる。
大塔宮は本堂にあった大般若経の空の経箱に身を潜めた。按察法眼好専の兵の一人が経の入っている経箱をひっくり返して調べたが、大塔宮は居なかった。探索を終えた兵の一人が、もう一つの経箱を調べていないことに気付き、何人かの兵と戻った。気配を感じた大塔宮は先程調べた経箱に移動し篭っていた。兵は調べていなかった経箱をひっくり返して調べたが、今度も大塔宮は発見できなかった。とっさの機転で大塔宮は命拾いし、家臣達と共に熊野を目指して出発する。」
wiki「護良親王」 .
中世の「般若寺」周辺は、「奈良坂の宿」と呼ばれる非人の中心的な居住地だったのだ。「般若寺」の「楼門」が面する「京街道」を 500m ほど北上するとある「奈良豆比古 ならつひこ 神社」も、非人集団にかかわる「竟 い の神」を祭神としている(⇒:続やまのべ(7);かむながらのみち)。行基,文殊菩薩,忍性,叡尊,大塔宮,非人,ライ病者,竟の神,‥‥これらはみな、「無縁」「アジール」にかかわる徴表と見ることができる。それぞれの記述が、至るところで「無縁」「アジール」を結節点として符合することに驚く。
「般若寺」から「京街道」を南に 400m ほど往くと、「北山十八間戸 けんこ」↓が保存されている。鎌倉時代 1243年に忍性が設けたライ病者救済・保護施設だ。もとは「般若寺」の北東にあったが、1567年に松永久秀らの市街戦で焼失し、1670年頃ここで再建された。「北山十八間戸」は、ライ病者のための施設として、明治の「廃仏毀釈」で廃止されるまで活動した。現在の建物は、大正時代 1921年に史跡指定されたもの。
タイムレコード 20251220 [無印は気圧高度]
(14) から - 1135「般若寺」[117mGPS]1229 - 1237「北山十八間戸」[103mGPS]1247 - 1251「東之坂町」バス停[96mGPS]。
踏査記録⇒:YAMAP
つぎは、天理市の北に移る。「石上神宮」と「白川ダム」のあいだで、古墳をいくつか見落としていた。
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
JR「櫟本 いちのもと」駅から東へ向かうと、まず「和爾下神社」がある。
社殿↓は、古墳の後円部の上に建てられている。4世紀末~ 5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の前方後円墳で、墳丘の裾で円筒埴輪棺と,石棺ないし石室の石材が出土している。ちょうど、氏子方が正月の飾り付け作業の最中だった。
被葬者は「和爾氏」の首長ないし眷属と推定され、また、この神社は「和爾氏」の氏神だった。奈良時代には周辺一帯は東大寺領・櫟本庄で、769-770年には延べ 1万人余りを動員して用水灌漑工事が行なわれた。平安時代には「延喜式内社」に列せられている。
参道には、「山辺の路」にかかわる・れいの「影媛」伝説を記した碑もある。
石上 いそのかみ 布留 ふる を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅 おおやけ 過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾 そぼ ち行くも 影媛あわれ
『日本書紀』巻16, 武烈前記 .
神社のある墳丘後円部を下から見る:
さらに東へ向かうと、「シャープ総合開発センター」の手前に「赤土山古墳」が現れる:
タイムレコード 20251220 [無印は気圧高度]
1350「櫟本」駅[68mGPS]1404 - 1431「和爾下神社」本殿[92m]1435 - 1447「赤土山古墳」[113m]1525 - (16) へつづく 。


































