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赤い線(下方)は 11月11日の   , 

青い線(下方)は 11月12日の ,

赤い線(上方)は 11月14日の ,

青い線(上方)は 11月15日の ,

各軌跡。.

 

 

青い線は 11月12日,赤い線は 14日の軌跡 .

 


 「三月堂」「二月堂」の奥に「不動堂」がある。そっちへ上がっていく。「大仏殿」のほうへは下りて行かない。

 

 

 


 「不動堂」からさらに上がり、「二月堂」の奥・斜面を北上する道がある。付近の山林には多数の石仏が散在する。「二月堂」の屋根越しに「大仏殿」が見える。

 

 「東大寺」を足下 そっか に見下 くだ す。「やまのべ」本領発揮の秋 とき だ。

 

 

 

 

 急坂を降りると、まんなをし地蔵」がある。

 


 

 


 「まんなをし〔直し〕」とは、コトバンクによると「漁がないとき、漁民たちが酒宴などをして大漁を祈願すること」。「まんを持す」に通ずる表現か。奈良県観光局の公式サイトでは、「悪い廻り合わせを直し、運気を上げ」る地蔵だと説明している。

 

 線刻の石仏がある。これが「まんなをし地蔵」? ほかにも、摩滅の著しい石仏が多数寄せられている。

 

 

 

 

 トイメンには神社があるが、「まんなをし地蔵」との関係は不明。

 

 

 

 

 

 鳥居の額に掲げられた3柱とも、見なれない神名。「まんなをし」は漁民の関係だったが、「白龍大神」もその関わりか? 天地悠久さんのところにも格別な情報はないようだ。私の想像では、東大寺との関わりはまちがえないだろう。いずれかの時代の留学僧が中国から持ち帰った道教関連の神格ではないだろうか

 

 そこから、「若草山登拝路」を昇っていく。途中から立入禁止になるが〔ゲートで入山料を払った奴以外は登るなということ〕、私は若草山へ行くのではないから、その手前で山林に入る。

 

 クヌギ,クリなどの広葉樹林。下生えにヤブニッケイなどの常緑樹。本来は照葉樹林だが、頻繁に人の手が入って伐採を繰り返してきたということだろう。

 

 

 

 

 

 目的地は、ここだ↑。「天地院」址。右に見える防災用貯水槽を設置するための調査で、1990-92年に、塔の基壇と土器片,和同開珎などが検出され、『東大寺要録』に記録のある「天地院」の跡と判明した。

 

 708年、山岳修行を終えた青年僧行基は、ここに草庵「天地院」を建てて、民衆への布教を開始した。「東大寺」の前身「金鍾寺」が若草山麓に創建される 25年前のことだ。

 

 708年といえば、「平城京」の造営が始まった頃だ。それまでは街道筋で、行倒れ「調庸」運搬夫の救済に尽くしていた行基は、ここに居を設けて工事役夫の救済に乗り出した。日本最初の大規模都城の建設は急ピッチで進められ、重い資材の運搬や、厳しい土木労働に耐えられず斃れる人びとが相次いでいたことだろう。行基は、布教以上に、衣食の付与,傷病の看護と冥福祈願に忙殺されたにちがいない。そうして献身することこそが修業にほかならないと、行基は確信するに至っていた。

 

 やがて、彼のもとには、その救済活動に協力する人びと、彼を中心に信仰結社を組織する人びとが集まり、20年後には1万人の信者を集めて集会を繰り返すようになる。「調庸」運搬夫や工事役夫から脱落した人びとは流民化して「平城京」に滞留するようになり、彼らの一部は「行基集団」に吸収されていったと思われる。

 

 730年、朝廷は勅を発して、「京〔平城京〕に近い東の山原に、数千人~1万人を集めて妖言を吐き、民衆を惑わしている者がいる。これは法律に反することであるから、決して許してはならない」と、「行基集団」の鎮圧を命じるに至った。(⇒:聖武と行基集団(18)【57】)

 

 行基が「1万人集会」を開いた「京の東の山原」とは、どのへんだろう?「天地院」の場所は山中の平たんな場所だが、1万人もの人が集まれる広さはない。まして、当時は鬱蒼とした森林であったと思われる。むしろ、もう少し下のほう、現在、東大寺や奈良公園があるあたり、鹿が生息する緩やかな草原斜面に、おおぜいの群衆が集まって説教や唱和の声を挙げていたことが、朝廷貴族を震え上がらせたのではないだろうか。

 

 

 

 

 下りは、「立入禁止」札のほうへは戻らず、斜面をまっすぐに進んで降りてみる。地形図の実線路が、今ではヤブに埋没している↑。しばらくヤブを掻き分けていると、道形が見えてきた。路肩が木材で保護されている。もとは、しっかり造られた路だったことがわかる。

 

 

 

 

 クヌギ,クリの雑木林に、色づいたミズキ,イタヤカエデなどが混じる。常緑喬木もある:タブノキ↓。

 

 

 

 

  「大仏殿」が正面に見える眺望スポット。

 


 

 

 ここで、「山辺道」に戻る↓。

 

 

 

 

 

 「知足院」の白壁の周りを半周していく形になる。「知足院」は、東大寺の塔頭 たっちゅう で、平安初期〔890年〕の創建。天然記念物ナラノヤエザクラがあるが、寺全体が非公開。

 

 

 


 

 空海寺」。↓

 

 

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 「空海寺」は、空海の草庵が起源。東大寺の歴代僧侶と寺族の墓がある。標柱にある「阿那地蔵」は空海が彫ったとされる石仏で、境内の石窟に安置されているらしい(秘仏)。本堂の左手の地蔵石像は「地蔵十王」で、「矢田寺 やたでら」にあったのを明治時代に移したもの。

 

 

 

 

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 「五劫院 ごこういん」↑は東大寺の末寺で、重源 ちょうげん が宋から将来した阿弥陀仏像〔木造五劫思惟阿弥陀如来坐像〕を本尊として創建された。重源〔1121-1206〕は、を3回訪れた入宋僧で、後白河法皇との繋がりをもとに「勧進 かんじん」経済活動で活躍した。1181年には、平重衡の焼打ちで荒廃した東大寺の再興を法皇に進言、「東大寺勧進職」に任命されて経済事業家の手腕を振るった。

 



 


 奈良県の公式ウォークルートにしたがって進むと、「蛭子橋 えびすばし」↑で佐保川を渡る。奈良県の地図には、この橋だけが書いてあって、いったい何の意味があるのか分からない。事前に調べたところ、佐保川に沿って 200メートルほど行ったところに「蛭子神社」があり、橋の名はそこから付けられたらしい。そこで、「蛭子神社」に寄ってみることにした。

 

 

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 狭い境内に、「蛭子 えびす 神」を中心に幾柱もの神々の祠が立っており、とても賑やかだ。

 

 「ひるこ」と書いて、なぜ「えびす」と読むのか? 「蛭子 ひるこ」は、イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神であるのに、『古事記』によれば「良くない子」なので葦舟に乗せて流してしまったと。『日本書紀』によれば、3歳になっても脚が立たなかったので「天磐櫲樟船 あめのいわくすふね」に乗せて流した。

 

 ずいぶん残酷な話だが、これじたいは、wiki によれば世界各地の神話に見られるプロットなのだそうだ。食糧が不足しがちな原始時代にあっては、人口抑制のための知恵だったのかもしれない。

 

 むしろ注目すべきは、日本中世におけるその変形だ。『記紀』を離れて民間伝承になると、「蛭子」は流れた先で立派に成長を遂げる。『源平盛衰記』では、「海を領する神」となって西宮 にしのみや に現れる。室町時代以降は、「海のかなたから流れ着いた子を養育すると福をもたらす」という「蛭子福神伝承」が各地で生まれ、「ひるこ」は「恵比寿神」と同一視されるようになる。身障者であるがゆえに、養育者に報恩する神の能力をもつ。こうして、海洋民族に特有の信仰が形成された。それは、「アジール」,「竟 い の神」,非人・ライ病者救済とも繋がる文化現象なのではないだろうか?

 

 当地の「蛭子神社」は、「ならまちの芸妓」の信仰を集めていたそうだ。その点でも「アジール」につながる(前回の「不空院」参照)。

 

 「蛭子橋」に戻って、「ウォークルート」を先へ進むと、台地の上に上がる。そこからの風景がなかなかいい。川は佐保川。山は「若草山」のようだ。こちら側からだと樹林におおわれているので、こんなふうに見える。

 

 


 

 通りがかりに「般若寺」楼門↓。鎌倉時代〔1267年〕の建築。「般若寺」は奈良時代の創建と見られるが、信頼できる文献がなく、明らかでない。平重衡の焼打ちで荒廃したあと、鎌倉時代に叡尊によって復興され、以後、真言律宗の寺となった。

 

 「般若寺」の入口は反対側なので、ここからは入れない。「コスモスの寺」と言われる花の名所で、1253年造立の「十三重石宝塔」があるそうだ。行ってみればよかったかもしれない。

 

 

 

 

 しかし、寺以上に重要な史跡は、いま歩いているこの道だ。京都方面からは「奈良街道」、奈良からは「京街道」と呼ばれる・この古道は、平城京の東端、興福寺と東大寺の境界の延長で、山城國と大和國を結ぶ古代以来の幹線なのだそうだ。沿道には、昭和戦前期からと思われる古い店舗も残っている〔看板は、「有馬米酒店」〕

 

 

 

 

 「西福寺 さいふくじ」↓は、創建時期不明だが、本尊の阿弥陀如来立像をはじめ5体の平安後期の木造仏を保持する浄土宗の寺院。周辺の廃寺の仏像を集めたものとも言われる。

 

 

 

 

 本堂。本尊の阿弥陀如来を安置。
 

 

 

 

 薬師堂。薬師如来を安置。

 

 

 

 

 「西福寺」に隣接して 奈良豆比古 ならつひこ 神社」がある。前々回の「白毫寺」は志貴皇子の山荘を寺にしたものだったが、ここは、志貴皇子晩年の病気療養場所であり、皇子はここに葬られた。「奈良豆比古神」,志貴皇子,春日王〔志貴皇子の子〕を祭神とする。「奈良豆比古神」は、当地〔佐保,奈良山〕の産土神 うぶすながみ。なお、詳しい議論はこちらにあり、「竟 い の神」,ハンセン氏病など、たいへんに興味深い内容。

 

 一の鳥居↓。


 

 

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 二の鳥居↓。

 

 

 

 

 拝殿↓。

 

 

 

 神殿(本殿)↓。

 

 

 

 

 隣接地に池があり、弁財天などの摂社がある。

 

 

 

 


 つぎの訪問先は「元明天皇陵」なのだが、行き着くまでに右往左往してしまった。地形図には、「奈良豆比古神社」から「元明天皇陵」に通じる実線路が記されているのに、行ってみると途中で路が消えているのだ。けっきょく、「西福寺」の手前まで戻って、大きく迂回することになった。新興住宅地のなかをくねくねと経めぐったあげく、ようやく「」らしきものが見えてきた。

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20251114 [無印は気圧高度]
 (6) から - 1051「手向山八幡宮」表口[129mGPS] - 1059「不動堂」前[146m]1126 - 1110「まんなをし地蔵」[152mGPS] - 1124「天地院」址[208mGPS]1134 - 1149車道に出た[183mGPS] - 1203「山辺道」合流[114mGPS] - 1208「知足院」南門[108mGPS] - 1214「知足院」入口[107mGPS]1520 - 1221「空海寺」[92mGPS] - 1227「五劫院」[93mGPS] - 1229蛭子橋※[95mGPS] - 1243「蛭子神社」[101mGPS]1311 - 1313蛭子橋※ - 1323般若寺町「セブンイレブン」[108mGPS]1326 - 1330「般若寺」楼門[114mGPS]1334 - 1344「西福寺」[119mGPS] - 1348「奈良豆比古神社」[119mGPS] - 1426元明天皇陵[90mGPS]1433 - (8) へつづく 。

 

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