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赤い線(下方)は 11月11日の   , 

青い線(下方)は 11月12日の ,

赤い線(上方)は 11月14日の ,

青い線(上方)は 11月15日の ,

各軌跡。.

 

 

 


 「白山比咩神社」から「八坂神社」まで、沿道に目立つスポットはないが、何もないというわけではない。

 

 

 


 道は、棚田の頂点を進み、棚田の向こうには奈良盆地の田園市街が広がる。↓進路の右手、山側では、紅葉している樹もある。

 

 

 

 

 つぎの集落は「藤原町」↓。

 


 

 

 集落を過ぎた処に説明板がある。なるほど、だてに「藤原」を名乗っているわけではなかった。

 

 

 

 

 

 ここには、飛鳥時代に中臣国足〔鎌足のイトコ〕が創建した寺があった、ということだ。礎石なども、しっかりと残っている。この色づいた藪の中にあるのだろう。古い時代に建てられ、廃されて忘れられてしまっている寺は、意外に多いということだ。

 

 紅葉しているのはハゼノキ。ウルシほどではないが、かぶれるので要注意。

 

 

 

 


 自衛隊の射撃訓練場の前を通る。人を撃つのも結構だが、クマを撃つ練習をしてくれないだろうか。

 

 

 

 

 道は、大きめの溜池の堰堤に上がる。そこが、棚田の頂点だ。ここは「鹿野園 ろくやおん」という場所らしい。

 

 

 


 

 

 

 

 「鹿野園」という地名は、たんに鹿が多いということではない。

 

 シャカは、ブッダガヤの菩提樹〔正確には、ピッパラ樹〕の下で正覚〔悟り〕に達したあと、獲得した宇宙の真理を他人に話すかどうか悩んだが、広く人びとに知らしめようと決意すると、ベナレスの郊外サールナートに5人の修行仲間を集めて最初の説法(初転法輪)を行なった。サールナートは、鹿が多く生息するのでムルガダーヴァ〔鹿野苑〕と呼ばれる。説法を聞いた5人もまた解脱して、シャカとともに阿羅漢〔最高の真理を会得した者〕となった。以後、サールナートは、仏教の聖地として、巨大仏塔「ダーメーク・ストゥーパ」,「初転法輪寺」,アショカ王の四獅子石柱などが建てられ,現在は国立遺跡公園となっている。

 

 菩提僊那 ぼだいせんな は、736年に来日して「大仏開眼供養」を指導したインド僧で、この場所の地形がインドのサールナートに似ているとして「鹿野園」と名づけた。「鹿野園」には、鑑真の弟子の中国僧が創建したという「梵福寺」が、江戸時代まで存在した。

 

 説明板にある奈良市北東部の地名:忍辱山,誓多林,大慈山,菩提山は、後世の各寺院開創によるもので、菩提僊那の「鹿野園」と関係はないようだ。

 

 池畔には、万葉歌碑もある:

 

 


 

 狩高 かりたか の 高円山を高みかも 出 い で来る月の 遅く光 て るらむ

『万葉集』6-981, 大伴坂上郎女 .

 


 「高円山 たかまどやま」が高すぎるから、月がなかなか出て来られない、ということで、奈良時代の常磐炭坑節?

 

 

 

 

 池を離れるとまもなく八阪 やさか 神社」。この神社も「鹿野園町」のなかにある。「八阪神社」は各地にあるが、スサノオノミコトを主祭神とする神社だ。

 

 

 

 

 


 高円山」が見える。右奥の丸い山。

 

 

 

 


 そして、万葉歌碑。

 

 


 

 

 高円 たかまど の 秋野のうへの 朝霧に 妻呼ぶ牡鹿 をしか 出でたつらむか

『万葉集』巻20-4319, 大伴家持 .

 

 

 抒情性に優れたこの歌は、最近もテレビの話題になった。が、この「高円の秋野」は、平城京の時代からインド僧,中国僧など外国からの来訪者を敬愛して迎えた地だ、ということは付け加えておきたい。

 

 ここから「白毫寺 びゃくごうじ」まで、「山辺道」と「東海自然歩道」のルートが分かれるが、山のほうへ上がっていく「自然歩道」ルートにする。

 

 

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 たちまち、こんな倒木が道をふさいでいる。アラカシクヌギ,クリ,コナラミズキスギなどの混淆林。

 

 


 

 ナンキンハゼ。中国原産。庭木から野生化したのか?

 

 

 

 

 

 

 まもなく、溜池の畔で車道に出る

 

 

 

 

 

 

 このまま下れば「白毫寺」かと思ったら、寺の裏からは入れない。いったん下まで降りてから石段を昇り返すことになった。

 

 

 

 

 

 この、くずれかけた雰囲気がいい。

 

 

 

 

 白毫寺」の創建は、志貴皇子の山荘を寺にしたものと伝えられる。鎌倉中期に、真言律宗叡尊が再興している。

 

 志貴皇子天智天皇の第7皇子で、持統天皇,元明天皇の弟だが、叙位・叙官を受けることが少なく不遇で、文化人として生きた。『万葉集』にも6首の秀歌を遺している。たとえば:

 


 石 いは ばしる 垂水 たるみ のうへの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも

『万葉集』巻8-1418, 志貴皇子 .

 

 

 本堂↓。

 

 

 


 御影堂↓。

 

 

 

 

 石仏不動明王↓。鎌倉時代の作。

 

 

 

 

 ほかにも石仏が多い。

 

 

 


 

 

 


 

 裏庭から、平城京全域を眼下に収めることができる。

 

 

 

 

 


タイムレコード 20251112 [無印は気圧高度]
 (4) から - 1110「白山比咩神社」[106mGPS]1126 - 1203「鹿野園町179番地」の溜池[139mGPS]1214 - 1217「八阪神社」[145mGPS]1222 - 1318「白毫寺」[166mGPS]1410 - (6) へつづく 。