「#日本史」人気ブログランキング

赤い線(下方)は 11月11日の   , 

青い線(下方)は 11月12日の ,

赤い線(上方)は 11月14日の ,

青い線(上方)は 11月15日の ,

各軌跡。.

 

 

 


 「白毫寺」の山門を出る。

 

 

 


 もう「若草山」が間近かに見える。斜面が草紅葉になっている。

 

 

 

 

 このあたりからは奈良市の市街地で、寺社も急に増える。「宅春日 やけかすが 神社」↓。

 


 

 

 

 「春日大社」の創建に関係する社伝をもつ。表てから写真を撮っただけなので、関心のある方はこちらを。手前が拝殿で、奥の朱塗りが神殿。格子戸や柵が重なっているのでガードが固いと思うかもしれないが、むしろ開放的だと思う。関東でふつうに見かける神社はみな、拝殿が視界をふさいでいて神殿が見えない。神殿を隠されながら、お賽銭だけ入れて行けと言われているわけで、私には権威主義に思えるのだが。。。。このあとの奈良の神社はみな、この「見通せる」拝殿だった。

 

 「春日山〔御蓋山〕が近づいてきた。

 

 

 

青い線は 11月12日,赤い線は 14日の軌跡 .

 

 

 「新薬師寺」南門(鎌倉時代築)。

 

 

 

 

 「新薬師寺」は、聖武天皇〔一説には光明皇后〕の創建と伝える。諸國国分寺・国分尼寺建立に先立つ諸國「七仏薬師像」造立の勅〔745年〕にかかわるようだ。たびたび兵火に遭って、現在の敷地は狭いが、国宝,重文の仏像,建物が目白押しの状態だ。「本堂」↓は奈良時代の建築。

 

 

 

 

 「地蔵堂」(鎌倉時代築)↓。

 

 

 

 

 「香薬師堂」↓。白鳳時代作の「銅造薬師如来立像〔通称「香薬師」。1943年盗失〕を納めていた。今は摸像がある。

 

 

 

 

 

 附属の庭園に池があり、閑静でよかった。弁天堂や石仏が周囲にある。

 

 


 

 

 

 「新薬師寺」に隣接してあるのが「南都鏡神社」。8世紀半ばに「頭塔 ずとう〔後出〕の近くに創建されたが、806年に移って来て「新薬師寺」の鎮守社となった。「鏡神社」は、佐賀県の唐津に本社がある神社で、「藤原広嗣の乱〔741-2年〕で刑タヒした藤原広嗣を祭神とする。「怨霊」信仰(祟り信仰)までいかないが、朝廷のために非業のタヒを遂げた霊を鎮める趣旨といえる。

 

 

 

 

 

 朱塗りの神殿は、「春日大社」本殿「三之殿」を 1746年に移築した春日様式で、前々回に見た「嶋田神社」(崇道天皇社)本殿〔1727年頃移築〕より1式年〔春日大社の本殿建替え周期=20年〕あとの建築になる。

 

 「山辺道」の街路を進むと、すぐに次のスポット「不空院」に至る。不空羂索 ふくうけんじゃく 観音〔鎌倉時代作,13世紀〕が本尊なので、そう号するらしい。

 

 『菅家本・諸寺縁起集』〔15世紀中頃編纂〕によると鑑真の住房を寺にしたものだという。だとすると創建は奈良時代だが、近時の復興は、「廃仏毀釈」で打撃を受けた後の大正時代で、古い時代のことはあまりよく分かっていない。私の感じでは、中世に叡尊の「真言律宗」に影響を受けて「アジール」「無縁」の性格をもったのではないかと思う。

 

 

 

 .

 


 「不空院」が訛った「福井」が、この場所の旧地名になったという。そして、寺は「福院」と呼ばれる「かけこみ寺」「女人救済の寺」であった。つまり「アジール」の機能を果たしていた。江戸時代には、「奈良町の芸妓」たちの信仰を集めた。「縁切り寺」でもあったようだ。これらは、ひとつながりのことがらと思える。

 

 

 

 

 本堂↑の脇に立つ鳥居が気になる。2基の小祠が置かれていて、一方は「縁結びさん」、もう一方は「縁切りさん」と表示されている。

 

 

 


 「縁切り」でも「縁結び」でも好きなほうを願ってよい。どちらを願ったかは本人だけの秘密、誰にもわからないから安心せよ、ということなのだろうか? ご丁寧に、狛犬でもキツネでもなく、あ・うんの狸が、祈願の秘密を守っている。向って左が「あダヌキ」、右が「うんダヌキ」。

 

 

 

 

 .

 


 この、おどけたような欺きの表情が、「無縁」「アジール」の感性ではないだろうか?「アジール」には、生命を賭した集団的抵抗の面もあれば、こういう面もある。道化を装って権力者を風刺した「狂言」にも通じるのではないだろうか。

 

 しばらく進んでいくと「春日大社」の森に突き当たるが、その手前で大きく迂回して破石町の「頭塔 ずとう」を見ておこう。

 

 


 

 

 

 残念ながら道路からでは見えない。鍵を開けてもらって中に入るには、手続きが面倒そうだ。ようやく公開されたと聞いたから来てみたが、観覧は諦めるほかないか。。。 と思って戻りかけた時、思わぬ僥倖に恵まれた。バス停から、「頭塔」の上半分だけ見えるではないか↓。〔樹叢の下〕

 

 

 .

 

 

 なにぶん、もう夕方で光の向きが悪い。今度は午前中に来よう、と思い定めて、長い登り坂を「山辺道」へ戻る。

 

 

 

 

 ↑左の・紅葉した森が「春日大社」の境内。↓本殿。

 

 


 

 ここまで来ると、急に人が多くなる。きのう「弘仁寺」を出てから、きょう「白毫寺」に入るまで、他の参拝者にも巡礼歩行者にも往き会うことさえなかったが、ここはまるで別世界のようだ。特に欧米系の集団が目立つ。“聖界” とは信じないまでも、何か特別な場所だというアジア的感覚が、彼らには無いのだろう。


 鳥居をくぐるたびに最敬礼するとか、やりすぎだし、私はそんなことはしないが、アジア系の観光客なら、鹿と向き合って何度もお辞儀をし合ってるとか〔鹿は、せんべいが欲しいからやっているのだが〕、よく見かける。しかし、欧米系の来訪者からは、そうした親しみの感覚が感じられないのだ。私たちとは、何か本質的な観念の違いがあるように思ってしまう。

 

 

 

 

 

 きょうの旅は、ここで終点としよう


 

 


タイムレコード 20251112 [無印は気圧高度]
 (5) から - 1318「白毫寺」[166mGPS]1410 - 1421「宅春日神社」[129mGPS]1426 - 1438「新薬師寺」「鏡神社」[129mGPS]1510 - 1514「不空院」[131mGPS]1520 - 1533「頭塔」[104mGPS] - 1538「破石町」バス停[109mGPS]1546 - 1608春日大社本殿[149mGPS]1616 - 1620「若草山麓」分岐点・トイレ※[139mGPS]1625 - 1630「フォーラム甍前」バス停[118mGPS]。

 

 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

 

 

青い線は 11月12日,赤い線は 14日の軌跡 .

 

 

 14日の行程グラフ↓。1日休んだ(博物館へ行った)ので、スピードはやや回復している:

 

 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 まず、「頭塔」を撮りに行く。「破石町」バス停から見えるのを、きのうマークしておいた。

 

 

 

 

 「頭塔〔767年築〕は、仏塔(ストゥーパ)の一種で、高さ 10メートル・7段の方形・階段状ピラミッド。土を積み上げて石垣と瓦屋根を葺き、東西南北の4面に 44体の石仏を配している。日本の寺に多い「五重の塔」「三重の塔」などもストゥーパだが、それらは木造。土造のストゥーパは日本では少ないが、奈良時代には数例造られている。他の例である行基の「土塔」は復元されている。

 

 幸運なことに、ちょうど駐車場の扉が開いたので、かなりの部分を撮すことができた。
 

 

 

 

 「雪消澤 ゆきげのさわ」↓。伏流水が湧き出て作っている池で、早春の若菜摘 つ みの名所として古歌に詠まれている。

 


 春日野の 雪消の沢に 袖垂れて 君がためにと 小芹をぞ摘む

藤原仲実〔1064-1122〕 .

 

 

 春来れば 雪消の沢に 袖垂れて まだうらわかき 若菜をぞ摘む

『風雅和歌集』〔1349年頃〕 .

 

 

 

 

 

 奈良公園は、きょうも人出が多い。↓若草山麓の十字路まで上がって「山辺道」に合流し、きのうの行程とつなぐ。

 

 

 


 若草山」登山口のゲート。ここで入山料をとられるらしい。こっちから登ったことがないので、いくらなのか知らないが。

 

 

 


 「手向山八幡宮」に裏口から入る。

 

 

 

 

 表口から出る。

 

 

 

 

 手向山八幡宮」のイチョウ

 

 

 

 

 「二月堂」「三月堂」前。ここは、いつ来ても学校の団体が多い

 

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20251114 [無印は気圧高度]
 957「破石町」バス停[109mGPS]1005 - 1009「表参道」バス停[108mGPS]1012 - 1025「若草山麓」分岐点※[140m]1027 - 1028「春日山」登山口ゲート[145mGPS] - 1036「手向山八幡宮」裏口[132m]1039 - 1051「手向山八幡宮」表口[129mGPS] - 1059「不動堂」前[146m]1126 - (7) へつづく 。